A075-ランナー

わがランニング人生は10年、われにゲキを=風景写真と文

 マラソンを始めてから、今年でちょうど10年になる。
 若い頃から登山に熱中し、世の中の登山ブームが冷めても、山が無人化しても、私は単独行で山に登り続けていた。月に3、4回は登っていたが、40代、50代になると、体型が肥満型になってしまった。
毎日の運動をしないと、健康に悪い。その気持ちがつねにあった。自宅からは中川(一級河川)は近いし、ジョギングロードがある。

「1日10キロ走る。降雨は休足の日」
 そう決めてから、中川と荒川の周辺でジョギングをはじめた。川辺は美景の連続で、単調さからの飽きは来ない。
      

 中川の護岸路面には200メートルの距離表示がある。荒川のほうは東京湾からのキロ表示がなされている。ともに、スピードが計れる。そのうえ、双方には信号が1か所もなく、車両の進入もない。走る環境としては、実にめぐまれている。大都会の東京において、ここが最高の練習場だろうと思っている。

次女が国立競技場のマラソン教室に通っていた。父親の私に、マラソン大会に出場しないと、持続できないよ、とアドバイスしてくれた。そこで次女とともに米軍横田基地のハーフ・マラソン(約21キロ)の大会にエントリーした。

 戦闘機がならぶ滑走路の脇を走った。これまで見たことも、体験したこともない光景に深く感動した。走ることがやみつきになった。(登山は急減した)


「フルマラソンのほうが面白いよ」
 これも次女のことばで、勝田フルマラソンにエントリーした。となると、必然的に練習には熱が入ってくる。1日20キロ、ロング走は30~50キロと練習量が一気に増えた。それも、長期に継続できた。

  毎年フルマラソンに、2回は出場していた。どの大会のゴールも感動が得られた。練習量としては、寒くても、暑くても、1月間に延べ400キロ近く走っていた。5年、6年、7年と継続できた。

 小説仲間の植松二郎さん(雑誌・ランナーズの筆者)という良きアドバイザーを得た。電話やメールでQ&Aができた。強く背中を押してくれた。その結果として、フルマラソンではつねに3時間台をキープできていた。

 東京マラソンには一度出場できた。素晴らしい感動だった。その後は応募に落選続きとなった。すると、他のフルマラソン大会への出場意欲が急速になえてしまった。走る回数も、距離も少なくなった。

 人間はとかく楽なほうに流れてしまう。「忙しくて走れない」という逃げの理由に甘えていた。朝走るでなく、書斎にまず入る。執筆とか、受講生たちの添削とか、「あれも、これも」と手が延び、結局のところは走ることが後回しになってしまう。

 やがて1週2回くらいまで、回数が激減した。大会前のようなロング走はあきらめて、1日10キロの目標まで下げた。それすらも達成せず、中川の奥戸橋・平和橋(3・5キロ)を2周程度となった。


「走ることは止めたら、二度と走れなくなるよ」
 次女がそうアドバイスする。彼女は100キロマラソンに2度出場し、完走している。11年は沖縄で3度目の挑戦だという。誘われたが、むろん断った。

 今年はマラソン歴10年の節目だ。正月にはランニング人生を取り戻そう、と気持ちを入れ替えた。
 われの精神力から組み立てなおしだ。それには「今日は走れない、という理由を考えない」ことだ。
 荒川の河岸では、青少年たちが野球やサッカーに熱中している。彼らからエネルギーをもらうことができる。
 さらに、わがジョギング・ロードからは東京スカイツリーが実によく見える。塔はだんだんと高くなっていく。その眺望がつねに楽しめる。完成時には、フルマラソン大会に出場しよう。

                   撮影:2010年1月10日

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