柴又の手焼き煎餅店(特に測りはしない 生地作り) 鷹取 利典
まえがき
一枚食べるともう止められない。『せんべい』と言えば、子供の頃からみんなが食べてきた手軽なお菓子。なかでも醤油味の「煎餅」は、素朴で懐かしい味だ。
煎餅の起源は古い。平安の初期に僧侶、空海が、唐の長安で食べたせんべいの味が気に入り、京都にもどって和菓子屋に作らせたという説がある。
庶民に広まったのは、埼玉の草加が発祥と言う。江戸時代、農家では米をつぶし、丸めて干し、塩をまぶして焼いていた。それを日光街道を行き交う旅人に売るようになり、各地に広まった。その後、千葉の醤油で味付けされ、現在の煎餅の原型となったと言われている。
各地の門前町や神社の参道には、必ず1軒や2軒は煎餅屋がある。葛飾柴又の参道にも3軒の煎餅屋があり、その中でも手焼きにこだわり、玄米から手間暇掛けて生地を仕込む『浅野屋煎餅店』を取材した。
● 煎餅作りは、玄米から
「せんべい」は、主に小麦粉で作られるものと、米(米粉)から作られものとに大きく分けられる。米粉を使った焼き菓子でも、うるち米を使ったのが「煎餅」、もち米を使うのが「かき餅」や「あられ」と言われている。しかし、最近は曖昧らしい。
『浅野屋煎餅店』は、今から45年前、1974(昭和49)年に創業した。現在の店主は、2代目、浅野明美さん(58歳)。先代の父親(浅野登さん)が、煎餅が大好きすぎて、柴又6丁目で開業していた牛乳屋を止め、今の柴又の参道に煎餅屋を開いたのが始まりだ。
登さんが49歳の時である。
手焼きを謳う煎餅屋は何軒もあるが、多くは生地専門業者から出来上がったものを仕入れている。しかし、浅野屋は、原材料の米、それも「玄米」を使って生地作りから始めている。
その玄米の仕入れ先にもこだわりがあり、父親の出身地、茨城県産のコシヒカリを創業当時から使っている。
仕込みは1週間サイクルで、まずは玄米の精米から始まる。創業当時、精米は米屋に持ち込んでいた。米屋の精米機は大型で、前に精米した別の米が機械に残るため、少量でも持ち込んだ米と混じってしまう。
創業当時、最初は生地の硬さがばらつき、うまく焼けなかった。その原因が精米だと分かり、小型の精米機を店に導入したそうだ。
1サイクルで使う玄米の量は60キロ(1俵)。少し離れた自宅から柴又の店まで、1袋30キロの玄米を自転車に乗せ、週に2回運ぶ浅野さん。細い腕で30キロの米袋を抱えるのは、大仕事だと言う。
● 重労働の生地作り
煎餅の丸い形は、生地が型抜き用の延し棒を通過させて出来上がる。帆布でできた中段のベルトに、丸くくり抜かれた煎餅生地が、きれいに並んで出来上がる。
中段のベルトが下に潜るときに、手前の網で受取る。周囲の余り生地は、上段のベルトで、また延し棒に戻し、次の煎餅生地になる。網が一杯になると一旦機械を停め、次の網をセットする。この作業を何度も繰り返す。
作業には人手が4人いる。無駄がない流れ作業、4人の息が合わないとできない技だ。
その機械は、先代が店を始める際に、中古で買ったというから、もう50年以上経ったレトロな機械だ。
この機械について、浅野さんから面白い話を聞いた。鋳物のギヤが延し棒と帆布のベルトを回す仕掛けだが、左右のバランスが合わなくなると、「キーキー」と鳴いて動かなくなる。言うことを聞かない機械だそうだ。
機械業者に見てもらったが、さじを投げられてしまった。
しかし、取材の日は調子が良かった。「人が来るといい子になる。」と、浅野さんは笑っていた。
煎餅作りの作業は重労働だ。60キロの玄米を洗米し米粉を作る。そして蒸して煉って。できたお団子はバケツ5杯になる。
2階の作業場へ持ち上げるのに電動ウインチを使う。それ以外、全て手作業だ。延し・型抜きの作業日だけは、2人のパートさんに加え、明美さんのお姉さんも駆り出され、4人掛かりの大仕事になる。涼しくなった9月でも、皆、汗だくだった。
● 特に測らない生地の乾燥
煎餅生地の乾燥が、一番神経を使うと言う。柔らかいと膨れるばかり。硬いと出来上がりも固くなる。
生地を灯油炊きの乾燥機で3時間半乾燥させた後、2・3日自然乾燥すると焼けるようになる。その乾燥度合いが煎餅の出来上がりを決めると言っても過言ではない。
しかし、浅野さんは、温度や湿度などを特に計器で測りはしない。季節や天候を感じながら、勘で決めると言う。まさに職人の術(わざ)である。数値ではない、感覚が、浅野屋の味を決めている。
● 手焼きは暑さとの闘い
浅野屋煎餅店の看板を見ると、左に「炉端焼煎餅」と書かれている。今、燃料はガスだが、炉端の形をした焼き台が大小2つある。
1台は縦横が1メートル程。もう1台は、二回りほど小さい60センチ程の大きさだ。取材時は、小さい方が使われていた。
「とにかく夏場は暑くて辛い。夏は、とても大きい焼き台は使えない」
だから焼き台の横には、いつも扇風機が欠かせない。焼きは女性の方が強い、と浅野さんは言う。
なぜかと言うと、女性は料理をするから、熱に強いそうだ。今のパートさんは女性だが、以前は、男性のパートさんがいた。調理師だから火には強いと言うので雇い入れたが、1日で手が水膨れになり、即日辞めてしまったそうだ。
手焼きと、言っても、焼き方には幾通りかあり、網で挟んで焼くやりかたもある。浅野屋は、炉の上に並べた煎餅生地を焼き加減を見ながら、箸で何度もなんどもひっくり返す方法だ。
その時、膨らんだり反ったりした煎餅を平らにする道具がいる。それが『押瓦(おしかわら)』である。
ステンレス製を使っている店もあるが、浅野屋は、瓦材で作ったものを使っている。有人の瓦谷業者に頼んで作ってもらったものだ。持ち手に布が巻いてあるが、持ち手の形が半円形ではなく、手になじむように変形させてある。
浅野さんの手に、合わせ作られたものだろう。その押瓦で押さえながら、1枚の煎餅を焼くのに、およそ13分掛かる。
浅野屋には、寅さんの顔を模した「寅さんせんべい」がある。機械の型を変えると、寅さんそっくりの四角い生地ができる。
「寅さんせんべい」は大きいので、大きな焼き台でないと焼けない。それでなくても焼きの作業は暑いから、夏場には作れないと浅野さんはこぼす。それを知らないお客さんからは、「寅さんせんべい」は、いつできるかと聞かれるそうだ。
あとがき
取材直前の今年9月、浅野屋はNHKの子供向け番組に出演していた。『せんべいは、何から作るの?』と言うタイトルで、煎餅作りを10分間で紹介する番組だった。
その番組で「なぜ煎餅を作っているの」との質問に、浅野さんが言った一言が印象的だった。
「先代が大好きだった故郷の米で煎餅を作り、昔ながらの味を、作る方法を守るためです」
30年前、先代のお父さん浅野登さんが亡くなり、お母さんと二人煎餅作りを再開したとき、周囲からは、
「(生地から作らず)もっと楽にしたら」
と助言されたそうだ。
でも、そうはしなかった。そう、お父さんの味を、作る方法を、今でも守りたいのだ。
写真は、 雑誌に載った店の写真を見せてくれる浅野さん。(雑誌:月刊EXILE 鈴木伸之さんが来店)
かつしかPPクラブ
鷹取 利典
制作 2019年11月14日