A020-小説家

「残滓(ショート・ストーリー)⑤」 咸臨丸の蒸気機関室を見る

咸臨丸の機関室 明るさ.png 船長室で、三者会談が始まった。二か所にランプが灯っていた。外国奉行・小栗上野介は、艦長の伴鉄太郎と機関長の肥田浜五郎と向かい合っていた。テーブルには伊能忠敬の日本地図が広げられた。
 航海の機関長を務める肥田は、太平洋横断の航海の際に蒸気方の筆頭で乗船している。汽缶の運転と管理、石炭消費の調整、機関部の安全管理を統括していた。かれは眉が太く、意志の強さを感じさせる。
「蒸気船の汽缶には癖があり、故障も多発するので、機関士は同一の船に張り付いており、異動はあまり行われないものです。あれから二年後の今日も、おなじ専門技術として咸臨丸に乗船しております」
 咸臨丸の対馬行きは、幕府海軍が単なる「練習」ではなく、実戦的な「外交の足」として機能した、極めて初期の重要な事例である。
「江戸湾から、外洋に出ますと、風が使えますから、追い風・横風は帆走です。微風・向かい風は蒸気を併用します。1トンの石炭で100〜200海里以上も進むこともあります。蒸気が主体で『低速巡航』ならば、1トンあたり約80〜120海里です。速力は4〜5ノットです。条件次第で、帆併用ならば、実効的にはさらに伸びます」
 機関長の肥田浜五郎は、数字による説明であった。
「蒸気船と言ってても、あくまで帆走が主体だな」
 小栗忠順が念を押した。
「はい、そうです。世界中の蒸気船は帆走主体です」
 理由は二つ、石炭の積載量の限界。それに蒸気の連続運転は石炭の消費を早めるうえ、ボイラーやパイプに負荷が強まり、故障の確率を高めるからだと説明する。

「危険海域、たとえば鳴門海峡、潮流が速い関門海峡、瀬戸内の狭水道、それに港に入港・出航のときは始めから蒸気を焚きます。高出力運転はあくまで短時間です。速力は6ノット以上になりますが、石炭消費は急増します。それと高圧で連続運転すると、ボイラーを傷めます。パイプのつなぎ目が緩み、破損のもとになります。1トンあたり30〜50海里ていどとなります」
「その判断はだれがする」と小栗上野介が聞いた
「操舵室にいる艦長・船長です。船底の機関室では外は見えません。都度、操舵室から機関室に連絡が入ります。ただ、事前の打ち合わせで、鳴門海峡、馬関海峡など、潮流が渦巻くところは、初めから本気で高出力運転します」

 船長室の船窓からみえる富士山の位置がわずかずつ動いている。遠方の伊豆半島が近づいてくる。ちらっと見ては机上の地図にもどってくる。
 地名が出るたびに、伴鉄太郎の指が本州の南岸をなぞっている。艦長の伴の眼光は強い。測量方として海図を読み、海を読む人間のまなざしだ。
――品川、浦賀、伊豆沖、駿河沖、紀州沖
 小栗の頭の中で地図と数字が重なっていく。この航路の節目ごとに「石炭の消費量、距離、帆走・蒸気の選択もしくは併用を積み上げられていた。
「紀州沖は黒潮になります。潮が速い。向きが合わねば、厄介です。ここで無理に蒸気を焚けば、石炭の消費が大きい」
 肥田が指で地図をさす。
「西国に行くのは、東向きに流れる黒潮に逆らう形になるのか」
 小栗上野介はそのように理解できた。

「はい。それに南寄りの向かい風が多い。ただ、黒潮の本流と陸地の間には、本流とは逆向き(西向き)に流れる『黒潮反流』が生じることがあります」
「さすがです。 紀州沖などでも、黒潮が大きく蛇行している場合、その縁に沿って西向きの流れが発生することがあります」
 伴がそのように説明する。
「すると、それをうまくつかまえて、船を後ろから押す順潮(following current)が約二ノットというわけだな帆走と弱蒸気で走れば、船の対水速度は4〜5ノット。対地速度は6〜7ノットになるのだな」
 数字に強い小栗忠順が、艦長・機関長の専門的な潮流の速さをくみ取って速度と石炭の消費をみずからはじき出しす。船長も、機関長も、小栗の計算力に驚いていた。

 東海道の松並木の、三保の松原から観る富士山はまさに絶景だった。船が紀州へと向かい、消えていく富士山が名残惜しかった。

――航路として紀伊水道、兵庫津、備讃瀬戸、御手洗、周防灘、馬関海峡、下関港に入港する予定である。

「肥田殿。蒸気汽缶が稼働している今、機械室を見分したい」
 小栗は強い好奇心で万延遣米使節として太平洋を横断するときも、最新鋭の蒸気外輪フリゲート艦のポーハタン号で、小栗は何度も機関室に入り、学んでいた。

 小栗は作業帽、短い作業半纏、藍染めの股引(ズボン)を借りた。機関長の肥田浜五郎が先頭に立ち、小栗は洞窟に降りるように機関室への階段を下りた。
 ドン、ドン、ドン......と機関の往復の運動が小栗の全身に伝わり、石炭の熱気が全身をつつんだ。まさに、「狭い」「暗い」「熱い」「うるさい」「振動」の五感を一瞬にして感じとる空間であった。と同時に、咸臨丸の心臓だ、という意識がもてた。

 低い天井が小栗たちの頭が触れるほどで、奥行10メートル前後である。蒸気管・給水管・排気管がまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。巨大な鉄の円筒のボイラーが唸りを上げている。

 足元の鉄板の床は熱を帯びている。

「これは横置円筒式ボイラー(オランダ式)です」
 肥田がそれを説明する、直径1.5〜2mほどの巨大な鉄の円筒だ。前面は真っ赤に焼けた焚口(ファイアドア)がある。ボイラーの表面が熱く、いずれも、手や肌でふれると、即火傷しそうだ。
「......これが、咸臨丸の心臓か」
 ボイラー横の壁際に石炭が山積みにされている。黒い粉が空気中に舞う。石炭の匂いは"焦げた鉄と混じった独特の臭気だ。

「小栗上野介殿。これが石炭庫(コールバンカー)です」
「いま目分量で石炭は九割くらいだな。すると、出航から江戸湾をでるまでの間に、石炭は一割くらいを燃焼したのだな」
「はい。本船が入出港するとき、石炭を目いっぱい焚きますから」
 肥田がそれに応えていた。

 機関室で動き回る上半身裸の作業員(火夫)の腕は太く、火傷の痕が点々としている。かれらの額には手拭を巻き、汗が目に入るのを防ぐ。スコップで石炭をすくうと、火夫はやや腰を落とし、そして焚口を開けると、炉内の真っ赤な炎が獣のように唸る。

 機関室全体が一瞬だけ真っ赤に照らされる。

 石炭を焚口へ投げ込む。蓋が閉まる。焚口が開くたび、炎が轟音で獣のように吠えた。常時40〜50度、焚口を開けると60度近い。このボイラーの上部からは、蒸気管が何本も伸び、機関へと繋がる。
「こちらへ」
 肥田浜五郎は技術職人の鋭い眼になっていた。機関の鼓動の微細な異常音一つも聞き逃すまいとする態度に思えた。

 操舵室(ブリッジ)から機関室へ伝声管(スピーキング・チューブ)で命令が伝わる。騒音の機関室にひびく拡大器になっていた。
「いま、何と言った」
「減速(蒸気を絞れ)です」
「慣れだな。拙者には、ことばが聞き取れない。ほかにどんな用語が交わされる」
「『増速』とはもっと蒸気を送れ、です。『全停止』、『逆転』は船体を後進させる」
「操舵室と機関室は、一心同体だな。感心した」
「よし、蒸気を二分(ふたぶ)上げる。焚口、開け」
 火夫が鉄の扉を開くと、炎が獣のように吠え、機関室全体が赤く染まった。

 肥田は蒸気弁に手をかけ、慎重に開度を調整する。
「このスロットル(蒸気弁)の開閉で、船速を変えるのです」
 肥田がそれを指す。
「そうか。窯の火炎は微調整できないから、ボイラーから送る蒸気の量で、スクリューの回転数を変えるのだな。異国が発明した業技とは恐ろしいものよ、我が国も、このくらいの軍艦を独自に建造できる力を備えねばならぬ。それが近代化だ」
 小栗上野介が細かなところまで、一つずつ身を乗り出して質問している。


「蒸気圧を上げれば、機関の往復が速くなり、推進力が増します。ただし、上げすぎれば汽缶が持ちませぬ」
「蒸気とは、かように速さを変えられるものなのか。列強との戦争は、こうした軍艦で戦う時代だ。刀と弓と槍だけでは戦えぬ」
 シューッと蒸気の漏れる音。ガンッ、ガンッと工具の金属音が耳に飛び込む。船が生きている、と小栗上野介がつぶやいた。

「高圧の連続で無理をすれば、短期間で損傷します。過熱・漏れ・損傷は十分あり得ます。とくに管の焼損 、継ぎ目の緩みは現実的です。壊さないように使います」
 肥田浜五郎から、技術を操る者の誇りが感じとられた。

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