A020-小説家

第11回歴史文学散策=江戸城は武将たちの盛衰すらも消えた。春は盛り

 文学・作家仲間の「歴史散策」は第11回目となった。メンバーは7人(日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の有志)である。初回からおなじ仲間である。

 山名さん(歴史作家)、清原さん(文芸評論家)さんが解説役だ。2人はともに歴史関係の雑誌執筆の常連で、これまでも江戸城の歴史を書いている。同時に、公開講座などでも、歴史散策ツアーの講師として活躍する。

 吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、井出さん(事務局次長)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)も、そして私を含めた5人は歴史好きである。

 こんかいは夜の呑み屋が決まっていない。これがいきなりの課題(話題)だった。



 地下鉄・大手町から5-6分で、「大手門」に着く。集合場所では、山名さんの自筆『名城をゆく・江戸城』が配布された。
 その冊子には弓矢を持った太田道灌像がトップを飾る。
 そして、江戸城の年表や特徴が明記されていた。


 江戸城の入園は無料だ。ありがたい。入園の参観札をもらう。(出口で返す)。

 ひとたび城内に入ると、喧騒とした大都会から、別世界に入る。

 相澤さんは、長年この近くの大手通信社(千代田区)に勤務していたのに、初めて江戸城に来た、と妙に感激していた。

 江戸城といえば、すぐに徳川家と結びついてしまうが、1603年、家康が江戸幕府を開く以前の、江戸城の歴史は一般にあまり知られていない。

 1457(長録1)年に、太田道灌によって築城されている。

 道灌は暗殺される。やがて、上杉氏、北条氏などの支配下になる。そして、1590(天正18)年になると、豊臣秀吉が小田原・北条氏を滅ぼし、家康が関八州をたまわり、江戸城を領する。

 ここらは山名さんが詳しく説明してくれる。


 三の丸尚蔵館から、同人番所の屋根瓦に、徳川の象徴・葵の御紋が残っていた。さらに進むと、「百人番所」で、本丸の最大の検問所だった。
 鉄砲百人組の与力・同心が交代で詰めていた。

 大名たちが登城する行列はここで終る。この先に供侍は入れなかった。

 現在はこの先、本丸、二の丸、三の丸(一部)が一般公開されている。

 身分制度の厳しかった江戸時代を想うと、隔世の感がある。


 大手中の門跡、富士見楼は現存する3楼の一つ。

 どこから見ても、おなじ形に見える。江戸初期には、ここが海辺だったという。

 現在では考えられない、海が真下にあったなんて。 

 その後、江戸城の周辺が、どのように造成されてきたか。それが7人の話題となった。

 松の廊下跡にきた。かつては畳敷きの大きな廊下だったらしい。

 ボランティアガイドが団体さんを相手に、「浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件」を語っていた。

 吉良は名古屋に行けば、良い殿様だ。

 「忠臣蔵」が大好きなひとは、おおかた浅野に肩を持つ。それが歴史のおもしろさだろう。

 歴史の看板がなければ、「松の廊下」があったとは思えない。周囲はうっそうとした樹林帯だった。

 江戸城の石垣の大半は、伊豆の石切り場から運ばれてきた。

 これら資金、労力を投入した藩などの家紋が、城石に入っている。

 「丸に一」の島津家もあった。

 

 
 二の丸の雑木林は昭和天皇の意向で、武蔵野の面影が残されている。

 クスノキ、ケヤキ、クヌギ、コナラの森がある。そのなかに、シャクナゲが咲いていた。


 桜が満開だったので、女流作家の記念撮影です。

 人気の女性作家だけに、どこか輝いている。
 


 梅林坂、平川門、書陵部、それぞれの掲示板の前で、皆が食い入るように眺める。

 さすがプロ作家たちだ。一字一句も見逃さず、それを読み込んでから、話題にする。

 何ごとも関心度が高く、好奇心がなければ、執筆はできないから、当然だろう。

 江戸城にはなぜ天守閣がないのか。多くの人には疑問だろう。

「天守台は3度、5層の天守閣が建設されたの。面積は大阪城の2倍以上だった。でも、1657年の大火で、全焼してしまった。加賀前田家がいまの天守台まで築いた」と山名さんは話す。

 保科正之(ほしなまさゆき、家光の弟・会津初代藩主)が、もはや平和の世のなかになったことだし、天守閣の再建費用よりも、焼失した庶民の復興につとめるべきだ、と進言した。

 それが受け入れられたから、江戸城には天守閣がない。

 かつては皇居東御苑であった。いまは徳川将軍の居城の見学コースだ。江戸城内は見るところがたくさんある。

 時には都道府県の「木」があったりもする。いきなり現代に連れ戻される。それはそれで楽しめるけれど。

 本丸、大奥の跡は広々としている。

 江戸時代には最大で約3000人の奥女中がいたようだ。幕末には1000人くらいになった。彼女たちは「行儀見習い」の色彩が強かった。

 将軍に見初められて(選ばれて)、側室になるには、宝くじ並みに、かなり確率が高かったのだろう。


 

 戦後の吉田茂元首相の銅像がある。なぜ、江戸城なの?

 考えても解らず、さらっと流す。


 江戸城の門はどこも凄味がある。

 勝海舟・西郷隆盛の間で、江戸城が無血開城した。だから、貴重な城門が無傷で残る。

 江戸城は平和裏に残せた。ここで終止符を打っておくべきだった。多くの日本人はそう思うはずだ。

 しかし、新政府の下級藩士たちが、そのごも戊辰戦争を拡大し、暴れまわった。
 かれらは京都から東京に遷都もせず、「明治天皇の行幸」という名の下、江戸城に移した。そして、明治政府の政権の中核に座ってしまった。
 
 それぞれ史観は多少違うけれども、江戸から明治へと話題が運ぶ。


 江戸城を出ると、千代田区役所の前から神保町の方角に向かう。酒場さがしである。「ビールで早くのどを潤したいね」

 最初の居酒屋は座敷だった。だから、パスした。次なるは、『そば処・こんごう庵』のまえで立ち止まった。
「雰囲気が良さそうだ、ソバで飲むのもいいね」
 相澤さんが交渉するが、カウンターだと言われた。二の足を踏んでいた。

「どうせ、1軒で終るはずがない」
 入ってみれば、囲炉裏形式の7人がゆったり座れたコの字型だった。見てきた江戸城にからむ歴史の話題が弾む。
 

 次なる2軒目に入った。
 横文字の店名『Bal Marrakech』は、ワインの店だった。
 作家はワイン通が多い。おいしいを連発する。確かな味なのだろう。

 おしゃれな制服の女店員がカウンター内で、生ビールを注ぐ。ジョッキーの泡も、3度もていねいに処理する、きめの細かさだから、まろやかな味わいがあった。
「この店はあたったね」
 皆おなじ感想だった。

 

 「もう一軒行こう」
 神田神保町では、文学者、作家、編集者がやってくる店がある。

 著名な作家の色紙なども壁面に並ぶ。

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