A020-小説家

小中陽太郎さんを囲む「ヨタロウ会」の暑気払いは、鰻屋の老舗で

「ヨタロウ会」は8月4日、東京・南千住の鰻屋の老舗「尾花」で行われた。
 小中陽太郎さん(作家)が、「この猛暑を乗り切り、元気を付けるために、鰻を食べよう」と提案したもの。同会の幹事・瀧澤陽子さんの案内書には、「尾花は超人気の店で予約できない、遅れると入れないかも」という趣旨の添え書きがあった。


 私はそれなりに時間を気にしながら、千住大橋から徒歩で、南千住・駅前の鰻屋に出むいた。7、8分ほど遅れた。和風の座敷に上がろうとすると、店員がストップをかけてきた。順番の割り込みだとみなされ、嫌な顔をしていた。ここは厚かましく、事情を説明し、仲間12人の席につくことができた。

 長テーブルで隣り合うのが、堀佶さんだった。堀さんはかつてポプラ社の名編集で、いまはフリー編集者だ。このたび日本ペンクラブの広報委員会の委員になられた。来年の国際ペン・東京大会にむけて、会報、メルマガで、ともに力を合わせる仲間となった。それらを中心に話が弾んだ。

    

 真向かいは相場博也さん(創森社)である。相場さんは出版社「家の光」の編集部で、主として単行本を手がけていた。出版に思うところがあって、若くして独立し、単行本を発行する会社を興した。社長として、つねに企画のアンテナを張っているという。「一に企画、二に企画、三、四がなしで、五に企画だ」と強調されていた。
 私が42回地上文学賞(家の光)を受賞したというと、同社にいた相場さんは「すごいですね、地上賞の受賞ですか」とおどろかれていた。当時の編集長や選者の名まえが酒の肴になった。

 小中陽太郎さんが席にやってきた。「大原雄さんは急に葬儀に参列することになった。何でもNHKの先輩らしい。こればっかりは予定が付かないからな」という。残念だが、葬式ではしかたない。
「穂高君は伊藤桂一さんの教え子だ」と小中さんが皆に紹介したことから、伊藤桂一さんの話題がひときわ盛り上がった。高齢で頭脳が明晰、80代半ばで再婚した、と多くの人が知る。

 ヨタロウ会は、「雄花」を出ると、南千住の「小塚原刑場跡」を観てから、都バスで浅草・雷門に出た。
 小中夫人など女性陣の希望から、雷門の仲見世横にある「甘味処」に向かった。案内人は須藤甚一郎さんだった
 
        

 尾嶋四朗さん(青萌堂・社長)は隔月誌『島へ』の発売元だ。私が瀬戸内の島出身だというと、興味を持ってもらった。同じ大学出身者だった。尾嶋さんからは、北海道のツアー山岳死について、どう思うか、と問われた。

「ツアー登山者は日本百名山をねらう人ばかり。全国各地から十数万円をつかって北海道まで来た。ガイドは稜線で、強風だから止めましょう、99名山でガマンしてください、といえるものではない。降雪ならば別だけど。ツアー客たち全員の無言の圧力と強い目線に、ガイドは屈したと思う」と推量で話した。
 死んだ人には気の毒だが、「ガイドは単なる道案内人。登山者は、わが身は自分で守るもの。これが登山の鉄則だ」。これに尽きる。
 

 難波純子さんはプロカメラマンで、料理を専門に撮影する。撮影技法について、数々の専門的な突っ込んだテクニックを教えを乞うた。親切に熱心に説明してくださった。

 須藤甚一郎さんは週刊誌「女性自身」などの記者を経て、TV芸能レポーター、いまは東京都・目黒区会議員である。議員の活躍ぶりなどを聞かせてもらった。年間3分の1は区議会とか、委員会とかに出席するという。私は、ある種の名誉職的なものかと思っていただけに、「えっ、そんなにも……」と驚きをおぼえた。
「須藤さんはトップ当選だよ」と近藤節夫さん(エッセイスト)が脇から教えてくれた。

 近藤さんは慶応大学ラグビー部のOBだ。「2019年・ラグビーワールドカップ」の日本誘致が決定した。その話題はあまりにも先のことで、盛り上がりに欠けた。


 雷門の「甘味処」で、女性陣の顔を立てた先は、焼きトンの店、喫茶店など、と別れて流れ解散となった。

「小説家」トップへ戻る