A020-小説家

ペリー来航は世界にむけた日本の学術開国であった。米国とオランダから重要な裏付けがとれた

 私はドイツをまわり5日目、オランダ・アムステルダムから列車で約30分のライデンに降り立った。雨の日で寒い。この都市はオランダ最古の大学都市であり、国立民族学博物館、日本博物館シーボルトハウスがあることで有名である。
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 歴史小説「妻女たちの幕末」が出版される日(11月1日)に、作者が日本を離れる。ふつうはあり得ない。だが、私はどうしても作品の核の一つペリー来航による日本開国に関する記載に対し、オランダ側の裏付けを取りたかったからである。

 1853年、ペリー提督がニューヨークから地球を3分の2をまわり、延々と7か月も経て江戸湾に来ながらも、初来航ではわずか9日間にとどまっただけである。それも上陸したのが、米国大統領の国書を渡す、久里浜の2~3時間だけであり、浦賀にも上陸していない。なぜか、かれは江戸湾の水深調査だけで終えて日本を立ち去っていった。
 別段、砲艦で脅したわけでもない。ペリーの来航の真の目的は何だったのか。私はそこに着目した。

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 わが国の教科書や学術書や小説など、あらゆる幕末書は、ベリー来航で日本国中は大騒ぎ、と表記している。
 徳川幕府側の資料はどうなのか。調べてみると、意外にも、ペリー提督の初来航の9日間は冷静に対応している。

 9年前に浦賀にきたビッドルは平穏に浦賀から立ち去っている。さらに、その後のペリー来航より5年前(1848)、米国東インド艦隊のジェームス・グリン中佐が、長崎に米国捕鯨船の海難民(13人)と冒険家のマクドナルドを引き取りにやってきた。(オランダからの米人収容者の情報で)。
 グリン中佐と長崎奉行(井戸覚弘・さとひろ)は、初の日米交渉に成功し、無事に長崎から米国人の引き渡しがなされている。
 こうしたアメリカとの折衝の経験もあり、幕閣はペリー初来航にたいして沈着冷静に対応している。後世の書物でみるような、浮足だった大騒ぎなど微塵もしていないのだ。

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 翌(1854)年、ペリー再来航による日米交渉が横浜でおこなわれた。日本側は林大学頭が筆頭に、かつてグリン中佐に対応した元長崎奉行・井戸覚弘(江戸北町に昇格)らも加わっている。
 林らの交渉記録「墨夷応接録」が現存している。日本側とペリー側は公平・対等の交渉であった。砲艦外交など、後世のねつ造である。林の細部の内容をもって、それが証明できる。
 この「墨夷応接録」は、明治から太平洋戦争後まで世に出ていない。なぜか。御用学者がねつ造した「蹂躙されて開国」というストーリーに合わなかったからである。終戦後に一度は出版されたが、話題にもならなかったようだ。近年(5年前)にそれが世に出てきている。

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 日本側の学術書など幕末資料は鵜呑(うの)みにできないと考えた。私は新聞連載小説「妻女たちの幕末」の執筆にあたり、1850年ころの英米蘭の海外文献や、ペリー提督が書き残した資料、来航時の海軍士官たちの学術レポート、ニューヨークタイムスなど米国新聞から、日米の展開を解析した。
 
 現代はAIで英文が自動翻訳できる。これは明治からここ数年前まで150年間における、どんな著名な歴史作家や大家でもできなかった情報収集の技である。
 私はそこに強い自信を持った。より真実に近いところで作品が展開できた。明治時代に勝者になった薩長閥の都合の良い、一方的な作り話・幕末史をくつがえす、内容となった。

「妻女たちの幕末」の執筆で、オランダ側の資料はシーボルトが追放されるまで、それなりに日本に資料はあった。
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 16世紀から、オランダは航海技術がたけており、海軍力も英国・スペインよりも勝っていた。ハーレムの黄金時代が誕生した。
 17世紀前半 オランダの全盛期だった。
 ジャワに東インド会社を設立し、さらにアメリカの南北大陸・アフリカとの交易を行う特権会社として西インド会社を設立し、北米のニューヨーク州もオランダの植民地だった。

 オランダ東インド会社は世界最初の株式会社といわれ、資本主義社会の企業の原型となった。広範囲な交易から、首都アムステルダムは世界金融の中心地として栄えていた。

 日本は欧州では唯一、ジャワに東インド会社の交易を許していた。そして、長崎のオランダ商館長の江戸参府(166回)で海外情報を入手していた。ここらの資料は幕府側にあった。

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 アメリカ合衆国の日本遠征は当初、東インド司令長官にジョン・オーリックが特使だった。ところが不祥事から解任された。そこで退役軍人でメキシコ戦争に活躍したベリーに、代将(提督)のはなしが持ち込まれた。

 日本遠征はアメリカ大統領の親書をとどけて平和条約を結ぶ役目である。海軍長官から「武力行使による条約締結は、民主党が多数派の議会の承認が得られない、戦争はするな」という足カセがついた。
 メキシコ戦争の英雄・ペリーにすれば、戦いで勝って条約を結ぶならば自信はある。だが、自分は軍人であり、外交官でないし、デベート力(交渉術)はないと苦慮した。かれは日本遠征を引き受けるか否かと二か月間ほど悩んだ。

 十九世紀は蒸気船の発達から地球が狭くなった。科学進歩の目覚ましいものがあった。欧米は貿易の富を背景にして科学進歩の競争時代に入った。十九世紀は新発見競争が過熱した。
 西洋人が足を踏み入れていないアマゾン探検、アフリカの奥地の探検とか、南極・北極はだれが一番乗りするかとか。ダーウィンの進化論によって科学が変わった。遺伝学の分野とつながる動植物の新種の発見競争が国家規模となった。

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 悩むペリーはニューヨーク州のハーバード大学の植物学の教授を訪ねた。
 日本は鎖国状態で、動植物が二百数十年間にわたり、品種交配がなされていない。日本列島はカムチャッカ半島の近くから台湾付近まで七千余の島がある。海流は複雑だし、気候も、森林も、降水量も特殊だ。北半球におけるも世界に知ら入れていない品種の宝庫である。
「西洋のオランダが単独で日本の博物学、動植物学、民俗学、天文学など学術独占している。これを世界に開放すれば、19世紀の科学の進歩につながる」
 ペリーに日本遠征を引き受けて学術開国するように勧めた。アメリカは独立からわずか七十年にして、世界に科学の分野のフロンティアを示せる、と。
 ペリーは、シーボルト著「日本」など読みあさった。かれはイギリス商人のような交易目的でなく、学術開国に燃えた。

 ペリーが東インド艦隊司令長官に任命されたと、新聞報道が世界に伝わった。西洋の科学者たちは、乗船を希望し、数多くの申し込みがきた。最もライバルとするシーボルも乗船を希望した。「日本幕府から追放された人物は乗せられない」
 軍艦に民間の学者を乗せるのは本来の海軍の趣旨に反する。そこで、ペリーは海軍士官らに一人ずつ研究科目を与えた。74余の科目を割り振った。論文は国務省のものにする、とした。

 アメリカの海軍士官は優秀だった。アメリカ東インド艦隊が、ニューヨークを出発し、喜望峰、セイロン、沖縄、小笠原、あらゆるとこで半月、ひと月、学術研究で滞在し、日本にやってきた。それは嘉永6(1853)年6月3日夕方4時ころ、浦賀沖に初来航した。
 蒸気船2隻、帆船二隻の計4隻である。

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 私はオランダのシーボルト記念館に「妻女たちの幕末」を持参して訪ねた。取材申し込みをしていた副館長(学者)は、あえて休館日に対応してくれた。
「歴史小説ですが、歴史教科書を塗りかえる使命を持つ本です。それだけに作者の責任として、出版日に日本を出てきました」と来意を語った。
 上記のあらましを語った。
「ペリー来航は学術開国に間違いありません。オランダが落ち目でしたから、狙いすましたのです。オランダ叩きです」
 副館長は明瞭にそう言い切った。

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 18世紀に入るとイギリスは産業革命から、科学技術の発達と産業の仕組みの変革により、「世界の工場」と呼ばれるようになった。貿易の拡大で富を築いて大発展し、植民地帝国になった。 
 オランダは海外市場の覇権を失い、衰退期になった。
 フランス革命・ナポレオン時代になると、オランダ全土が制圧された。フランスの支配を受けると、1799年にオランダ東インド会社を解散した。オランダは世界から一時、消滅する。亡国となったが、長崎出島だけがオランダ国旗を掲げていた。
 傭船のアメリカ船がオランダ国旗を掲げてやってきた(米船11隻は船名も確認できる)。ただ、オランダ船と船体の形状が違う。長崎奉行はそれを知りながら将軍には報告していない。大槻玄白(仙台藩)などは気づいていたようです。

 オランダ東インド商会のあと、植民地政庁となった。激しい反植民地闘争の戦争が起こった。
 19世紀の半ば、オランダは国力はなくなっていた。
 反面、米国はカリフォルニアのゴールドラッシュから、世界に羽ばたくフロンティアの輝かしい時代となった。
「世界に強さを示す。衰退したオランダ叩きです。オランダの貿易と学術独占をこわす。世界の学者に向けて日本を開放する。まさにアメリカのフロンティアを示すことができる、最高の演出がペリー日本遠征です」
 ペリーにとって発展途上のアメリカの力を見せる格好の国が日本でした、と副館長はつけ加えた。
 日本を蹂躙して植民地にするなど毛頭考えていないし。公平で平等な条約です。ペリーはアメリカ大統領が海軍力のない日本を守るとまで約束して帰っているのです。
 それが日米修好通商条約第2条で謳われている。

「オランダの学術独占が壊れたあと、ヨーロッパの学者は日本に目をむけました。たとえば、プロシアは7番目の通商条約を結ぶとき、大勢の学者を軍艦に乗せて日本に向かっています。それはペリーが学術開国したからです」

 私は、こうしてペリー来航の主目的が、世界の学者に向けた学術開国だった、と裏付けが取れた。
 私たちが学校で習った、狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」も、明治10年ころの創作で、事実に反する、と最近の教科書から消えた。 
 この先「妻女たちの幕末」がより広範囲に知れ渡ると、我が国の歴史教科書がすっかり変わる、と確信をもつ。
「ペリーの砲艦外交」は死語になる。「癸丑(きちゅう)以来の未曾有(みぞう)の国難」とか、「ペリー提督の鬼の顔」が歴史教科書から消えるだろう。

                「完}
【関連情報】

「妻女たちの幕末」(南々社) 2300円+税 
 
 

 

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