A045-かつしかPPクラブ

東日本大震災・2人の友人②=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 葛飾区民記者の自主クラブ「かつしかPPクラブ」に所属し、積極的な活動をしています。さらに、朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ入門』の受講生として、叙述文にも力を入れています。
  

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東日本大震災・2人の友人②  斉藤永江

 宮城県名取市に住む友人からは、震災3日目に電話が入った。本人とご家族の無事が確認できて私は心から安堵した。
 しかし、福島県南相馬市に住むYちゃんは連絡が取れないままだった。何度か携帯電話から安否確認のメールを送ってはみたが、返事はまったく来なかった。

 1週間が過ぎる頃には最悪の状況が頭をよぎり、怖くてメールができなくなった。私が語りかけている内容は全て空々(そらぞら)しいものに思えた。それどころか、彼女の携帯電話は今存在しているのだろうか・・・・そして彼女も。
(そんな恐ろしいことあるはずない。あってはならない)
 不安な思いが頭をよぎるたびにかき消す。

 私は毎朝起きるとすぐにテレビをつけて、ニュース番組にかじりついた。仕事から帰った後も家事の合間をみては、南相馬市の情報がないかとチャンネルを替え続けた。

 Yちゃんと私が知り合ったのは、2005年8月で、ネット掲示板上への書き込みが切っ掛けだった。
『同年代で悩みを語りあいましょう』
 というコミュニティにふたりは同じ時期に参加したのだ。そこには全国から50人ほどの仲間が集っていた。
『初めまして、東京から参加のIです』
『初めまして福島から参加のYです。よろしくね』
 匿名同士ではあったが、全国に散らばる仲間が、近況や悩みを書き連ね、それに対してコメントを出し合っていた。実際には会うことのないバーチャルな付き合いだった。

『おはよう。東京は良いお天気。今日は仕事だよ。頑張ってくるね』
『おはよう。福島も同じく晴天。今日は休み。孫の世話で1日暮れるかな~』
『広島は宮島の紅葉が真っ盛り。昨日、実家婆と出かけたよ』
『ここ北海道は猛吹雪。外の景色もわからない。寒いよ~』
 そんなたわいもない話から、子育てや自分の健康や悩み、親の介護問題の深い話にまで及ぶ。楽しいことも辛いことも、しがらみなく本心を吐露できる。こうした掲示板への書き込みに私は夢中になった。家にいる時は、朝から晩までパソコンを開き、実際の友人には話せない愚痴や相談ごとを書き続けた。仲間からの的確なアドバイスや優しい言葉には励まされることが多かった。

 本名も年齢も実際に住んでる本当の住所もわからない。もしかしたら男か女かさえ定かではない。書いてることも嘘なのかもしれない。それでも良いと思っていた。実態がどうであれ、私が掲示板の存在に癒され救われていることは事実だった。何よりも部屋にいながら全国の仲間と対話ができる。気心までも知り合える。ネット時代に育たなかった私には、それが遠い未来からの贈り物のように思えた。

 数ヶ月が過ぎたころになると、たくさんの書き込みを通じてお互いの人となりがわかるようになり、信頼関係が育ってきた。

 半年ほど経った頃、誰からとなく、『一度みんなで集まってみない?』という話になった。
 バーチャルだけの付き合いと思って参加してきたが、掲示板の仲間と初めて顔を合わせることになったのだ。そんなことができる世の中なんだ。すごいな。今の時代に生きていて良かった。私は初めて扉を開くような、未知の出会いにわくわくした。

 2006年2月、名古屋で会が催され15人が初めて顔を合わせた。そこで初めて私は同じ年でもある、南相馬市のYちゃんと会った。成人式を迎えたばかりの息子が名古屋に住み、その上の娘にはすでに2人の子がいる。40代にして、もはや2人の孫がいると、掲示板の書き込みから知っていた。

『私は大女だよ。眉がないの。だからちゃんと眉を書かないと怖い顔なの』
 掲示板の通り、身長が170cm近くあり、眉の細い迫力のある顔立ちだったが、すっきり切れ長の目が映える美人だった。
『Yちゃん、綺麗~。姉御って感じだね』
 私はYちゃんの顔を見上げて言った。
『Iちゃんは、小さくて可愛いね』
 Yちゃんはきりっと涼やかな目をして笑った。
 性格があけっぴろげでさっぱりしている者同士であり、初対面にして話がよく合った。

 それから7年の間には、彼女が東京に来ると、浅草や柴又など観光地を案内したり食事にも出かけたりした。私の自宅に寄ってもらったこともあった。
 子育てや家庭の悩みの他にも、プライベートな出来事から内緒の話まで、お互いの秘密を打ち明けあう仲になっていた。
 掲示板上での書き込みも従前どおりで、『名古屋の息子が結婚したよ』、『娘に3人目の孫が生まれるよ』、と彼女の周りにはおめでたい話しが続いていた。

そんな中、東日本大震災が起こった。仲間の心配は尋常ではなかった。
『Yちゃん、確か福島って言ってたよね。どうなの?大丈夫なのかな?』
『今頃どこでどうしているんだろ。誰か連絡取れた?』
 安否を心配する書き込みが続いたが、Yちゃんがパソコンを見られるわけのないことは、みんなわかっていた。それでも問い続けた。

 震災から1ヶ月半が過ぎた4月28日だった。待ちわびたYちゃんからの書き込みがあった。内容よりも何よりも、Yちゃんの名前を発見しただけで、とりあえずの無事がわかって深く安堵した。
「良かった、生きてたんだ・・」

『あの日普通に仕事をしてた。もうすぐ3時の休憩だな~って』
 この文章で始まるYちゃんの書き込みは長かった。でも、内容よりも何よりも状況が知りたくて、私はバァーっと最初から最後まで目を通した。そこにはYちゃんしか体験し得ない大変な内容が書かれていた。
「書ける状況になったんだね。書いてもいいって思ったんだね。ほんとに良かったよ」
 その後に、ゆっくりじっくりと、一言も読み落とすまいと何度も繰り返して読んだ。

 そこにはニュースの報道からも知り得なかった、過酷で残酷な被災地の現実が書かれていた。

 いつまでも続く大きな揺れに恐ろしくなって車の中に逃げ込んだ。揺れがおさまったと思って家に入るとまた大きな揺れがきて、慌てて孫を抱き上げ裸足で外に飛び出た。
 それを何度も何度も繰り返し、いっこうに揺れはおさまらなかった。
 地震だけではない何かが起こっているような気がして、この世の終わりなのかと思った、という趣旨で書き込まれていた。
 『津波の被害のことは、夕方のニュースを見て初めて知りました。
知っている海岸が映って、1000人~2000人の死体が漂流しているという報道に、桁が違いすぎると恐ろしくなりました。
 海沿いに住んでいて無事だった人たちは、必死に救助に当たったそうです。ぷかぷかとうつ伏せになって浮かんでる人たちを1人1人ひっくり返して、すでに息をしていない人はごめんなさいとそのままにしておく。息をしていて助かりそうな人たちを協力して海から引き上げていったといいます。
 隣のおじさん、知り合いのおばさん、親しい人たちが流されていく現実。私の家族はみな無事だったけど、今だに行方不明の知人も多いです。娘の友人の1才になるお子さんもまだ見つかっていません』

『重くてごめんね。でも少しでもみんなに現実を知ってもらいたくて。また書かせてもらうね』 この日のYちゃんの書き込みは、この言葉で締めくくられていた。

 パソコンに向かってこの文章を打ち込んでいた彼女の姿と心中を思い、私はいてもたってもいられなくなった。
『南相馬に行こう。Yちゃんに会いに行こう。うん行く。絶対に行く』
 私は心に決めた。

                                   文・写真 斉藤永江

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