A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

浪江町から南相馬市、そして相馬市・松川浦に入る

 5月31は、前日の雨と違って晴天だった。
 南相馬から、6号線を通り、双葉郡浪江町に入った。危険区域が同月28日に見直されており、一般人も入れるようになった。規制解除から、まだ3日後だから、作家としてはきっと最も早い立ち入りだろう。先の富岡、今回の浪江と言い、フクシマ第一原発から10キロ以内だ。地図上の直線では、ともに6-7キロである。
(もし私が広島出身でなければ、放射能に怖気づくか、線量計を持参しているだろうな)
 子どもの頃、残留放射能のある広島市内を歩いているのだから、いまさら関係ないや、という気持から、線量計など持参する気すらなかった。

 歴史小説を絡めた「望郷」感を書くうえで、どうしても浪江町の高瀬川まで入りたかったのだ。やっと来れたぞ、という感慨が強かった。

 戊辰戦争・浜通りの戦いでは、この高瀬川を挟んで、官軍と相馬・仙台藩とが最大の攻防戦を行っている。これを『浪江の戦い』という。
 ここで敗れた相馬藩が白旗を上げると同時に、官軍側に付いた。そして、いきなり仙台藩兵に襲いかかったのだ。仙台から見れば、裏切者である。

『浪江の戦い』では、私が小説で取り上げたい芸州(広島)藩・高間省三(20)が討ち死にした場所である。かれは芸州藩の頭脳明晰の超エリートだった。度胸も据わっている隊長だった。

「高間省三よ。原発で長く浪江に入れなかったけど、ここまで来たよ」
 私は高瀬川の側で、死に行く砲隊長と、愛する女性の心を連想していた。かれには広島に愛する、許嫁(いいなずけ)がいたのだ。彼女は省三の死を悼む和歌を遺している。いま私は4首ほど入手できている。(子孫が保管していた)。
 それら和歌から、ふたりの心情が痛いほど伝わってくる。それを小説のなかに折り込みたい、と考えている。
 
 高間省三は双葉町の寺に眠る。フクシマ第一原発に最も近く、いまなお厳しい道路規制で入れない。双葉町はむこう30年は住めないだろうとか、そんな短期じゃないとか。情報が錯そうしている。当座は無理だろう。
 国道をバリケードしている警備員らに、厚かましくも、双葉町に入れる方法を訊いてみた。原発関係者とコネクションを作り、一緒に来たらいいんじゃないの、とアドバイスを受けた。ならば、それらの手段も考えてみるかな、という気持ちで、こんかいは断念した。


 南相馬市博物館の水久保学芸員を訪ねた。戊辰戦争・浜通りの戦いの、相馬側から見た史実、資料の説明を受けた。
 水久保さんは『「奥州戦争日記 上」からみた戊辰戦争ーー東北からの視点ーー」の著作があり、それを頂戴したり、館内の関連展示をも見せてもらった。さらなる資料で、同市に在住の方で、『浜街道における芸州藩の動静』を書かれた方がいた。
 これには驚かされた。著者の生年月日をみると、高齢だから、この先の取材となると、不透明だ。


 官軍ルートとなった、相馬市、仙台方向へと北上した。東電・原町火力発電所を過ぎると、快晴だが、海を見ると、波浪が高く、テトラポットで波がはじけ飛んでいた。
 車から降りて海岸に沿った道を徒歩で行くと、白い観音像が見えてきた。3・11慰霊の碑もあった。それによると、3・11では、15メートルを超す大津波が、海岸から内陸に約2キロほど襲った。そして、甚大な被害を受けたと記載されている。
 海岸線の松林がズタズタに折れていた。陸前高田市のように、松が凶器になったのだろう、と推測できた。

 やがて相馬市の松川浦県立自然公園にむかった。
「砂嘴(さし)が作る、風光明媚な観光地ですよ。でも、大津波でズタズタになっています」
 双葉町の吉野学芸員から聞いていた。現地には大津波の倒木など傷あとは残っている。私はかつての景色を知らないので、ここでも実感がわかなかった。

 松川港にはびっしり漁船が詰まっていた。こんな昼間から、これだけの漁船が係留しているなんて、まさに異常だと思った。
 福島県の沖合で漁ができない。原発の影響を如実に物語っている現実があった。漁師の方々の心情はいかなるものか。
「近々に、福島県の漁師に取材しよう」
 そう決めてから、港を後にした。

 そして、相馬市・市史編纂室にむかった。浪江の戦いの後、相馬藩が官軍側に寝返った。そして、旗巻峠で仙台藩に銃を向けた。この遺恨が現代に残っているか否か、と学芸員に聞いてみた。
「恨みを持つとすれば、仙台側でしょう。相馬にはそれは伝わっていません」
 なるほどな、と思った。
 この相馬の寝返りが奥州側の痛手になったことは確かだろう。いずれにせよ、他の角度からも調べてみようと決めた。

 

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