A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

僕も、髪の毛が抜けて、血を吐いて、死ぬの?=9歳児・富岡町

 富岡町の子を持つ母親と、茨城大・大学院生の男性が、フクシマ第一原発が爆発した瞬間と、その後について、体験をリアルに語ってくれた。5月8日、郡山市内のある会議室だった。
 
 院生は、第一原発がある双葉町の出身であった。
 3・11のかれは大熊町の体育館で、大学関連の行事を行っていた。第一原発から3キロ地点である。
 大地震・大津波が発生した直後から、同体育館が住民の避難場所になった。院生はそのまま避難者になった。翌12日は園児たちと仲良くなり、石油ストーブのそばで遊び相手になっていた。原発が爆発したぞ、という声が飛び込んできた。
「まさか、と思いました」
 石油ストーブの側にいた、30歳くらいの女性が、『死にたくない』と泣き崩れた。それを見た院生は、「大人が泣き崩れるのは、もう終わりなんだ。自分は死ぬんだな」
 と長崎・広島級の原爆を想像した。

 体育館の公衆電話の前で、みんなが泣いていた。その空気にのまれた院生は、
「これで人生が終わるんだな。死ぬんだな」
 と思った瞬間から、涙が止まらなくなった。
 かれは部活の先輩に、『今までありがとうございます』と本気で電話をかけた。そして、死ぬ覚悟を決めて、独り体育館の端に行って泣いていた。
 それから避難がはじまった。


 富岡町の住民は、3・11大震災が発生すると、隣り合う川内村の体育館へと避難していた。
 30歳代後半の母親は、当時中学2年生、小学6年生女児、小学2年生の男児を連れていた。12日夕刻、母親は炊き出しに忙しかった。
「お母さん、ちょっと」
 中学生の息子が顔色を変えて、背中をたたいた。
「忙しんだけど、なあに?」
「原発が爆発して、煙を上げているよ。ここにいられないよ。もっと先へ逃げろ、と言われるよ」
「えっ、本当なの」
「建屋が吹き飛んだ。怖いから、逃げよう」
 長男は館内で大型TVを観ていたのだ。

 かつて東電の施設見学会に行くと、柏崎原発の外壁を切ったブロックが展示されていた。外壁は2メールある。『炉は大丈夫。絶対安心です』とか、『飛行機が落ちてきても、大丈夫です』とか、住民に説明していた。
 東電は絶対安心だと言っていた。それなのに頑丈な原発が吹っ飛ぶとは、ただ事ではない。

「お父さん(夫)に会えないけど、どうしよう」
 夫は仕事で、出かけていた。
「仕方ないよ。怖いから、逃げよう。道路が混み合わないうちに行こうよ」
 息子が執拗に言う。

                      

 避難所から出ていく人が多くなった。
 町役場の職員に訊くと、富岡町からのバス最終は5時だという。それまで、父さんを待って軽自動車で逃げる決断を下した。父さんが避難所に現れた。家族全員が軽自動車で川内村から、さらに遠くへと避難していった。


 東日本大震災から5か月がたった。8月に入ると、TVで広島・長崎の特集を放映していた。ドキュメントのなかで、原爆の子が頭髪が抜け、口が臭くなり、血を吐いていた。
 家族で、そのTVを観ていた。
 一番下の息子(当時、小学3年)が突然、わー、と泣き出した。
『僕たちも、あんなふうになって、死んじゃうの』
 母親はびっくりし、一瞬、親として何にも言えなかった。どう答えたらよいかわからず、絶句した。

 娘が(当時、中学1年)がとっさに、
「違うよ。これはね、原爆がすぐそばでドカーンとなってね、死の灰を浴びた人だよ。絵本で見たことがあるでしょ。私たちは第一原発が爆発したとき、富岡町にいなかったでしょ。離れた河内村にいたから、大丈夫だよ」
 と弟に声をかけていた。

「母親よりも先に、娘が声をかけてくれたのです。幼い息子はこれほどずーと、不安に思っていた。だけど、親に言えなかったんです」
 母親は苦しい立場なのだろう、涙を流して語っている。

「いま高校生になった長男は、『俺たち被曝しているよね』とちらっちらっと話すことがあります」
 大丈夫だよとも言えない。被曝しているともいえない。子どもたちはフクシマ原発が爆発したときから、内心、これほどまでに放射能に不安に持っているんだな、と感じています、と母親の涙は止まらなかった。

                    写真撮影:2年余りたった富岡町、2013年5月1日

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