A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

フクシマ・楢葉町の人口は6%=5年放浪は心労の極み

 フクシマ原発事故の関連取材は、約10回くらい行っている。ここ3年間は棚上げだった。その理由としては、浜通り取材のさなかに、福島・浜通り(現在の原発通り)で、戊辰戦争の激しい戦いがあったと知った。幕末歴史小説「二十歳の炎」(広島藩を知らずして幕末史を語るなかれ)として執筆し、出版した。
 その直後には、祝「山の日」が国会で成立し、その関連で、山岳歴史小説「燃える山脈」の取材・執筆へと注力してきた。昨年10/1から今年(2016)5/31まで、松本市「市民タイムス」に新聞連載(計240回・毎日)し、6月には単行本の出版を予定している。


 それら執筆の区切りがついたので、あらためてフクシマ第一原発関連の取材再開である。3月27日に福島県・楢葉町に入った。
 楢葉町は放射能の除染がすすみ、2011年3月11日の東日本震災から数えて、1638日経った昨年(2015)年9月5日に、4年6ヶ月ぶりに避難指示が解除されている。大震災の前年の人口は、7701人だった。
「帰還者は全人口の6%です」
 最初の訪問者・會子さん(60代)が語ってくれた。
 彼女と落合った場所は、楢葉町の海岸の天神岬である。眼下には木戸川と広野火力発電所が見える。
「よく助かりましたね。奇跡ですね」
 大地震が発生した瞬間、彼女は防潮堤の上に散策でいたという。彼女のケータイ電話がビー・ビー・鳴り出した。

 
 帰宅率は6%でも、被災地を訪ねる若者もいる。
 

 その実、彼女はアンチ・ケータイ派だった。実娘の薬剤師がその前年に、「ケータイはゼロ円だから、持ちなさいよ」と勧めてくれていた。「いらない。必要ない」と拒絶していた。

 とうとう娘さんが買って押し付けた。ストライプには購入日として2011年2月05日が書かれていた。ケータイは使いこなせていない。なにしろ大震災の日まで、1か月余りしか経っていないのだから。
「ビー・ビーとしか覚えていないのです。堤防の上だと、津波がきて危険だと思い、走って、走って、平たん地の田んぼ道を逃げました。高台のわが家にむかいました。途中で、軽トラックのお百姓さんに乗せて、と言っても、方向がちがう、と拒否されました。また、走りはじめました」
 會子さんは、きっと慣れないケータイに『大津波警報の発令』を目にしていたのだろう。

 高台の家に着いたら、夫や近所の人がみんなして海を見ていた。沖合から白い横線が一本貴紙に向かってきた。堤防の上で跳ね上がり、鮭の遡上で有名な木戸川にのぼってきた。それが大津波だった。


 會子さんが防波堤を指す。10.5㍍の大津波が堤防を越え、民家を奪い去った。いまは単なる荒れ地にしかみえない。


 母と娘して、もう一つの奇跡があった。

 娘さんは薬剤師で、いわき市内の総合病院に勤務している。薬剤師も交代の夜間勤務が月に1、2度ある。2011年3月11日、娘さんは夕方5時からの夜勤シフトだった。早め自宅を出た。駅まで母親も一緒だった。
 午後2時過ぎに木戸駅から、いわき行の列車に乗った。
 
 木戸駅で娘さんを見送った會子さんは、郵便局に立ち寄り、天神岬の堤防まで散策に向かったのだ。

 片や、娘さんの乗った列車は途中の久ノ浜駅から、低地の海岸線を走る。2時46分の大地震発生は、トンネルの手前だった。列車は突然止まった。
 乗客全員が危険だと言い、逃げ出した。やがて大津波が列車の車体を襲った。乗客は高台に避難した直後だった。間一髪で、娘さんは助かった。

 しかし、久ノ浜の港は津波による瓦礫で、大火災が発生した。娘さんは火焔の恐怖におびえた。


 母と娘は、大津波から奇跡的に助かった。しかし、それだけで安堵とならなかった。つぎなるは「福島第一原発」の惨事に巻き込まれていくのだ。
 翌3月12日の早朝、町の有線放送で、「原発が危ない」と避難の呼びかけがあった。第一原発とは反対の方角に避難するように、と指図があった。

「東電は安全だと言っていました。私は東電第2原発(ホール)で、生け花教室や催し物などに参加していました。そのあと、構内バスの巡回で発電所見学がありました。有名な学者や技術者がきて、原子炉は冷却しているので、安全です、と強調されていました」

 安全神話を疑わなかった。
「どうせ、すぐ帰って来れるんだから」
 本気になれなかったという。
 犬は通常通り、鎖に縛り、猫は室内に入れてから、彼女は夫と車で、いわき市にむかった。道路は大渋滞だった。

 いわき市第六小学校の体育館に一時避難した。食糧はない。トイレの水もない。なにかにつけて長い行列ができている。
「90歳代のお年寄りを連れているので、それは実に大変でした」
 一時避難所から、放射能で、自宅に帰れず。なにも持ち出していないので、金品がなく、惨めだった。それから5年間は流浪の身となった。白河、東京、いわき、昨年の12月になって楢葉町に帰ってきた。
「この間に、心労が重なり、体調は悪くなりました」
 彼女は体調不良をくわしく語ってくれた。


 私は3年前、飯館村菅野村長に、単独取材を思い出した。「岩手・宮城は物理的な破壊だけれど、フクシマはそれプラス精神的な破壊です」と強調されていた。
 そこから、私のフクシマのテーマは「物理破壊+精神破壊」だと考えている。
 ゲンパツ事故では金銭的な補てんはあった。(津波で漁船や家屋を流されると、生活保障はしない)。多くの人は仮設住宅を刑務所に例える。明日の生活が見えず、悶々として、虚脱、虚無が支された日々だった。しだいに精神を痛める。傷ついた精神や心は復元力を失っていくようだ。

 
 これは過去の福島の取材による知識だった。明るい性格の會子さんすらも、体調不良を訴える。原発事故は、明日が見えない不安に苛まされたようだ。
 天神岬から、會子さんの自宅を訪ねた。ご主人がいた。荒れ放題だった庭木を手入れして、四肢を痛めていた。

「町が留守の間に、イノシシが多くなってね。飼い犬を狙うのです。かみ殺して、犬の内臓を食べるし。味をおぼえたので、次々に狙ってくるのです」
 ご主人が、散歩で犬を連れて歩いていると、道の左右にイノシシの気配を感じるという。

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