A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

【歴史から学ぶ】 恐怖の天然痘とワクチン=幕末期の日本人たち(中)

 老中首座(内閣総理大臣)の阿部正弘といえば、嘉永6(1853)年、ペリー提督が浦賀に来航し、翌年には日米和親条約など5か国と開国条約を結び、開国、通商への道筋をつくった。大半の認識がこのように政治史としてみるのが一般的である。

 疫病は恐怖であり、国家・政治を変える大きな出来事にもかかわらず、歴史は後世からみるので、政治的な要素に偏り、疫病史の存在は薄くなり、片隅に追いやられてしまう。

 幕藩体制の下、260藩はそれぞれ別の支配である。日本全土を統一した防疫システムなどまったくなかったようだ。
 約5割の乳児が喉に天然痘の水泡が広がり、母親から哺乳できずに死亡した。治療薬はないし、祈祷頼みである。産まれるそばから、葬式である。ゼロ歳から3歳まで無病は至難の業だった。
 生き残った子も顔面に痘痕(あばた)で婚姻の条件が悪く、失明すれば将来は按摩の道にかぎられてくる。
 天然痘など感染症は、親も巻き込まれた一家全滅も珍しくなく、村社会の崩壊もあった。それゆえに、天保時代まで日本人の人口が伸びない理由の一つに、疫病のまん延があった。
 
 阿部正弘が満25歳から老中首座になった弘化2年から、安政4年に享年39歳で亡くなるまで、約14年は戦争はなかった。しかし、東海大地震、安政江戸大地震、江戸大火災、さらにコレラ・天然痘・腸チフス、赤痢など感染病の大流行に遭遇している。
 こうした背景の下で、阿部正弘が政治のトップとして天然痘ウイルスの種痘にも取り組んでいる事例がある。2つの事象を挙げてみたい。
 

 文政11(1828)年のシーボルト事件から、漢方医(東洋医学)の勢力が強大で、奥医師(将軍の侍医)を独占し、幕府の医療行政に強い影響力を与えていた。漢方医の政治工作は水野忠邦、阿部正弘へと続いていた。
 漢方医は嘉永2(1849)年、阿部正弘に「蘭書翻訳取締令」、「蘭方医禁止令」(外科と眼科など外部治療は除外)などをださせた。

           *
 
 福井藩の町医者・笠原良策が先立つこと、弘化3(1846)年に藩主の松平春嶽に、牛痘種の輸入を上伸していた。春嶽は却下した。
 嘉永元(1848)年に、笠原が2度目の上伸をおこなった。春嶽がそれをもって老中首座の阿部正弘に申し出たのである。

 阿部正弘とすれば、漢方医の医療行政への働きかけで「蘭方医禁止令」への圧力をかけられていた最中である。それを承知で、阿部は長崎奉行の大屋明啓(みつよし)に指図し、正式な長崎ルートで牛の種痘導入の許可を与えたのだ。
 
             *   

 嘉永元(1848)年、オランダ東インド陸軍軍医のモーニッケ(ドイツ・ボン大学医学部で学ぶ)が、依頼された牛の種痘をもって長崎の出島に来日した。長い100日間の航海で、失活(効力をなくす)していた。
 翌2(1849)年6月に、バタヴィア(現インドネシア)から、ふたたび牛痘苗が運ばれてきた。

「写真資料は、佐賀県立病院好生館蔵」
 
 モーニッケが鍋島藩の藩医・楢林宗建(そうけん)の3人の子どもたちに接種した。すると、三男・健三郎から美痘が生じた。
 このたった一人に成功した痘種から、長崎の子どもら381人の腕から腕へと伝播(でんぱ)されたのである。       
   
 この年に「蘭方医学禁止令」がだされた。ところが、長崎でたった一つの成功した牛痘からわずか半年で京都、大阪、福井、江戸と順番に広がっていった。全国の蘭方医が次々に接種の技術を学び、日々にたずさわり、子どもの腕に痘苗を植えつけていった。
 牛痘という新しい予防接種が日本に普及していった。

 その背景には阿部正弘の高所からみた政治判断と、長崎で学んだ蘭方医(オランダ医学者)たちのレベルが高かったことがある。
 モーニッケは、幕府が秘かに鼓舞し支援したにせよ、衛生上の義務をつくらなくても、日本人の親たちが「わが子に種痘を」と進んで種痘を植えつけさせた。だから、大成功したのだと記録している。

 明治10年に、米国人のエドワード・モース(大森貝塚の発見者)が、これに類似したことを記している。
『外国人の筆者で一人残らず一致することがある。日本は子供たちの天国で、この国の子どもたちは親切に扱われ、他国のいずれよりも、自由をもっている。日本人に深くしみ込んだ特性である』。子どものためならば、何をさておいてもやる民族らしい。

 福井藩の町医者・笠原良策が、結果として阿部を動かし、難儀な「雪の栃ノ木峠」を越え、痘苗を福井上下に持ち帰ってきた。そして、越前、金沢、富山へと伝播していく。いかなる子も助ける、日本人の一途な精神だろう。
 

  
 当時の蝦夷(現・北海道)は、幕府直轄領だった。阿部正弘は、箱館奉行の村垣範正(のりまさ)を任命した。
 1807年に、和人との海の交易で運ばれてきた天然痘が大流行したとき、アイヌ総人口の4割強が死亡している。その後も、アイヌの間に大規模な天然痘の流行がなんども発生した。そのたびにアイヌ人口は減少していった。

 安政2年から、ふたたび天然痘が流行しはじめた。奉行の村垣は、江戸の阿部正弘に種痘のできる医師の派遣を要請したのである。それを受けて、蘭医の桑田立斎(りゅうさい)と深瀬洋春らが蝦夷に派遣された。

 そして、国後島にまで至るまで、大規模かつ強制的な種痘が行われたのだ。
「牛の角が生えてくるぞ」とアイヌ人は山中に逃げ込んだという。かれらには恐怖を感じると、山に逃げるという習慣があった。
 現地の役人は、山狩りによって強制的にアイヌ人を連れもどし、接種を実施させたのだ。
 このとき、アイヌ人口の半数が種痘を受けたと伝わる。五千人とも六千人ともいわれている。

 これが世界初の、天然痘根絶のための強制・義務による予防接種(種痘施術)である。天然痘の流行は二年ほどでおさまり、多くのアイヌの命が救われたと記録されている。

 写真・イラスト=ネットより引用

【つづく】

「フクシマ(小説)・浜通り取材ノート」トップへ戻る