【残滓(ショート・ストーリー②】 坂下門外の変で、桂小五郎・伊藤俊介が調べられる
文久2(1862)年1月15日とは、江戸城で執り行われる「嘉例の式日」で、諸大名が江戸城に総登場する。そして、将軍に拝謁する。
この日、老中首座の安藤信正が、江戸城の坂下門外で、水戸の過激派浪士に襲われた。まさに、正月早々に幕府の上層部が襲撃された「坂下門外の変」から激動の文久二年がはじまる。
この暗殺団の首謀者は尊攘派で、幕府が三日前からその一部を捕縛していた。だが、その網から逃れた一味が襲撃を実行したのだ。
手口は二年前の桜田門外の変で井伊大老が暗殺とほぼ同じであった。むろん、警備は厳重だったので、斬りこんだ6人は皆その場で斬り殺された。安藤は背中のかすり傷であった。警備陣の死者もいなかった。
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ここ1年半前、水戸藩の西丸(さいまる)帯刀(たてわき)の尊王攘夷派たちが、長州藩の桂小五郎・松島剛蔵(ごうぞう)と「丙(へい)辰(しん)丸(まる)の盟約」を結び、要人の暗殺や外国人の殺害、外国公使館の放火などが計画されているようだ。町奉行はその情報をつかんでいたから、江戸城坂下門外の決行前に、多くを捕縛していた。
世の中には、何ごとも遅刻魔がいるものだ。この坂下門の襲撃に遅刻したのが水戸浪士の川辺左治右衛門である。かれがトボトボと長州藩に桂小五郎を訪ねて行ったのだ。桂五郎は不在だった。長州藩の奥平数馬が対応した。長州藩・有備館の講堂で待たせていた。
「切腹の場をお借りしたい」と自刃したのだ。外出先から伊藤俊(しゅん)輔(すけ)伊藤が帰ってきた。
大声がするので駆け付けると、川辺が脇差で腹を切り、喉を横につらぬいていた。1月16日に、伊藤俊輔が南町奉行所に、川辺自刃を届け出た。18日、奉行所の黒川備中守盛(もり)泰(やす)は桂小五郎と伊藤俊輔を呼びだし尋問した。
川辺が、『斬奸(ざんかん)趣意書(しゅいしょ)』を持っていた。公儀役人が調べると、坂下門外で斬り殺された浪士の袂から回収した趣意書と同文だった。
その『斬奸趣意書』は、井伊大老暗殺の趣旨から始まる。そして、安藤老中が自己の権威を守るために、天朝を侮り、和宮降嫁を強請したという。天皇の廃位を企てている、神州の罪人だ。さらには品川御殿山に、夷狄に貸して、公使の建設をはじめている。シーボルトを日本の政務に向かい入れた、奸人(かんじん)だと決めつけている。
井伊大老の暗殺事件につづく安藤老中の暗殺未遂事件を幕府転覆に類する重大事件として、北町奉行所は、老中暗殺の一味だと明確なので、町奉行所は長州藩の関係者の取り調べに入った。
『斬奸趣意書』と「丙辰丸の盟約」から、長州藩の有備館は水戸過激派と、長州藩不穏分子が連動する集合・密会場所だ、と認定した。
藩の治外法権を超えた取調べをおこなった。
長州藩といえば家老・長井雅楽が公武合体と組み合わせた開国論を『航海遠略策』という構想にまとめ上げて、藩主・毛利敬親に提案した。朝廷と幕府が反目するのではなく、たがいに融和し、合体し、国論を統一していくものである。
そのうえで協力して外交を進め、開港によって国の産業や通商を盛んにし、軍備を高めていくという内容だった。
朝廷や幕府の公武合体派にこれをした歓迎した。とくに幕府からみると、公武合体、開国容認、国力増強で理想案であった。毛利敬親はこれを長州藩の藩論としたのだ。幕府も、これは卓見だと言い、朝廷に対して、皇妹の和宮と家茂将軍の縁談を勧めたのだ。
長州藩内で、松下村塾のかつての門下生である久坂玄瑞、来原良蔵などの勤王志士を名乗る者たちが、長井雅樂に反旗が翻ったのだ。
「公武合体とは名ばかりで、幕府が主で、朝廷が従となっている」
「朝廷の権威を弱体化させるものだ」
水戸藩と長州藩の過激派たちが、安藤信正の殺害を計画したのである。
しかし反面で、長州藩のちょう高島秋帆内 攘夷断行および朝廷中心国家の思想を拡大する久坂玄瑞、来原良蔵ら松下村塾系は、疚しく承服できないものだった。
ここから薩長が歴史の中軸として回りはじめるのだ。
小栗上野介忠順のもとに、町奉行所から、『斬奸趣意書』と「丙辰丸の盟約」の写しが回ってきた。
それを目にしたときに、「表では幕府に従順な顔をし、裏ではテロリストを匿う」という状況に対し、長州藩の統治能力そのものを疑い、あるいはその二面性を「幕府に対する組織的な反逆の準備」と見なした
藩主の毛利敬親が、藩内の不穏分子(久坂玄瑞ら)を制御できていないという現状をみぬいた。長州藩という組織自体を「信頼に値しない不安定な勢力だ」と断じただろう。
井伊大老の暗殺が倒幕への第一弾とすれば、文久二年の坂下外の変がる第二弾である。対馬に向かうときに、下関にイギリス艦が長々と停泊していた。その時の疑問が、この坂下門外の変から、警戒心で長州をみるようになった。
奉行所は、拷問申請も辞さない態度だった。藩士としても、江戸町奉行所に呼び出されて白州で取り調べられること自体が屈辱であろう。
桂小五郎はいちども面識がない人物が訪ねてきた。長井雅樂に相談に行った。帰ってくると死んでいたという1点張りだ。
「有備館の全員を呼び出すことも考えおる。周布政之助も安藤老中の襲撃をしたであろう」
町奉行への出頭命令は毛利家先祖代々からみても恥辱である、放免を要求する。
そんな内容の嘆願書が、有備館一同の名の下に、幕閣に提出された。文面は暗に、幕府は長州藩を敵に回して決戦する気か、とにおわせる。
それを境に、小五郎と伊藤俊輔は、病気を理由に裁判所の出頭を拒みはじめた。武士の治外法権の壁で守られていた。
身分の低いものが代理で出てくる。片や、長井雅樂が裏から久世大和守など4人の老中に手をまわす。安藤信正自身も、公武合体が進んでいるさなかだし、さして傷は深くないと言い、長州藩の奉行所の襲撃という厄介な事情は回避に回ったのだ。
小栗上野介は3月9日に、小姓組(こしょうぐみ)番頭(ばんかしら)(将軍の身辺警備)となった。
「安藤老中は甘かった。黒川奉行ももっと強気で、桂小五郎を処分すべきだ。後々に遺恨となるだろう」
小栗上野介はそう呟いた。
安藤信正は老中から追われた。
