【残滓(ショート・ストーリー)④】 蚕(かいこ)から横須賀造船所が誕生した
駿河台の小栗邸の奥座敷で、小栗道子が先刻(さっき)から、針と絹糸を通し、夫の羽織のほつれを縫い合わせていた。裾の縫い目が表から見えないように縫う。「くけ縫い」である。
羽織は公の場にでるための正装だから、夫がほつれたままの羽織で登城することは、妻の落ち度と見なされる。
このしごとは大身の旗本の妻のしごとである。女中任せにしない。夫が人前で恥をかかないよう、極めて細かく、美しく仕上げる。
晩秋のやや傾いた陽が、奥座敷の白い障子をかすかに茜色に染める。秋のつるべ落とし。もうすぐ薄暗くなり針が見づらくなるから、行燈に火を灯すまえに節約で、この羽織の袖と裾のくけ縫いを終えておきたい。
絹糸は木綿とちがい、なめらかで縫いやすい。針先に引かれた一本の絹糸は、とても軽く、陽に当たるとみずから発光しているかのように、やわらかな光を湛(たたえ)ている。
小栗家の知行地である上州・権田村からきた家臣らが、この屋敷に幾人かいるが、だれもが上州のお蚕さまを自慢する。
「元気がいい。寒さに強いお蚕さまですから」
江戸育ちの道子とすれば、蚕を育てことも、見たこともない。蚕自慢はのみ込めないけれど、話に聞けば、蚕のサナギが、外敵から守るために体内から吐きだす分泌物(絹糸腺液)で繭(まゆ)をつくるらしい。
この繭を釜の湯で煮て、繊維の重なりをほぐし、蚕糸(生糸)を取り出すという。
権田村に里帰りした女中が、「とても美しく、最高です」と自慢の生糸を手土産に持ってくるのがつねだ。たしかに、権田村の絹糸はしなやかで、やわらかさがとても心地よい。
「お蚕さまは宝石のような糸をおつくりになる」
道子が羽織の布の折り代の裏から針を入れ、玉結びを折り目の中に隠す。
奥の回廊廊下で足袋の音が止まった。女中が襖を細く開け、控えめに頭を下げた。
「奥方さま。表門(おもて)に、瀬兵衛(せへえ)という方がいらしております。門番の話しでは、その方が葛飾堀切の妙源寺さまでお墓参りのあと、見山楼が懐かしくて、立ち寄られたそうです。お殿さまがご不在なら、別段、取り次ぐ必要はないと言われているそうです。いかがいたしますか」
「あっ、わかった。栗本鋤雲(くりもと じょううん)さんね。幼名を と瀬兵衛だった時いたわ。夫から」
瀬兵衛とは、見山楼に通っていた。いまは昌平坂学問所頭取(現・東大総長に類似する)の栗本鋤雲である。
「昌平坂学問所の一番偉い方が、お立ち寄りになったね。粗相のないように表座敷の客間にお通しして。お茶のご用意をして。甘い茶菓子もね」
道子は、針と絹糸を裁縫箱にもどし、部屋の片隅に押しやった。
これまでに、栗本鋤雲に関係したうわさはいろいろ聞く。......この小栗家の見山楼で学び、幕府の昌平坂学問所に入学した。二十歳前後の鋤雲はあまりに頭が良く、大柄で顔がもみあげと髭が繋がった張飛(ちょうひ)のような豪胆(ごうたん)な風貌(ふうぼう)だから、周りのものから「お化けの喜多村(旧姓)」と恐れられていた。
「そんなふうな話を聞いたことがあるわ」
栗本家の家督を継いた鋤雲は、将軍さまを診る奥詰医師となり、かたや医学館で講書を務めていた。幕府の奥医師(将軍の侍医)は、1849年の「蘭方医学禁止令」の名残りがあり『漢方医学を正統とし、蘭学(西洋医学)を勝手に学ぶことを禁じる』という禁令があるらしい。ところが、鋤雲は優秀な頭脳で好奇心が強く、行動力があるから、蘭学(オランダ語)をまなび、幕府の蒸気船の軍艦・観光丸に乗船した。そのことが禁令違反だと咎(とが)められ、いっときは謹慎(きんしん)となっていた。
(こんなうわさ話を思い出している暇はないわ。どんなご挨拶をするべきかしら)
道子は手鏡で顔を映しだし、頭髪をかるく撫で、身だしなみを整えた。
道子はふだんなくソワソワと気持ちが高ぶっている自分を意識した。この緊張はなにかしら。悪い胸騒ぎとも言えないし。夫の将来にかかわる重大な予兆を察しているのかしら。
「わたしから、何か話題をつくる必要がるかしら。小栗上野介の妻として、塾頭の話をぼやっと聞いていたといわれると、夫の恥になるし」
道子の気持ちがせいてくるが、これから迎える栗本鋤雲を考えてしまう。
......安政五(1858)年には、医師でありながら蝦夷地在住を命じられ、箱館奉行所勤務となった。......鋤雲は山の上町遊郭の梅毒を駆除するための箱館医学所(のちの市立病院)を建設した。その薬草を栽培するために、七重村薬園を経営する。
久根別川の川底を浚(さら)い函館までの船運を開通させた。通商条約を締結した国の艦船、商船が入港してくるので、日本人がまだ食べない食用牛の需要が多く飼育事業をはじめさせた。
「表の応接間には上等の座布団を敷かなければ、お松に、それを言いつけなければ」
最近の噂だと、栗本鋤雲は箱館での行政手腕(病院設立や新規事業や養蚕)などは、だれも真似できないほど意欲的で蝦夷の発展に尽くしていた。優秀な官吏だから、幕府は医師の身分のまま、「昌平坂学問所の頭取」という人材育成の要職に据えたという。役人社会では驚天動地の人事だから、すぐに江戸の噂になった。
「お見えになりましたから、表座敷にご案内しました」
「上等の座布団にしましたか」
「いいえ。ふだん座敷に置いている座布団です。着流し姿ですから、格式ばったお客様ではないと思いましたから」
「そうなの。いまさら言っても間に合わないわね」
道子は背筋を伸ばし、着物の裾を払ってから、表座敷に向かった。部屋の襖をあけ、両手をついてから、ていねい挨拶をした。
「今日十一月二十一日は安積良斎先生の月命日ですから、先生の墓参りに葛飾堀切の妙源寺で出かけました」
「安積良斎先生を忍んでいらしてくださる。ありがたいことです」
「はや四年が経ちます。歳月は生きているものには光陰のごとくです。お寺さんからの帰り道、拙者の生家がすぐこの近くの猿楽町ですから、駿河台の見山楼が懐かしくて、立ち寄り、表通りから二階建ての楼を眺めておりましたら、門番に声を掛けられましてね。攘夷派の怪しい奴だとでも思ったのでしょう。こんな髭もじゃの顔ですから」
鋤雲が右手で顎を撫で、蝦夷のヒグマといい勝負の顔でしょう、と気さくな口調で言う。道子は思わず、熊そっくり、と笑ってしまった。
女中がお茶と御菓子を運んできて静かに立ち去った。
「これは蝦夷の干物と乾物です。それに、これは蝦夷で牛を放牧させて牛乳でつくった『バター・チーズ作り』の試作品です。アメリカに行かれた豊後守どのならば、現地で一、二度は食べられたかと思い、持参しました」
栗本鋤雲が紙包みを差しだす。
道子は丁寧にお礼をいった。
「放牧は日本の近代化の一つです。100年先には北海道のバター・チーズが日本中で食べられるようになるでしょう。きょうにでも、奥方が口にされると、思わず顔をしかめて吐き出すかもしれません。腐った味がするとか言い......」
クマに似た顔の鋤雲が、胸をたたきおう吐の真似をした。
その愉快なしぐさをみて、道子は思わず苦笑した。
「お噂では、蝦夷で種痘(しゅとう)をおこない、大勢のアイヌの方々の生命をお救いになられたとか。うちの殿も、子供のころ天然痘に罹患(りかん)して顔にあざが残っています。江戸はまだ種痘を恐れる空気があります。蝦夷のほうが先行されているのですね」
道子は、そのように話題を変えた。
「経緯をお話しいたしますと、拙者が箱館に赴任したとき、天然痘が猛威を振っており、免疫を持たないアイヌの集落が、次つぎに全滅しかけていました。現地では『死病』として怖れられていました。このままだと、アイヌ民族が死滅する、思いましてね、幕府の正式許可を待たず、なかば独断にちかいかたちで種痘を開始しました」
「すごい勇気ですね」
それというのも、鋤雲は蘭方医(西洋医学)の知識から、西洋人がアメリカ大陸に持ち込んだ病原体(天然痘や麻疹)が、免疫を持たない先住民のアメリカ・インデアンを数千万単位で死に至らしめた。最近は天然痘で死滅寸前に追い込まれていたインディアンが牛の種痘で救われたと知りえていた。
「医に国境なし」
幕臣という立場以上に医師としての本能がはたらき、牛痘種痘法を導入した。
当初は和人が持ち込んだ「得体の知れない医療」に対して強い警戒心を抱いていた。天然痘でアイヌの人々が絶滅すれば、そこは「無人の地」となり、ロシアに占領される口実を与えてしまう。鋤雲はみずからも、あるいは奉行所の部下らに種痘を施してみせることで、アイヌ人に安全性を証明し、粘り強く説得を続けた、と話す。
種痘によって劇的に死亡率が下がると、アイヌの人々は深く信頼し、列をなして接種を受けに来た。感謝の印として家宝の品々を贈ろうとするものもいたという。
「いいお仕事をなさったのですね」
栗本鋤雲は、箱館に医学所(医学校)や病院を設立するよう尽力した。これは単に病気を治す場所ではなく、地域の公衆衛生を底上げし、近代的な医療体制を築くための拠点づくりであった。高価な輸入薬に頼らずとも治療ができるよう、蝦夷地の気候に合った薬草を育てる「薬草園」を作ったという。
夕日が応接の部屋に差し込んできた。
「日没前に、見山楼から一望したい」
「とゔぞ」
――駿河台の街は一帯が高台にある。小栗家の二階からは見事な富士山や丹沢、奥多摩の山々が一望できるので、「見山楼」と名付けられた。
旗本屋敷の洗練された風雅な離れで、その書斎は安積良斎を慕う文人たちがつどい、海外の知識や政治を論じる優雅な談話室の役割があった。
訪問客は母屋(主屋)の玄関で取次ぎを受けたあと、庭園を通るか、渡り廊下を経て敷地の北側の神田川を望む崖側にあった見山楼へと案内された。
私塾の生徒らは、家族が生活する奥御殿を通らず、庭の木々を通り抜けて見山楼に通っていた。見山楼とは、山が見えるという意味合いだけでなく、集う者たちの「志の高さ」を高台にそびえる楼閣になぞらえたからだという。
小栗邸から多くの旗本屋敷が立ち並ぶ、静謐(せいひつ)な街が一望できるし、神田川のせせらぎが聞こえる崖際の見山楼である。
「お話がとても、興味深くで、時間を忘れるほどです
鬼才といわれる栗本鋤雲が箱館奉行所に入ったとき、単なる官僚仕事に留まらず、北の大地を「日本の近代化拠点」にしようと決意したという。そのなかのひとつ八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)を移住させて養蚕(ようさん)を興そうとしたと話す。
「なぜ、八王子千人同心ですか」
道子が興味の目を向けた。
「かれらは武田信玄の遺臣の末裔であり、半分武士・半分農民でいわゆる「半農半士」の集団です。ふだん農業に従事しているため、未開の蝦夷地を切り拓(ひら)く力がありました」
一方で、武士としての規律もあり、辺境の警備(ロシアへの備え)も兼任できる理想的な人材です。八王子は古くから『桑の都』と呼ばれ、養蚕・織物業が極めて盛んな地域です。だから、幕領地の八王子のかれらに白羽の矢を立てたという。
「蝦夷地で高品質な生糸を量産できれば、日本でいま開港した三つのうちの一つ箱館から、絹を商船に乗せて海外に運べる。地の利もあります。横浜まで持ってくる必要もない。幕府の箱館財政を立て直す、大きな武器になると確信して取り組んでいたのです」
八王子千人同心は蝦夷の「開拓・警備・産業(養蚕)」の三位一体を実現できる。外貨獲得の切り札になる。
鋤雲は箱館在住のフランス外交官・カションと親交があり、日本語をカションに教え、かれからはフランス語を習った。その中で、ヨーロッパでは「蚕の病気」が流行しており、養蚕業が壊滅的打撃をうけていると知っていた。
医者でもある鋤雲は、蚕についても研究にも取組んだと話す。
「蚕は家畜化されて数千年の歴史があます。地域ごとに自然淘汰されたり、人為選抜が進んだため、性質が大きく異なる系統が多数存在しました」
「いろいろあるんですね。存じませんでした」
「蚕の種は古来、病気に強い、寒さに強い、早熟、多収など、性質の異なる多くの系統が存在します。 この系統差が、非常に重視され、地域ごとに独自の品種が育てられております。 微粒子病にかかった蚕は、次のような特徴を示します」
成長が遅れる、食欲が落ちる、体色が白っぽく濁る、皮膚が薄く、弱々しい、繭をつくれず死ぬことが多い、生き残っても繭が小さい、糸が弱い。
「蚕は外見だけでは、強い種か、弱い種か、初期にはほとんど分からない。育ててみて、これりゃあ、だめだ、とわかるのです。ですから、ひとたび微粒子病(微粒子体=ノゼマ病)、白殻病、黒殻病などが発生すると、地域の蚕は全滅する恐れがあります。一村全滅・一郡全滅は珍しくなかった」
「怖いですね」
「微粒子病(ノゼマ病)は卵に潜むため、翌年も感染が続く。フランスがこの蚕の病魔に、織物業界が苦しんでいるそうです」
「海の向こうでも、そうですか」
「日本でも、殻病・黒殻病は飼育環境で一気に広がるし、実際に『蚕皆死す』『村中の繭が取れず』といった報告が多数ある。ただ、わが日本には、微粒子病、白殻病、黒殻病に耐性(負けない)がある、強い蚕の種がある。山間部の粗放飼育で生き残った系統に多い。とくに信州系、上州系の一部です」
「だから、群馬ではいい種があるから蚕業が盛んなのですね」
「そうです。上州・信州は酷寒の地ですから、寒さにも、病気にも強い種が、数千年の蚕理の歴史という伝統から育てられたのです。世界で一等と称してもいいでしょう」
「とても、懐かしく、夕映え近くの富士山には魅入りました。離れたくない気持ちでした。これ以上は、行灯が必要ですからと
「うちの殿に伝えておきます。きょうは、お構いもなく、申し訳ございません」。お菓子はお持ち帰りください」
道子は表玄関まで見送った。
鋤雲が小栗上野介とフランス公司・ロッシェとの対談の席で、フランスの養蚕業が壊滅的打撃をうけており、蚕について議題に乗せた。上州・信州のつよい蚕を家茂将軍の名のもとでフランス皇帝ナポレオン3世へ大量の蚕卵紙(蚕の卵を産み付けた紙)が寄贈することになった。
ナポレオン3世はその返礼として軍事顧問団の派遣や、横須賀造船所建設のための莫大な担保(生糸)や技術援助を提供しました。まさに「蚕から造船所が生まれた」のです。
