かつしかPPクラブ・取材旅行(3)=大崎下島・御手洗:郡山利行
大崎下島の御手洗港に来ました。この港には幕末史の謎が豊富にあります。
大坂の豪商の鴻池が、御手洗港に寄進した住吉神社です。
老中首座・水野忠邦にすら、お金を貸さなかった豪商が、なぜ寄進した?
幕末には、西の雄藩の船宿が17-8軒ありました。
北前船、大名行列の船、諸大名家の交易船が寄港していました。
幕末志士たちにとっては、絶好の情報収集の場です。
ことし(2017年)、「大政奉還150年御手洗大会」(主催・豊町重伝建)が10月14日(土曜日)に、午前10時から開催されます。
幕末の御手洗を知る好機です。
穂高先生は、13時半から講演です。地元の主催者の責任者と、大会の打ち合わせをなされていました。
この方は、古い家並みの保存作業中でした。
御手洗は薩摩の密貿易港だと、長く住民に語り継がれてきました。
この『脇屋』には、二刀を差した薩摩藩士が複数、滞在していたといわれています。
蘇鉄(そてつ)は、薩摩文化が色濃く漂う港だと証明しています。
文久3年に起きた「八月十八日の変」で、長州藩と七卿が都落ちしていきます。
この御手洗港の竹原屋に宿泊しています。
「豊町御手洗重要伝統建造物保存地区」です。
御手洗にくると、歴史散策マップがあります。
これを見ながら、幕末史を訪ねてください。
この金子邸は、現在、補修中です。
薩長芸軍事同盟にもとづいて、芸州広島藩と長州藩がこの港で落ちあい、朝敵だった長州藩をいかに徳川家の目をくぐり、挙兵・上洛させるか、とこの金子邸で詳細が打ち合わせされました。これが御手洗条約です。
「大政奉還150年御手洗大会」の日には、一般公開されます。
『明治維新は御手洗から始まった』
これが早晩、躍り出てくるでしょう。
江戸時代の末期は、「風待ち・潮待ち」で栄えていました。ちなみに、当時は御手洗航路と呼ばれています。
この絵で、繁栄ぶりがわかります。
写真・文=郡山利行