A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

フクシマ原発『望郷』の取材で、広島へ=偽物「船中八策」との接点

「災害文学」の第2弾はフクシマ「望郷」(仮題)である。現代小説と歴史小説をオーバーラップさせるつもりだ。さらには広島原爆の大惨事にも多少リンクさせたいと考えている。
 こうした3つの重層だから、取材の範囲は広域になってくる。

 5月に入ると、第1週は福島・いわき市~富岡町に行った。第2週は郡山市内の仮設住宅を訪ねた。第3週15~16日の2日間は広島・宮島に出むいた。

 福島県・広野町には、芸州藩の兵士が眠る、修行院がある。岡田住職から、一つの記事がみせられた。中国新聞の『潮流』で論説委員の岩崎誠さんが書いた「福島で守られる墓」だった。
 その岩崎さんと連絡を取り、15日の夜、広島・太田川に近い「焼き鳥屋」(割り勘)で、私的な情報交換を行い、広島・幕末史の史観のすり合わせをするができた。

 私が小説『望郷』で、歴史上で取り上げるのは、広島藩の神機隊・砲隊長の高間省三である。かれは広島藩の超エリートで、20歳で浪江の戦で死す。150年間、双葉町・自性院に眠る。

 この寺はいま原発事故で現地に入るのは難しい。立ち入る機会が得られたら、岩崎さんと日程を調整し、(住民の一時帰宅に同行などに加わり)、出かけてみましょう、と意気投合した。

 ふたりの話は、幕末・芸州藩へとごく自然に流れた。

 東京新聞が2010年10月31日付で、私のインタビュー記事『船中八策は原本もなく存在に疑問』と2面にわたり大きく報じた。それから2年半経った今年の3月4日、朝日新聞が文化面で「船中八策は虚構か」と大きく取り扱った。

 司馬遼太郎は小説『竜馬が行く』のなかで、フィクション「船中八策」を使い、坂本龍馬を英雄視した。世間はいまや史実だと思い込んでいる。江戸時代、明治時代、大正半ばまで、「船中八策」は新聞にも、文献にも、一行も出てこないのだ。船中八策は後世の作り話しで、偽物である。

「新政府要綱八策」こそ本物で、まぎれもなく国立国会図書館と山口県・長府博物館にある。大政奉還の後、1967年11月3日に、長州、薩摩、土佐、広島藩の四藩の大物が御手洗港に寄り集まって決めたものだ。それは同港のお寺の出身者である、新谷道太郎著『新谷翁の話』から裏付けられる。
 同書は90歳という高齢の口述筆記で、この書物の信ぴょう性が問われている。しかし、高齢だから、全部でたらめとは思えない。

 当時、長州藩士は朝敵で、京都に入れなかった。藩士は入れば殺される。4藩が安全に集まれるのは御手洗港の新谷家の本堂である。(お寺は社寺奉行の支配下で、町方は入れないから、隠れ蓑にもなる)。そう考えた方が自然である。
 この要綱ができた半年後、戊辰戦争にむかう軍艦が御手洗に集合し、兵器、兵、糧を送り出している。私はこれらを根拠にしている。

 岩崎さんは東京新聞からの配信記事で内容を知っていた。「その穂高さんと向かい合っている。なにかしら縁を感じます」と話す。

 岩崎さんは社説も書いている。「社内では歴史オタクと言われています」といい、自費で各地を歩いている。『芸州藩に船越あり』といわれた船越衛(まもる)に、岩崎さんは興味を持たれていた。広島藩の下級藩士(20石3人扶持)の船越が、明治政府になると、突出して出世している。広島県人は悉く中枢から外されていたのに。なぜか。

「新政府要綱八策」の策定に奔走したのが、船越衛と池田徳太郎だ。(新谷の書による、と)。それから半年後に勃発した戊辰戦争で、このふたりには地位の高い軍事的地位と活躍の場が与えられている。明治に入ると、国政の中枢にまで出世している。

 船越は日記のなかで、
『維新の際、芸州藩は薩長と肩を並べ国事に尽くしたるも、一朝措置を失って遂に土肥に先んじられたる、それを終生激憤したり』
 と記す。

 現代文にすれば、大政奉還のときまで、薩長芸の3藩が軍事協約の主導で進んできた。鳥羽伏見の戦いの折、芸州藩の岸九兵衛なる隊長が優柔不断の態度で、戦わずして、京都では大笑いものになった。芸州藩は信用を無くし失墜した。生涯の怒りを覚える、という内容だ。

 高間は船越から、「芸州藩が京の都で笑いものになっている」と聞かされている。だから、高間は名誉回復のために、上級藩士だが、農兵部隊の神機隊に飛び込んだのだ。そして、相馬・仙台藩を相手にして芸州藩の「汚名挽回」でやみくもに突進していく。大勢が犠牲になっても、孤立しても、一歩も退かなかった。
 突撃の連続である。それが20歳の若さか。そして福島・浪江で死んだ。

 岩崎さんとの歴史話から、高間省三の行動の動機解明への道筋が得られた。小説を書くうえで、動機は重要だ。
「取材は一にも、二にも歩くことだ。時には思わぬ収穫があるものだ」
 焼き鳥屋から、真夜中、広島のホテルに徒歩でむかう。明かりが消えた、妙にうす暗い原爆資料館や原爆ドームを横目で、見ながら通り過ぎる。
 1945年の8月6日から、毎日、残留放射能で何百、何千人が死んだ。いま渡る太田川には、翌年になっても、死体が流れていたという。
「この頭上で原爆が落ちたのか」
 と夜空を見上げると、三日月が浮かんでいた。

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