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RCC(中国放送)~中四国8局ネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」を聞いて  郡山利行

 広島発 RCC中国放送の中四国ライブネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」が、ことし(2019年)11月17日(日)18:00~20:00に放送されました。

 司会:一文字弥太郎(RCCラジオ)、岡佳奈(RCCラジオ)です。


 2時間番組のなかで、原口泉先生がインタビューに応えられました。原口先生の発言は、番組の27分ころから、約20分くらいです。
 私(郡山)は、原口先生を御手洗にご案内して良かった、ここから幕末史が変わる、と強い感慨を持ちました。

 放送のインタビューを紹介する前に、ちょうど1年前、2018年12月15日、16日と原口先生が2日間にわたり、はじめて広島県の大崎上島と大崎下島にいらっした場面を紹介しておきます。

 原口先生は12月15日に、穂高健一さんの案内で、大崎上島の神峰山の山頂展望台を訪れました。
 その時、原口先生は大きな声で、「ここはすごい! 地乗り航路と沖乗り航路が、両方いっぺんに見られます。そして、御手洗港の位置のすごさも、一目瞭然です」 と叫ぶように語られました。

 翌16日には、原口先生は大崎下島の「御手洗」の港や街並みを見学されました。この港街には1700年代中頃からの保存建物であります。薩摩藩では専売品だった屋久杉が、それら建物にふんだんに使われていたり、庭に立派なソテツが植えてあったり、桜島の溶岩が飾り石に使われていたりしています。

 原口先生は驚きの目で、それら薩摩文化を見られていました。(撮影・郡山:2018年12月16日)

 また、1717年にこの地で亡くなった薩摩の「二階堂十郎兵衛行登」の墓石に刻まれた戒名にも、興味を抱いたようです。そして、薩摩藩が御手洗での船宿としていた「脇屋」の資料を歴史研究者の目で観察されていました。

①1746年、脇屋与右衛門へ申渡した船宿免許状
②当時脇屋が店先に飾っていた船宿旗印

 原口先生は、この二つの展示品を指さして、「この文書と旗印をしっかり撮影してください」と私に依頼しました。
 これから、1年後、RCC(中国放送)から中四国8局ネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」を聞いて、私はつよい感慨を覚えたわけです。原口先生のインタビューのところを紹介します。


原口先生の電話インタビューの発言

「とにかく、明治維新は、広島藩が動いてくれなければ、薩摩は何もできませんでした」

 司会者:一文字さんと岡さん、びっくりして、
「え、いきなり!どういうことですか、原口さん!」
  と、大きな声で叫んだ。

辻将曹(つじしょうそう)という、すごい家老が(広島に)いらっしゃったでしょう。薩摩では、小松帯刀(こまつたてわき)という人がいました。この二人がですね、薩芸交易という薩摩と広島の交易を、御手洗で大々的に行っていたのです

「御手洗という港はですね、潮目がわかるのです。内航路と外回りの航路があり、御手洗で待機して、どう兵を動かすかということを判断できたのですよ。御手洗港ですよね、すごいですよね!」

「薩摩と芸州の交易というつながりは、二人の家老どうしが結ばれいたから……。 薩摩が欲しいのは、お米と銅と鉄です。それを全部広島が持っているのです」

「そして、兵を動かすのにですね、長州は手も足も出ないのですよ、四面楚歌でしたから。三田尻から御手洗に集結して、広島藩の理解がなければ、とても、戊辰戦争の時だって、兵を動かせなかったのです」

「ただね、広島藩は所帯が大き過ぎて、辻将曹も、広島の領民をこの変革に、直接リスクを負わないように、判断されたのでしょう」

【イエス・ノー 問い掛けでの、原口先生の返答】

①アメリカ南北戦争がなければ、明治維新はなかった……?
 Yes

②篤姫は、島津斉彬と阿部正弘に利用された……?
 Yes 「望むところです!」
    
③坂本龍馬がいなくても、薩長同盟は成立していた……?
 Yes 

① について、

「南北戦争でアメリカ南部の繰り綿ができなかったのです。 そうすると、イギリスを はじめとした綿織物工業の、産業革命を推し進めた欧州諸国は、操業停止になり ました。繰り綿の値段が、5倍から6倍に跳ね上がったのです。」
 
「広島藩は、繰り綿の産地でしょう。それを提供してもらいました。申し訳ないですけれども、ぼろ儲けです、上海でですね。 国際価格が暴騰していましたから」


② について

「篤姫は、要するに薩摩藩から江戸城に入って、家茂のお母さんになったのですから、幕末までは、江戸城で一番偉いのですよ。 薩摩藩は、政治的なパイプ・通路を、江戸城に持っていたのです。 長州藩は、パイプはありませんでした」

薩摩藩が欲しいのは、関門海峡の自由な航行権なんです。だからお互いの通路として、同盟を結んだのです


③ について

「まあ、そうでしょうね。 坂本龍馬みたいな人は、だいじで、必要です」

 司会者からの【薩長同盟を結んだ、そのことについて」の質問に応えて。

「薩摩藩は、長州藩のえん罪を解くために、活動していたのですね。長州藩は朝敵ではない、ということを言うために、朝廷に活動していました。それで、長州藩のえん罪を解くために、薩長同盟を結ぶという、一番重要な一致点がありました」


薩摩藩が最も欲しいのは、関門海峡を自由に航行できなければ、外国貿易ができませんからね。広島藩からの、お米と銅と鉄、これがなければ、維新変革はできないわけですからね。 だから一番大きいのは、広島藩の経済的な力を、与え て下さったからです

「ただ、決定的な時に、広島藩は大きな藩ですからね、倒幕の旗印を掲げることはできないでしょうね。福岡藩といっしょですから。長州藩とか、これは朝敵ですから、薩摩藩とか、辺境のところは、倒幕軍ののろしを上げることができました」

「広島藩の辻将曹はですね、やはり広島の領民のことを、考えなければいけないですからね」

「ただ、鳥取藩と岡山藩は、戊辰戦争での鳥羽伏見での戦いでは、最初に戦いましたから、明治維新は、『薩長土肥』ではなく、『薩長因備』(さっちょういんび)です。鳥羽伏見の戦いでは、佐賀も土佐も戦っていません。かれらは、ずっとあとからです。上野戦争からです」

「でもね、とにかく、薩摩藩に力を与えたのは、広島藩ですよ。お米と繰り綿と銅と鉄との、すべてを用意してくださいました」

 司会者が最後の質問として、『明治維新とは何だったのでしょう。ここから私たちは何を学べばいいのでしょうか』 と、原口先生に問いかけた。

明治維新は、やはり、外圧に対抗して植民地にならないための、オールニッポンの体制を作らなければいけなかったのですから、近代的な統一国家を作るためには、広島藩の力も借りましたし、最後は藩をつぶして、一つの国を作るということですからね、すべての藩が犠牲になったのです

「そして、四民平等と、万国に肩を並べる国ができて、今の立憲君主制への、帰結なのではないかと思います」


「あとは、穂高先生に聞いてください!」


 上記のとおり、電話による、原口泉先生へのインタビューは終了しました。


『関連資料』

 
 2018年12月16日の午後開催された、「御手洗歴史シンポジウム」の基調講演をなされた原口先生。(撮影・郡山:2018年12月16日)


中四国ライブネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」   「Youtube」より。


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