A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

子どもは楢葉に帰させない=科学者、医学者の誰のことばが正しい?

 楢葉仮設住宅の自治会長(45)は、楢葉に帰郷するたびに、昔の思い出がよみがえるという。幼いころ井出浜で泳ぎながら、水中で銛で魚を突いて獲っていた。ときには素手で、岩の下に隠れる魚を手づかみにする。ターザンごっこ。これがけっこう楽しかったと話す。

 7月1日のアユの解禁は楽しみだった。特に夏が好きで、夕立が降り、そのあとに海風が吹く。そして、花火が上がる。海辺の生活感が忘れられないと話す。目を閉じれば、8月の盆踊り大会の太鼓が耳にひびく……。

 いまの楢葉は変わり果てた、誰もいない町だ。国道の信号機のみが活動している。まさにゴースト・タウンだと語る。

 3・11大地震の前、中学校はちょうど新築ちゅうだった。そこに出向いてみると、建設中の基礎から壊れていた。こんなところまで、津波が来たのか、と驚いたという。

「実は3・11の前に、校舎が取り壊される前に、3月中に学校で同窓会をやろう、と決めたばかりだったんです。母校が取り壊されるって、悲しいな、と言っていた仲間たちも、(複数)消防団員で活動していて、大津波で亡くなりました」
 彼の瞼には、それら仲間の顔が浮かび、切ないと語る。

「楢葉の町はもうダメだ、と私自身をあきらめさせているんです」
「なぜですか?」
「故郷は好きです。望郷の念はあります。ただ、一時帰宅するたびに、家は荒れているし。先を考えるほどに、生活不安と、安全不安とが心の中で乱れます。住まいの近くに原発があるのが、どこか不安なんです。私はかつて原発の下請け会社の一員としてで、第一原発で2年間ほど働いていました。家族を養っていた。収入を得ていました」
 事故前は、すべての住民はインフラとか、町の施設とか、直接・間接的に東電の恩恵を受けてきました。原発事故が起きた。だから、手のひらを反して、東電を悪くいう気にはなれません。あれだけの大津波ですから、仕方ないかな、とも思っています。この考えは3割で、7割のひとは東電を悪く言っていますけど。

 生活不安について、彼に訊いてみた。
「楢葉に帰ったとしても、住居の周りに人がいない。放射線測定には過敏に反応し、住民は違う方向に行ってしまった。工業団地で、会社を興す人はいないと思う。そうなると、私には仕事がない」
「町の放射能除染が進んでいるようですが、その点はいかがですか?」
「除染は切りがないと思う。集めたものが町内の田んぼを仮置き場にして黒い袋が積み重ねられている。中間処理場すらない。最終処分場など、見えてこない。安全不安はどうしてもつきまといます」
 町全体として汚染度がかき集められ、数か所に積まれただけです。町の放射能の全体量が減少したわけではないし、と見ていた。

                 撮影:放射能除染・収納袋、楢葉町、2013年5月1日

「いまの段階では、子どもは楢葉に住まわせたくない。新築の中学校は、震災後は工事が中断していますが、仮に完成しても、子どもは戻したくない。グランドで部活させられないし」
 この会津美里町に集団移転してきてよかった。通学する小中学校では、地元の子どもと仲良くしてるし、順応できている。虐めなどもない、と話す。

「メルトダウンして爆発したら? という潜在的な恐怖はあります。だれ(科学者、医学者)のことばが正しいのか、よくわからない。だから、最低でも、子供は楢葉に反したくない。わかっているんです、子どもが帰らないと、町には未来がない。老人ばかりが帰ってどうする、と」
「現状の仮設住宅の生活の方がよいわけですね」
「ここの仮設住宅には、コミュニティーがあります。楢葉に帰っても、まわりに住民がいないし」
 故郷への想いは強いが、楢葉は生活の場から歳月とともにしだいに遠ざかっていくようだ。

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