A025-カメラマン

写真で登ろう・奥多摩の低山ハイキング

奥多摩の魅力の一つは、V字形渓谷の山腹を走る単線です。立川駅から青梅駅までは複線ですが、その先から単線です。

 1時間に1本か、2本の電車です。「時間を忘れる」、それが奥多摩に足を入れる心構えとして大切です。
 2000メートル級の雲取山から、400メートル前後の低山まであります。時間を気にせず、家族、仲間、カップルで、ペチャクチャ喋りながら登る。

 そんな気ままな山登りができる。奥多摩の山をともに歩きましょう。


 軍畑(いくさばた)駅は、まず読めない駅名です。有人か無人駅か。それは定かではありません。時々、駅員がいます。夜は間違いなく不在です。

 駅舎から出た展望は、これが大都会・東京都かと思わせる、閑散としたものです。歩く住民はまったく見かけません。

 写真指導の場において、受講生にはかならず人物を入れなさい、「人間は人間に感動するもの」と話しています。
  
 床屋がありました。店内をのぞいても、お客さんがいません。店主にモデルになって、と厚かましい願いもできませんでした。

 奥多摩ですが、床屋「立川」とは都会を感じさせます。「人物がいなくても、将来は奥多摩の貴重な写真になるだろう」という予感を覚えました。


 

 坂道を登るほどに、青いはっぴ姿の住人を見かけました。「お祭りかな?」やっと、人にめぐり合えたな、という感動を覚えました。

「高源寺」の門前からが、最も人物が集約できる、アングルでした。

 

 石垣を凝視すると、そこには草花がしっかり根を張って生きていました。強い生命力を感じさせてくれました。

 生きる努力は境遇、境地も選ばず。そんな植物の逞しさに心する。それも低山ハイキングの魅力の一つでしょう。

 山間の民家のまえで、足を止めました。庭先には彩り豊かな花が咲いていました。住む人の心が花を通して伝わってきます。
 自然の四季と、上手に調和させていました。

 奥多摩には大樹や古木が数多くあります。5月の強い陽射しのなかを歩く。木陰に入ると、ひんやりとして、心地よいものです。
 
 夏山登山は暑くて嫌だという人がいます。「食わず嫌いでしょう」。直射日光と、日陰の温度差と、涼風はクーラーと比べても、数段に勝るものです。


 登る山は、高水三山(たかみずさんざん)です。かつて皇太子ご夫妻が登られた、そんな記憶があります。
 
 皇太子さまは日本山岳会・一般会員です。名誉会員ではありません。ある意味で、私とおなじ一般会員です。それだけに親しみを感じさせてくれます。山に登れば地位も、身分もない。それが山男でしようね。

 渓流釣りの人と出会う機会は、あるようで、あまりないものです。話に聞けば、川魚は人間の足音などに敏感に反応し、隠れてしまう、とか。
 だから、登山者のいない、山奥の清流に足を運び入れ、釣竿を投げるようです。

 道路ぎわで、釣り人を見たので、ちょっと驚きを感じました。


 常福院のつつじは見事でした。院内で、存分に堪能させてもらいました。

 奥多摩の山々には、思いのほかつつじの名山があります。雲取山近くには、「千本つつじ」という地名もあるくらいです。

 健脚の人にはお勧め。そう言いたいのですが、山が深くて、千本のつつじといっても、一見したところ、ちらほらちと咲いている程度しか感じません。

 家族連れハイクは、常福院のつつじが無難でしょう。

 


 奥多摩は杉とヒノキの人工林が多くあります。垂直に屹立し、整然と並んだ姿。森全体に、実直な雰囲気が漂っています。

 5月に入れば、花粉症の方はもう大丈夫です。それでも、マスクをして登っているハイカーがいます。呼吸は苦しいでしょうね。


 東日本大震災から2カ月が経った今も、フクシマ原発は悪戦苦闘中です。安全宣言がいつ出されることやら。外国人の多くは日本から逃げ出しています。

 外国人が奥多摩ハイキングを楽しんでいる。笑顔ですれ違う。なにかしら、安堵と心強さを感じさせてくれました。


 標高700メートルになると、山桜が咲いています。遠景は春の霞(かすみ)で、うす墨のような情感があります。
 
 奈良時代、平安時代の人たちは、このような美景に感動し、季節の移り変わりを短歌に詠い、楽しんだのでしょう。

 

 高水山(759M)に着いたときは、犬を連れた夫婦者がいました。犬は苦手なので、休憩も取らず、三山の一つ、岩茸石山(いわたけいしやま、793M)までやってきました。

 

 カップルと奥多摩の山はよく似合いますね。とくに、新緑のシーズンですから、「若さ」という言葉で括れます。
 昼食タイムで、弁当を開く。どんな粗食でも、おにぎりだけでも、山ではおいしく食べられます。

 奥多摩の魅力は何でしょうか。山並みが十二単のように彼方に連なり、緑の色合いを濃淡に染めています。

 陽光が陰影をつくり、深遠の趣を演出しています。私の視線が遠く、近く、飽きることなく遊んでいました。

 この空間こそが、いま生きている証でしょう。

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