A045-かつしかPPクラブ

穂高健一・講演会「開国の真実」、聴衆が熱い眼差しで聞き入る=隅田 昭 

 葛飾区立水元図書館で、9月28日(土曜)午後2時から、穂高健一先生の講演会「開国の真実」が2時間にわたり開催されました。

 定員は50名でしたが、昨年同様に開演前から用意した椅子も足りないほどの賑わいです。私たち「かつしか区民記者」もみなでお手伝いしました。

 講演の内容は、10月15日に全国の書店・ネットで一斉発売される「安政維新」(阿部正弘の生涯)です。

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 私はかつしか区民記者(かつしかPPクラブ)の例会や、穂高先生が主催する「よみうりカルチャー・小説講座」で、先生からたびたび、阿部正弘とか、幕末関連の取材を熱心になされておられる様子を聴いていました。
 それでも、講演の内容は新鮮で、目からウロコが落ちる話題でした。

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 今までの学校教育や歴史小説で目にしたのは、次のような内容ばかりです。

「4隻の黒船が、とつぜん浦賀にやって来て、なにも知らぬ民衆は慌てふためいた。男は家の屋根に登って軍艦をながめ、女は部屋に閉じこもり、布団をかぶって夜も眠れず、嵐が過ぎ去る事態を見守った。しかし日本は苦境のどん底に落ちていく。
 ペリー提督が現れると、駆け付けた浦賀の大名たちは英語もわからず、みなどうしたら良いものか悩み苦しんだ。そして、見たこともない武器を突き付けられると、なす術もなく上陸を許してしまい、高圧的なアメリカの軍人に屈せざるを得なかった」

 私(隅田)もそうですが、おそらく聴衆の皆さんも、多かれ少なかれ同じ認識に染まっていたと思います。
 とくに私は近代史に疎いので、聴衆の皆さんのほうがよほど、固定観念が強かったかと思いますが……。


 ところが、「ペリー提督はとつぜん現れたのではない。黒船を見せつけられ、幕府は不平等な砲艦外交に屈したのではない」と先生は言う。
「従来の虚構で塗りつぶされた日本の黒い歴史を、そろそろ見直す時期に来ている」
 と言われると、私はもちろん、聴衆の皆さんもみな食い入るように興味をそそられました。

 阿部正弘といえば、従来の評価ではだいたい次のとおりでした。

「無能な幕府の重鎮は、みな責任を取りたくないので、止むにやまれず、まったく派閥を持たず、若い阿部正弘を交渉役に据えた。
 しかし、英語に堪能だった阿部は、若いがゆえに無鉄砲にアメリカと強気の交渉を重ねつづけた。そうして無理がたたって重病を患った。やがて、不平等条約を押し付けられ、日本が苦境に追い込まれたときには、ひっそりと他界してしまった。
 江戸幕府の悪しき体質に翻弄(ほんろう)され、将来を嘱望された優秀な政治家だったのに、何もできずに散った悲劇の人である」
 先生はその定説をも、つぎつぎに覆(くつがえ)していきました。

 阿部正弘が満25歳ときに老中首座、今でいう内閣総理大臣になった。それから浦賀に来る外国船は、ペリー提督で5番目である。
 幕府はもちろん、浦賀奉行もみな落ち着いて対処していた。阿部も毅然(きぜん)とした態度で、アメリカ側と交渉にのぞんだ。
 当時の幕府は決して弱腰外交ではなかった。交渉記録も残っていて、現代語訳が最近になって世に出てきた(墨夷応接録)と聞かされると、聴衆は身を乗りだし、うなずいていました。

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 明治政府とその後の軍事教育は、なぜ阿部正弘の安政政策と近代化路線を否定し、今までそんな嘘をついてきたのでしょうか?

 それは、明治時代以降の為政者が、自分の立場をより大きく見せて、より権力を誇示したいという、つよい意欲の表れではないでしょうか。

 穂高先生は広島の出身なので、原爆投下や第二次世界大戦の経緯にも詳しいのですが、日本の歴史を精査し、見つめ直すことによって、二度と同じ過ちをくり返してはならないという、切望にも似た強い気持ちと情熱があり、私たちの胸にひしひしと迫りました。

 講演会の後半の聴衆との意見交換は、いつもながら活発でした。

 そのおひとりが、「もし江戸幕府が残っていたら、その後の日本はどうなっていたと思われますか?」という提起に対し、先生の回答が圧巻でした。

「たら、れば、という仮定は、ふつう歴史学者は返答を避けるのですが、そのご質問は重要です。もし阿部正弘がもっと長く生きていましたら、おそらく安政の大獄とか、明治からの軍事政権にはならなかったでしょう。
 徳川家はいちども海外戦争をしていません。戦争を嫌った政権のままならば、その精神が生かされて、いずれの国に加担するか、あるいは協力することはあっても、第二次世界大戦には参加せず、真珠湾攻撃、原爆の投下はなかったでしょう。多くの犠牲者も出なかったはずです。
 日本人は本質的に戦争嫌いです。北欧に近い自由主義か、永世中立国になっていた可能性がたかいでしょう。明治から10年に一度の戦争が1945年に終わってみれば、日本列島の地図(北海道~九州)は徳川政権のときとまったく同じです。何のための戦争だったのか。この事実は重いのです。
 質問者から出ましたように、『もし、たら、れば』という歴史の検証がとても重要です。それが過去から学ぶことです。歴史の仮説(シミレーション)が、私たちの将来の道を選択するときの洞察力になるのです」
 聴衆はみな同意して、先生に対する惜しみない拍手が鳴りやみません。

 おまけにいちばん若い男性の方が、「父親からせがまれたので」と、過去に出版された著作に、サインを求めに来られるおまけ付きでした。

 これからも戦争につながる嘘を見抜き、正しい歴史を認識しなければならないという、明確な意思を心に刻んだ貴重な機会になりました。


写真提供 = 郡山利行さん

文=隅田 昭  令和元年10月22日(即位の礼、正殿の儀に記載)

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