自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(2)郡山利行
【 2.小学校の時 ② 】
絵画 『湖畔』 と 『読書』 :黒田清輝
5年生の担任、大迫(おおさこ)先生は、図画が得意だった。 ある時鹿児島市の美術館で開催された、黒田清輝展に連れて行ってくれた。
『湖畔』は、筆者が生まれて初めて、女性を美しいと意識した絵である。
『読書』を見て、「台風の雨で濡れた本を、1ページずつめくっているところですか」
と、先生にたずねたら、あきれられた。
4年生の時、学校でバイオリンを習わされた。まったく弾けず、自然にやめた。
学校から帰ると、日本の北から南まで、都道府県名と県庁所在地を、順番に全部言えないと、地理の知識が豊かだった母さんは、外に遊びに行かせてくれなかった。
日置から伊集院まで、8kmの武者行列。 上写真、前列中央で、左手に先頭提灯を持っているのが、筆者である。
5年生、初めての妙円寺参りだった。責善舎とは、鹿児島特有の地域内≪郷中教育≫の場のひとつで、薩摩藩士意識の源でもある。
昭和34(1959)年3月、家族は鹿児島から、東京都目黒区に引っ越しした。同年4月から、筆者は同区立東根(ひがしね)小学校に転校した。6年4組、女性担任が高知県出身だったので、当時はやっていた流行歌 『南国土佐を後にして』 を、将来は民謡歌手とおだてられ、学芸会では独唱までした。
6年の同じクラスに、宮崎県の西都原(さいとばる)出身の、宮城君がいた。同郷的な感覚をお互いに持ち、すぐに友達になった。 その彼は、鉛筆画で太平洋戦争当時の戦艦や戦闘機を描くのが、とても上手だった。
それを真似したことで、筆者は≪戦記物少年≫になった。 絵の教本となる 『丸』 という戦記月刊誌は、新刊ではなく古本屋で買っていた。 そして、写真グラフ誌と同時に単行本も読むようになったのは、中学1年生になってからである。
【つづく】