A045-かつしかPPクラブ

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(3)郡山利行

【 3.中学生の時 】


 昭和35(1960)年4月、東京都目黒区立第十中学校に入学した。 

 1年E組、自宅のすぐ近くの山田君が同じクラスだった。 彼も本読みが大好きな戦記物少年で、自宅にはいっぱい持っていた。 筆者も負けずに古本屋通いした。


    本 『坂井三郎空戦記録』:坂井三郎

『坂井三郎空戦記録』は、戦記物単行本で、一番最初に読んだ。痛快ともいえる物語の展開で、戦闘機の空戦物読書の原点になった。

『空戦』は、P・クロステルマンという英国空軍に所属した、フラン人パイロットの、ヨーロッパ戦線での空戦記である。 坂井三郎氏のような華々しさはなく、冷静な幅広い視点での物語が、好きだった。


    本『戦艦大和ノ最期』:吉田満

 筆者の父は、太平洋戦争の時には、陸軍商船隊の軍属として、シンガポール、スマトラ方面で、輸送作戦に従事していた。 そのため、艦戦記も数多く読んだ。 その中でこの

『 戦艦大和ノ最期 』は、勇ましさがほとんどなく、何度も読み返した本である。 文語体調の漢字カタカナ文であり、いつも身が引き締まる思いで読んだ。

 1年生夏休みの林間学校での、山中湖一周サイクリングの模様を、宿題作文に書いた。 数枚の原稿用紙に、手書きの挿し絵まで書き、和とじ製本した。 書き出しの一行目が、先生の笛による合図のあとの、「さあ、出発だ。」 だった。 山中湖北部の平野の景色を、故郷の景色に重ね合わせた。
 この作文を授業の時、皆の前で先生が発表してくれて、以後の人生で、文を書くことが好きになった。

     映画 『 二十四の瞳 』

 映画 『二十四の瞳』 には、いろいろな思いがいっぱいである。≪銀座カンカン娘≫が、大石先生になって、自転車でさっそうと、岬の小学校に現れた。 筆者の小学一年生の担任、大楽先生のイメージに重なった。
 そして12人の子供達の青年時代まで、彼らに寄り添う姿が、中学二年の担任、会沢先生にも重なった。


    本 『 西部戦線異状なし 』:レマルク

 2年生の夏、10才年上の兄が、「 そんなに戦記物を読むのが好きなら、これを読んでみろ 」と買ってくれた1冊の文庫本、それが、レマルクの 『西部戦線異状なし』 である。

 二十歳前の主人公、パウル・ボイメル少年の視点で描かれた、戦場の様子と登場する人達の人間描写が、衝撃だった。後年になって見た同名の映画では、更に、この原作としての存在感に一段と感動した。


    本 『 風と共に去りぬ 』:M・ミッチェル

 3年生になった頃、姉が、「そろそろ文学全集も読みなさい、これは面白いわよ 」 と、ド
サッと目の前に置いたひとつが、『風と共に去りぬ』 である。 興奮気味に一気に読んだ。


    映画 『 グレン・ミラー物語 』

 3年生の秋、この1本の洋画に感動し、そして、熱狂的な軽音楽ファンになった。生まれて初めて買ってもらったLPレコードが、『グレン・ミラー・オーケストラ』だった。

    映画 『 七人の侍 』

 3年生の秋、生徒会主催の文化祭(10中祭)で、体育館で上映されて、初めて見た。七人の侍たちが、最高に恰好良かった。
 戦闘シーンの迫力にびっくりした。

    本 『 白鯨 』:H・メルヴィル

 読むことに夢中になった、数少ない小説のひとつである。 そして映画での、グレゴリー・ペックによるエイハブ船長は、興奮せずには見られない存在だった。

 そして映画 『白鯨』 の後に見た映画で、モビィ・ディックと共に太平洋に消えたエイハブ船長が、新聞記者になって、ローマのスペイン階段に現れた時は、映画というものの面白さを、楽しんだ。

    本 『 インカ帝国 』:泉靖一

 3年生の時、級友の一人伊澤君は、横浜方面から東横線で通学して来る、読書少年だった。
彼が、級友の誰も読まない、岩波新書なるものを、いつも平気で読んでいたので、つい真似をした。 彼に勧められたのが、この 『インカ帝国』 である。
 その後大量に読み親しんだ、同新書の、記念すべき第1冊目となった。

「インカ帝国を知ったのなら、この人の本はどうだ 」 と、兄が教えてくれたのが、ノルウェーのトール・ヘイエルダールという人類学者だった。

    本 『 コン・ティキ号探検記 』:T・ヘイエルダール

『インカ帝国』を読んだ後、続けて読んだヘイエルダールの著作、 『コン・ティキ号探検記』 と『アク・アク』である。 帆走のバルサ筏(いかだ)で、南米大陸から太平洋諸島への文明の伝播を、立証しようとした海洋冒険記と、イースター島の調査記録である。 


 夢中になって読みふけった。 そこで、決意した。 将来必ず、イースター島に自分も行ってみる、と。
 時に、1962年秋である。

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