A045-かつしかPPクラブ

【 わが町原動力】 消えた都内随一の縁日 (中)=郡山利行

 【 3. 喜多向観音の縁日 】

 喜多向観音は、葛飾区東立石4-15番地にある。立石バス通り(奥戸街道)に面している。『 喜び多く向かい給え 』 とお参りすれば、必ず一つはかなうとの言い伝えがあると、由来看板に書いてある。

 縁日は、奥戸街道の整備が完了した昭和8年頃から始まり、開催日は、毎月7日、17日、27日の、月3回だった。 戦時中一時中止されたが、 昭和23年5月から復活して、50年代初めまで約40年間盛大に行われた。
 都内でも有名な縁日だったが、その後急速に衰退し、今は開催されていない。

 石尾光之祐(みつのすけ)さんは、少年時代(小学校4年生)から学徒動員まで、立石で育った、読書と本がとても好きな人だった。 大正10年生まれで、70才くらいで他界された。
 昭和61(1986)年1月に青木書店から発行された、『古本屋』という小冊子に、石尾さんの記事があり、『日の丸堂』という名の古本屋が登場する。

 筆者がいつも葛飾情報でお世話になっている、岡島秀夫さんの父親が、元気なころのお店の名前である。
 この記事の中に、昭和8、9年ごろの小学5、6年生の石尾少年が見た、喜多向き観音の縁日の話があった。


  国土地理院HP  撮影:1936(昭和11)年6月 



平成10年頃に書かれた、立石大通り商店会の看板

 縁日は、今のアーケード街が奥戸街道と交わる所から、大道橋手前までの約200m(上写真の長○ 印)の範囲から始まり、最初から歩道片側ずつ交代の開催だったと、記されている。  


 最盛期には、上写真の、立石大通り商店会の端から端まで、延長約440mにわたり、バス通りの片側に約200軒の出店がびっしりと並んだ。
 主催者は誰だったのだろう、何人ぐらいの人びとが、月に3回もここにつどったのだろう。

 地域の人、周辺の人達に約40年間にわたり、楽しみと憩いの場面を与え続けていた。その熱意・情熱は、今ではもう容易に想像できない。

 上写真は、山本サトシ著:『東京の縁日風土記』:(講談社、昭和57刊) の、216~218ページにある、ごくごく表面的な訪問記事に添載された、写真である。

『夕方、露天の荷物が運び込まれる 』とのキャプションが付いている。縁日の歴史が、もう華やかではなくなった頃と思われる。

 揚げ物の増田屋3代目主人、中山さんが生まれ育った店は、下写真の○印の家(かまぼこと書いてある)である。
「 子供の頃はそれはもう、楽しみの縁日でした。小銭を握りしめて、いろんな店をのぞきましたよ。 人がぎっしり一杯で、私は背が低くて、まわりが見えず、自宅から迷子になったこともありましたよ 」と、語ってくれた。


 引用:写真集 葛飾区の昭和史(株)千秋社   昭和27年 立石バス大通り


 喜多向観音付近から、渋江方向を見た立石バス通り  平成30年7月10日.

 この喜多向観音の縁日に関する記録資料や写真は、区内の図書館でも現地商店街の数件で尋ねても、目にすることができなかった。
 当時の人々は、日常の生活が必死で、縁日のことを記録に残せなかったのだろうか。
 それでも、人々がここで熱い時を過ごしたことは、多くの人の心には残っている。

 立石の喜多向観音縁日の歴史が、そのまま、ここ立石地区の、更には葛飾区全域の、地場産業工場の盛衰だったともいえるような気がする。

                       【つづく】

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