A045-かつしかPPクラブ

かつしかPPクラブ・取材旅行=岩国・宮島・広島・呉、御手洗、神峰山(1)

8月20日(日)
 集合場所  東京駅・東海道新幹線・ 18番線・1号車附近 出発は7時30分発。

「みな、区民記者だから、好き勝手に乗って下さい」

「おみやげを買う時間はないんですか?」

 車内で、女性陣は2泊3日のタイムスケジュール表をじっとみつめてから、そんな質問をむけてくる。



「取材旅行だから、別に、おみやげは必要ないんじゃないの?」

「それが旅の楽しみです」

 と、いきなり内部クレームが起きる。


 ぼくの取材旅行は、相手先にも、帰りの自宅へも、まったく手ぶらだけれどな……。

 新幹線で、新岩国駅に降りると、いきなり構内タクシーはない。

 どうする?

 待つか、バスか。

 駅員に訊けば、掘っ建て小屋風の処に、タクシー会社の電話が書いてありますよ。

「きょうは日曜日で、その方面には一台もいないんだよね」

 そっけない電話だった。30分またされたあげくの果てに、バスとタクシーがほぼ同タイムできた。

 真夏の川の水遊び。それを取材したいところだが、おみやげが優先で、撮影するだけでパスしてしまう。


 瀬戸内海でも、芸予諸島は満潮・干潮の差がはげしい。ぼくは島育ちだから、当たりまえの光景で、干満などみじんも興味がなかった。

 宮島の鳥居が根元まで露出したり、水に沈んだりしている。

 世界各地からきた人たちにとって、その干満の光景の両方を愉しみたいらしい。

「厳島神社の満ち潮をじっと待っている。この呼吸の長さは、大陸的だね。西欧の考え方だ。日本人はさっさと帰ってしまう」

 男性記者の取材ポイントが定まっていた。

 五重塔で、夕陽が沈むまで、時間つぶしの歴史散策となる。



 東京出身の記者らは、また海岸に行った。そして、白色系の外国人たちを取材している。

 日没後、宮島から連絡船で本州にわたる。宮島口から広島電鉄に乗ると、もはや車窓は宵やみだった。
 

 広島の市電が原爆ドーム前についたのは、夜8時だった。鎮魂よりも、不気味さが周囲にただよう。

 昭和20年8月6日~。ここらの真夜中は、電球がない、地獄絵の場所だった。
 真夜中の孤独感と、焼け焦げた肉体や着衣、ただよう異様な死臭、赤子と両親を失った子どもたちの泣き声がひびく……。

 そんな話をすれば、怖がるから、黙っておいた。黙っているから、戦争の恐怖は風化しつつあるのだけれど。
 それはこの場で語りらずしても、せめてと、写真はフラッシュを焚かず、ぼかして撮っておいた。

 当時の悲惨な爆心地、大田川沿いに延々とつづくバラック建てのむごい情景を知るぼくとしては、ふと幼い子ども同士の会話をおもいだした。

『ピカドンは怖い。戦争したのは、みんな大人の責任だ。戦争をした大人が悪い』

 小学生の頃の、広島っ子はそんなふうに大人を責めていた。幼い同世代が、原爆孤児として、飢えて死んでいくのだから、悪いのは母も父もふくめた戦争加担の大人たちだった。

 現在の考えだが、戦争の恐怖を真に疑似体験しなければ、「平和」、「平和」、「平和都市」と叫んでも、それは念仏とおなじ。上滑りで、本気どまで疑問をおぼえてしまう。
 はたして、言いすぎだろうか。

 ぼくの現在の戦争嫌いは、広島っ子として、幼いごろのトラウマからきている。「大人がこんな惨い戦争をなぜ起こしたのか」と子ども心に、腹が立つだけで、くやしかった。
 こんな戦争国家をだれが、いつ、作ったのか。それがいまやぼくの主要テーマになっている。

 宿舎への道々、記者にそうおしえた。

「きょうは資料館の見学は、初めから予定にいれていないよ。これを機会に、1人で広島にきて。1日中じっくり資料館にこもり、悲惨な情景と向かいあい、脳裏に刻み込み、メモして帰れば、戦争恐怖の疑似体験になるよ」

 記者たちは、みな改めて一人で広島に取材にくると言ってくれた。

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