A045-かつしかPPクラブ

かつしかPPクラブ・取材旅行=岩国・宮島・広島・呉、御手洗、神峰山(2)

 人間は、右手に「平和」という数珠や十字架をもち、左手に「戦争」という武器をもっている。
 区民記者たちと、呉市に入った。呉市にくるたびに、ボクは広島の平和主義に疑問をもってしまう。

 呉軍港をもちながら、平和都市だなんて、よく言うよ。横須賀、呉、佐世保という三大軍港がありながら、『広島平和都市』だなんて恥ずかしい、とすら思う。

 大和ミュージアムの敷地に、大砲の側に『鎮魂』という墓標がある。大砲で死者の霊を鎮めるの? 鎮魂の意味を知っているの。まさに右手に「平和都市」、左手に「大砲」という武器をもっている。

 民が選んだ政府が、国家的に決めた軍港だから、致し方ない。これは認めたにしろ、「大和ミュージアム」などは、広島県知事が建設に反対すれば、「建築確認」など降りなかったはずだとおもう。

 大和ミュージアムは、説明するまでもなく、太平洋戦争で、こんな巨大な軍艦がつくれたんだ、と鼓舞している。展示類は「こんなに強い海軍だった」と、大日本帝国海軍の賛美のテーマで統一されているし、青少年にすら、戦争高揚感を煽(あお)っている。

 少なくとも、戦艦・沈没とともに亡くなった海兵を悼(いた)む施設ではない。

 館内で、区民記者は館内ボランティアの説明を聞いている。

 私のほうは、今年(2017)の広島市の8月6日「平和祈念式典」をTV中継の一場面を思い浮かべていた。
 広島市内の小学生の男女2人が「平和への誓い」を読み上げた。

『こんなの誰が書いたんだ。内実も知らない小学生に、嘘を読ませるなんて、狂気の沙汰だ』と思った。


【原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました。一緒に創るはずだった未来がありました。広島には、当たり前の日常があったのです。昭和20年(1945年)、8月6日午前8時15分、広島の街は焼け野原となりました】

 広島に原爆投下前、呉市は何度も大規模な空襲に襲われていた。広島市民は恐怖に脅えていた。三原も、今治も、松山も、周辺都市は空爆に遭っている。
「広島にはおおきな師団があり、大陸に兵隊を送りだす宇品港があり、おかしい、なぜ攻撃されないのか、もっと不吉なことが起きるぞ」
 庶民の反応は敏感で、不気味な不安のなかにいた。米軍が上空から、広島市民に撤去を求めるビラを撒く。こっそり読んでから、軍人に渡す。口コミで広がる。

 小学生たちは親元から切り離されて、学童疎開がはじまった。これが、【当たり前の日常があった】のか、嘘もいい加減にしろ、と思った。


【大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました】
 戦禍に脅える広島市民が、そんな笑顔などあるわけがない。いったい誰がねつ造したのか。親か、教育者か。それとも広島市の職員か。

【未来の人に、戦争の体験は不要です。しかし、戦争の事実を正しく学ぶことは必要です】
 国内外の要人が列席されているまえで、小学生に、事実でない朗読させて事実のようにカムフラージュする。こんな欺瞞が許されるのだろうか、広島市は。

 この小学生らが大人になり、戦前の恐怖の事実を知ったならば、心が痛むだけでなく、強い不信感を持つだろう。ぼくとわたしは利用されたんだ、と。


【まっすぐ世界の人々に届く言葉で、あきらめず、粘り強く伝えていきます】。

 小学生にそう言わせたならば、原爆被害の悲惨さをやたら強調する「被爆者」ということばから脱して、「戦争被害者」という表現に変えることだ。

「被爆者」広島・長崎に限定されてしまう用語では、世界の人びとに届かない。

 ベトナム戦争の「被爆者」とはいわない。イラク戦争の「被爆者」ともいわない。東京空襲、第一次、第二次世界大戦など、すべてにわたり「戦争被害者」なのだ。
 世界に届く用語ならば、広島は原爆による甚大な『戦争被害者』という表現にしないと、普遍性がない。

 いつまでも「被爆者」というカテゴリーに留まろうとするから、小学生に嘘の宣言をさせてしまう。もうやめようよ。毎年、内情も知らない小学生を使った、広島のお涙ちょうだいは。
 広島県は呉軍港をもっている。こんな姿勢を続けていれば、「広島平和都市」の不信感が募るだけだ。過去には反原水爆運動が極左し、分裂し、日本国民からそっぽを向かれてしまった。
 こんどは小学生のフィクションの朗読か、欺瞞か、と批判されたら、広島の信頼感が悲しいかなますます失くしてしまう。

 私には、広島市よりも、呉市のほうが、『戦争と平和の狭間にいる危うい姿』をより深く知ることができる。
「平和って、どんな努力なのか?」と考えさせられる。



 戦争とは国家間(民族間)の対立を武力で解決するものである。平和とは非暴力で解決を導くものである。
 人間はなぜ対立するのか。本能である。本能から予防や防衛という戦いの圧力が生じる。

 人間が進化すれば、戦争(本能)の勝敗によって解決しなくとも、外交交渉(理性)や相互経済・社会協力によって争いを解決することができる。

 平和技術の向上をはかる。戦争暴力の抑止をいかに磨くかである。今日的な課題である。

 こんな議論を区民記者たちとしてみたい。
 

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