≪東日本大震災≫ 10年間の思い ② 郡山利行
【 6.穂高健一先生『海は憎まず』『二十歳の炎』を出版 】
2013年3月11日、穂高先生は、震災直後から現地取材しての著作『海は憎まず』を、2年後の日に、日新報道社から出版しました。
本書の帯では、当時日本ペンクラブの専務理事だった、吉岡忍さんが、『災害文学!』と感嘆しました。
2013年2月19日、立石居酒屋≪あおば≫にて。穂高先生は『海は憎まず』の表紙原稿の刷り上がりを、喜び笑顔で、出久根達郎さんに見せました。
2014年6月30日に、日新報道社から出版された『二十歳の炎』は、芸州広島藩の高間省三の小説です。
高間省三の墓は、東電福島第一原発から4kmも離れていない、自性(じしょう)院にあります。穂高先生は、許可を得て、放射能防御の装備を身に着けて、墓の取材をしました。
大震災発生後ただちに、現地取材に取り組んだ穂高先生の行動を知り、筆者も一人の土木技術者として、津波災害をこの目で確かめなくては、との思いがつのりました。
【 7.東日本大震災 津波被災した三陸海岸沿岸の取材ドライブ 】
2013(平成25)年7月6,7日、大震災の日から2年4ヶ月経った時に、筆者は宮城県の松島から岩手県の宮古市まで、約350kmの、津波被害沿岸の取材に向かいました。それは、巨大津波による被災とその後の現況を、この目で確かめたいとの、強い思いでした。
≪岩手県上閉伊郡大槌町にて≫
役場の壁時計は、津波が襲って来た時刻、午後3時20分頃で止まったままです。
大槌町の旧役場です。震災当日、正面玄関横が災害対策本部テントでした。活動を始めたら津波が押し寄せて来て、町長以下40名の役場職員が亡くなった所です。
建物屋内写真の木製カウンターは、とても立派な物でした。職員と住民との談話が聞こえてきそうな気がして、しばらくたたずみました。
≪宮城県気仙沼市にて≫
津波被害を受けなかった、JR気仙沼駅前の観光案内所受付の若い女性が、『有名な、あの船、もうすぐ解体がはじまりますので、必ず見ていってくださいね』と、元気な大きい声で教えてくれました。
気仙沼港岸壁から、約800mの内陸に流されてきた、第十八共徳丸、330トンです。かつてこのような光景を、見たことも想像したこともありません。現実にこの目で見て、その場に立ったことが信じられません。
≪宮城県牡鹿郡女川町にて≫
地域医療センターの駐車場から、女川の街の全貌を見ることができました。
筆者が駐車場の売店で、『この場所からは、どの付近まで津波が来たかを、眺めることができたのですか』と聴きましたら、『この売店は、天井まで水が来て、流されちゃいました』と、女性店員さんがほがらかに答えてくれました。
津波で横転した、七十七銀行女川支店です。十二名の銀行職員が亡くなりました。
津波で被災された人達は、飲み水でつらい思いをされたようです。慰霊祭檀には、缶ジュースやペットボトル等、飲み物がいっぱいでした。
道路斜面写真の、右上にある表示板には、『2011.3.11.東日本大震災 津波浸水深ここまで』と書いてあります。
≪岩手県陸前高田市にて≫
かつてその美しさで有名だった海岸線の松が、大震災の津波で、市街地を襲った凶器となりました。
その日から2年4ヶ月、その残骸が、むざんな街の跡地に、まだ山積みされていました。
≪宮城県 JR気仙沼線、清水浜駅付近にて≫
鉄道線路の、新設工事現場ではありません。海から200mほどの距離にある、被災したJR気仙沼線の線路です。津波は、レールの軌道は跡形もなく、土で盛られた線路の路体まで、そっくり全部、水で崩して流失させたのです。
≪宮城県石巻市門脇町、称法寺にて≫
「もともとお寺の本堂は、空間が大きいがらんどうですよね。そのためこのお寺は、まともに被災してしまいましたね。私らが仕事をしているお墓の修復でも、びっくりするような重たい石が、信じられないくらい遠い所に流されています。私の家は、ここから少し離れていますので被災しませんでした」と、墓石職人さんが、一緒にお寺を眺めながら語ってくれました。
≪宮城県石巻市立湊第二小学校にて≫
津波で被災した開口部の保護合板に書かれた、児童達の絵やメッセージです。津波を受けたにもかかわらず、故郷の海は憎んでいないようです。
同校の校歌碑です。校歌の一番から三番までの歌詞の後半は、3行の同じ言葉で、高らかに唄われています。
われら湊の若い芽だ
ほら海が
太平洋が呼んでいる
同校は、2014(平成26)年4月、同市立湊小学校に統合されて、閉校となりました。
【つづく】