A020-小説家

『穂高健一のエッセイ』 恐怖のサイレン

 私には絶対音感がないから、音痴である。楽譜通り、まともに歌えない。中学の音楽の時間に、私にすれば真面目に歌っていたのに、音楽教師がなぜ、何回も音を外す、と声を荒げた。
 悪質な生徒だと見なされたのか、運動場を三周してこい、と命じられた。
 広い運動場を一人走っていると、各教室から顔を出して愉快がる生徒らが大勢いた。私は照れ隠しで、手を振った。それを咎められて、職員室に立っておれ、と怒られた。
 それがトラウマになったとはいわないが、絶対音感は育たないものだ、いまも、お金を出してまで、カラオケに恥をかきにいきたくない心境である。

 こんな私にも、ふるい曲に思い出が重なっている。ふと耳にすると、当時を思い出す。小学生のころ隣家のお好み焼きだったので、窓越しに「お富さん」の曲が流れ込んでいた。中学生は「カラタチ日記」で、同級生の女子との噂をながされ、からかわれる曲に使われた。島の高校は「恋の片想い」で悶々とし、勉強がまったく手につかず、人生の岐路を変えた。進路指導は広島か岡山の大学だったが、東京の私立大学に進学した。

 瀬戸内の島育ちだから、東京から交通費を出してまで房総や三浦海岸まで行きたいとおもわない。もっぱら八ヶ岳や北アルプスで「山男の歌」である。

 こうした曲名をならべると、私は昭和人間だとわかってしまう。むろん、昭和生まれを隠す気持ちなどみじんもない。むしろ戦中、戦後の極貧、高度成長、日本が第一回サミット加盟国という誇らしさ、平成の悲惨な大自然災害、令和の世界的な疫病のまん延という波乱に満ちた時代を体験できた。

 小説家としては多様な変化に満ちた体験世代だとおもう。

 さかのぼれば、高度成長期には、私たちがはたらいた税金の何割かが、太平洋戦争の加害国として、アジア諸国に戦争賠償金、資金援助としてつかわれてきた。親の世代で戦争をして、子どもの時代で支払う構図だった。当然支払うべきものだと抵抗はなかった。

 話しはさらにもどるが、私が一歳半のときに終戦である。本来ならば、戦時体験など記憶にあるはずがない。ところが私のからだには戦争の恐怖がしみ込んでいる。

 高校卒業で島を離れるまで、町内の火災を知らせるサイレンがことのほか怖くて、いつも脅えていた。それは不思議な現象だった。
戦時中、島の港内に停泊する商船が機銃掃射で狙われていたらしい。母から、今治の町が爆撃で真赤に燃えて怖かったし、防空壕の出入口から恐るおそる見ていたと聞かされた記憶がある。
「サイレンが怖いのは、これだったのか」

 想像するに、当時24歳だった母は、敵機襲来という空襲警報のサイレンが鳴ると、とっさに両手で幼児の私を胸に抱きあげる。父は出征しており、心細く、「外地から帰ってくるまで、この子を殺させてはいけない」と強く抱きしめていたという。

 おおかた幼い私の耳には、母の恐怖の心臓音がドキドキと脈打って聞こえていたのだろう。サイレン音とともに、からだが恐怖を覚えてしまった。

 私には、兵士を送りだす軍歌だの、機銃掃射の音だの、沖を航行する軍艦だの、それらはまったく記憶に残っていない。早朝なのに、山の端のかなたがぴかっと光った、あれが原爆だったと聞かされていた。これも、戦争が終わってからだ。

 私たちの同世代は、親を亡くした戦争孤児、原爆孤児、大陸引揚者の飢餓寸前の子らである。敗戦後はGHQ国連占領軍の支配下にあり、だれもが極度の食糧難で飢えていた。米の飯など食べられない。貧乏人は麦を食べろ、と言われた時代だった。
 私がバナナをはじめて食べたのは小学三年、チーズを口にしたのは小学五年だった。敗戦とはそういうものだった。
 でも、太平洋戦争に負けて良かった、と真におもった。子ども心に軍隊にはいきたくなかったからだ。

 それというのも、出征した父が持ちかえった写真アルバムがある。一つは、射殺した大きなトラにまたがった軍服姿の父の写真だ。小隊が人食いトラを数日間追って射止めたという。
 小隊長だった父の真上の岩壁から、飛び降りてきた瞬間、仲間が下から射殺してくれた。間一髪で助かったという。
 もう一つは、深い雪のなかで、複数の軍人のさらし首があった。私は子ども心に「誰なの」と聞いた。すると、金日成(きんにっせい、北朝鮮の初代最高指導者)の腹心だよ、とさらっと答えた。旧日本軍としては手柄だった口ぶりだが、多くは語らなかった。
「戦争は残酷だな」
 その強い印象が私を戦争嫌いにさせた。


 現代社会でも、世界のどこかで戦争がおきている。被害に苦しむ子どもたちの報道がなされる。難民の子どもらも、私の体内サイレンのように、戦争の恐怖体験がきっと消えないとおもう。
 戦争と平和はコインのように裏表の両面性がある。

いまの私は、政治家が「国を守る」と発言すると、すぐさま戦前の『祖国を守る』政策を連想し、ぞっとしてしまう。そして、体内に潜む恐怖のサイレン音と結びつくのだ。

 為政者が『国民一人ひとりを守る』といえば、個々人の命を大切にする、平和維持の政治活動につながるのに、とおもう。用語の使い方はとても重要で武器解決でなく、外交努力になる。

 子々孫々まで、私たちは空襲警報の恐怖のサイレンを聞かせたくないものだ。

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