小説家

戦争が残した非情さ。女と男の悲惨な生き方を描く=小説「神峰山」発刊予定

 私は単行本「神峰山」(かんのみねやま・2000円)を年内(2018)に出版する予定である。
 昭和20年代、広島県・大崎上島に、木江(きのえ)港という瀬戸内随一の遊郭街があった。その町に生まれ育った私には、当時の空気感が未だ十二分に残っている。
 昨年度(2017)の8月11日大崎上島「山の日」神峰山大会から、朗読用として中編小説の執筆をはじめた。
 第一作「ちょろ押しの源さん」を、日本ペンクラブ有志が立ち上げた文藝同人誌「川」で発表してみた。自家自賛するようだが、かなり評判が高かった。すぐさま、出版の話がでた。
 他の4編は中編小説の書き下ろしとして、5編を収録した単行本「神峰山」として年内に発刊する予定である。すでに著者校正の段階なので、おおかた11月頃だろう。


神峰山の山頂付近から。眼下の集落が木江港


【作品の狙い】

 戦争は人と人が殺し合うもの。戦場や戦禍を描くだけが戦争小説ではない。敗戦、休戦で、庶民に平和がきたわけではない。
 太平洋戦争が昭和20年8月15日に終わった。軍人政治家たちは社会を破たん・破局させたまま、政治舞台から降りていった。無責任にも政治責任を負わない。
「戦後の日本」は無政府状態に陥り、庶民はどん底の悲惨な生き方を強いられた。人間は悲しいかな、さらなる弱者、底辺層が生み出されていく。戦争が残した非情さ、抗うことができない運命のなかで生きる、女郎たちと男たちの悲しみの日々を中心に描いている。

 昭和20年代の生きることに必死だった戦後の庶民の姿こそが、『2度と戦争をしてはならない』という歴史的な証言である。それを小説のテーマにおいた。
 
 登場人物は5編とも、魅力的に克明に描いた。それぞれが逆境のなかで、前向きに必死に生きている。結果は途轍もなく不幸だったにせよ、涙なくしては読めない作品になっている。
 舞台のプロアナウンサーすらも、涙声の連続で朗読したほどである。

             *

 私の脳裏には、広島原爆の孤児、太田川沿いのバラック建てなど、しっかり刻まれている。木江港の遊郭街はリアルに存在する。ある海軍中将の遺族から資料提供もあり、事実に近いところで描いている。

 私が小学6年生のときだった。昭和30年5月11日、宇高連絡船どうしの衝突事故が起きた。世界で3番目の海難事故で、小中学校の修学旅行生が多数乗船しており、生徒と教師が多く水死した痛ましい出来事だった。

 当初、私たちの通う木江小学校が5月9日出発で、予定通りならば、紫雲丸に乗る予定だった。そして、一週間後に同じ町内の木江南小学校が出発だった。両校はほぼ生徒数がはおなじだった。
 運命のいたずらか。この2校の出発日が直前で入れ替わったのである。かれら木江南小学校が宇高連絡船の事故に遭遇した。そして、生徒22人、教師3人、併せて25人が犠牲になった。
 私たちは六年生全員が南小学校葬に参列した。松村文部大臣が弔辞を読んでいた。
 中編小説のタイトル『女郎っ子』のなかで、運命のいたずらと言えば残酷すぎる、この紫雲丸事件を展開している。


        紫雲丸事件の海難現場

 単行本「神峰山」を脱稿した私は、ことし(2018年)9月7日、木江小学校に出むいて25人の慰霊の前で手を合わせた。
 少年・少女の遺影写真の25人を見入った。記憶どおり松村元文相の弔辞の原文が残っていた。当時、新聞報道された現場写真を掲げられている。幼い生徒たちが死に逝く寸前で撮影されている。痛々しいかぎりだ。
 翌々の10日(雨)、私は紫雲丸事故の同海峡にむかった。この宇高連絡船の紫雲丸事故から、瀬戸大橋を架けようという運動が広まった。現在は、高松と岡山間は鉄道と道路で結ばれている。貨車を運ぶ当時の宇高連絡船は廃止になっている。

 事故現場により近い航路を持っている宇野・高松フェリーに乗船した。雨降る海で、風景は霞んでいる。島々の間を縫う。岩礁、浮標などそばを航行する
 雨雲の視界を狭めて薄ほんやり水平線ができる。


      高松港の全景 

 昭和30年5月11日の事故当日は濃霧だった。紫雲丸は国鉄の体質の時間どおり、レーダーに頼って全速力で航行していた。そして、おなじ国鉄の連絡船・第三宇高丸と衝突したのである。
 衝突現場に差し掛かった。
「予定通りならば、私が紫雲丸に乗っていたならば、どんな行動をとっただろう。泳げる私でも、死んでいたかもしれない。単なる運命の差なのか」
 その推考はいまだに頭から離れない。

          *

 小学校は違っても大崎高校では、島内の小・中学が一つになる。南小学校・中学から進学してきた同級生の、ある男子生徒に、私は紫雲丸事故の状況を訊いてみた。
「ぼくは第三宇野丸に乗り移った。だから、泳がなかった。だから、まったく濡れなかった」
 かれは口重たげに、そう言った。
「木江小学校(難を逃れた方)の六年生は、先生に引率されて、南小学校の学校祭に行った。遺影を見ると、犠牲者のほとんどが女子だった? 漁師町の女の子は、家の手伝いといえば、漁船に乗ることだろう。泳げないわけがないよな」
 島の人間はうわさ好きだ。大半の犠牲者が女子が多かった理由は、事故直後から、私の耳にも入っていた。真実を知りたかった。かれの口から確かめたかったのだ。
 だが、高校のクラスメートは語らなかった。

 沈没した紫雲丸には、いくつもの小中学校の修学旅行生が乗船していた。木江南小学校の教師は3人死んだ。
「先生の犠牲者の数は、南小学校がいちばん多かったんだよね」
 かれは無言だった。
(真相を知っている顔だな)
 かれの深く悶々とした顔から、それを読み取った。
(そっとしておいてほしい)
 高校時代の同級生は、そんな表情に変わった。

 泳げる女子が同校で二十人死んだ。なぜか。クラスメートは語らなかった。私は単行本「神峰山」のラストシーンで紫雲丸事故の、これら疑問も復活させて描いている。
 高校のクラスメートの沈鬱な顔がよみがえりながらも、私はそれを素材にして筆を進めた。大崎上島を素材にする以上は、紫雲丸事件は避けて通れなかったのだ。
 作品の校正者が、まさかというストーリーですね、と言った。小説家は非情だな、という自戒の念がある。

 高松港に着くと、屋島に登ってみた。紫雲丸事故が発生した場所が一望できる。私たちと入れ替わった木江南小学校の死者たちを悼んだ。

「フィクション小説とはいえ、厳しい境遇を描いたな。小説『神峰山』のいずれの主人公も哀れすぎる」
 私はこころのなかで、いつまでも呟いていた。

 高松港の町並みには夕方の灯が点きはじめた。もはや屋島山頂からの終バスはなかった。


 

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