A025-カメラマン

写真で観る、深夜の水揚げ~暁の女川・尾浦漁港の活気

2012年5月7日の夜明け前

宮城県・女川町の尾浦漁港では、大震災の被災後、初めて銀ザケの水揚げが行われた。


3.11の大津波で、尾浦漁港は高台の1軒を除いて、すべての家屋が流出し、大勢の犠牲者を出した。

人命ばかりか、生産手段の銀ザケの養殖施設すらも破壊されてしまった。

それから一年間、漁師たちは復興に向けた、懸命の取り組みをつづけてきた。初の水揚げである。

昨年の秋から、銀ザケの稚魚を育て始めた。いまは1尾が1キロを超えてきた。

ただ、この冬場は水温が低くて、育ちが悪かった。

例年よりも、約1か月半、水揚げが遅くなった、と漁師が教えてくれた。


養殖イカダから、銀ザケをすくい上げる漁網(タマ)は、ウインチを使った動力と人力と併用する。

それらの漁具は被災後に共同購入したものである。何度か、手入れがつづいた。

午前3時すぎはまだ、真っ暗闇だ。漁船の灯りが神秘的に浮かび上がる。

水揚げした銀ザケはすぐさま氷で冷すために、

製氷会社から購入した氷が小船で、漁船にまで運ばれてきた。

10分、20分前に泳いでいた銀ザケだけに、氷詰めされると、どこか哀れに思えてくる。


銀ザケの養殖イカダは8角形である。時おり水揚げを中断し、段々と漁網を狭め、サケを集めていく。

やがては1尾も残らず、すくい上げられるのだ。



「跳ねて踊る」。そんな表現ができないほど、鮭はからだをすり合うほどに、狭められていた。

銀ザケは弱い魚だ。水揚げと同時に死んでいる。ショック死なのだろうか。


女川港も、尾浦港も、ともに大津波で破壊された。漁船が直接接岸できず、荷揚げはできない。

陸送するために、氷詰めされた銀ザケが、真っ先に小船で尾浦の岸壁に送り届けられる。

まだ、月夜の海面だ。


水揚げが終わった漁船も、母港の尾浦漁港に向かう。


船尾を振り返ると、太平洋のかなたには夜明けの気配が漂ってきた。


海面が茜色に染まると、漁業のブイ(浮き)が視界に入ってきた。

漁船はこれらの網にスクリューを取られないように、上手に航行する。

港にはエンジン音が響く。

これから沖の魚場に向かう船もいる。なにが釣れるのだろうか。

視界が広がると、養殖設備がいくつも見えはじめた。

震災前の最盛期には、この湾内に所狭しと、ホタテやカキを含めた、養殖設備があった、と漁師が語っていた。


日が昇る方角に、漁船が整列すると、絵画を見るような情景になった。



漁師はこれまで一匹狼だった。震災後は、協同組合制度で復興の道を歩んでいる。

水揚げ・荷揚げは皆して手を貸す。

水揚げしてきた漁船もいれば、

これから銀ザケの養殖イカダに向けて餌を運ぶ漁船もいる。

初の水揚げとなると、港は活気づいている。

漁業は体力を要する仕事だ。それでも、彼らは楽々とこなしている。

この美景には言葉はいらない。ひたすら凝視するのみ……。

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