A020-小説家

31回「元気エッセイ教室」作品紹介

 1年間に10回の講座回数で歩んできた。「エッセイ教室30回記念誌」が作られた。30回におよぶ作品の創作活動は、その都度において緊張感が伴う。「いろいろな人が読む」という緊張と刺激が力量を押し上げてきた。
 この先も、新たな飛躍のためにも、今回のレクチャーはあらためて「エッセイの基本作法」の確認をおこなった。

 主たるポイントとしては、
①素材は、自分自身が体験したものを抽出する。他者から聞いた話は避ける。
②テーマは、絞り込んで、絞り込んで、最小のものにする。
③構成は、現在、過去、現在の組み合わせをする。
④書き出しはできるかぎり情景文にする。
⑤結末には、作者の説明は入れない。


文章の上手な書き方」についても、確認をおこなった。


演習】は情景文と説明文の使い分けである。受講生たちはそれぞれ一枚の写真(花壇に立つ、二人の少女の像)を見て、書き出しの描写をおこなった。


作品紹介」として、
 受講生はみな力をつけてきた。作中で「人間の生き方」について、それぞれシャープに切って見せてくれる。それ自体に魅力があり、読み応えもある。光る文章、感銘することばなども拾い上げてみた。

山下 昌子   夫婦のような仲

                           

 オーラを映し出す機械が後楽園にある。機械の前に立つと、頭の上にオーラの色と形が写し出される。オーラは心の動きやコンディションによって色が異なる、という機械らしい。「私」は友だちと単なる遊び感覚で、互いにオーラのプリントを見せあって笑っていた。

 体調の悪かった私のオーラは、暗くぺちゃんこで、まだらだった。二週間後にもう一度撮り直してみた。そのときは体調良好で、大きくてきれいなオーラが映し出されていた、と喜ぶ。

 夫の会社が仕事納めの日。夫からめずしく電話が入り、早帰りできるから、午後に映画を見ようと誘ってくれたのだ。「私」は身支度を整え、約束場所に出向いた。長く待たされた。仕事納めのワインを飲んで上機嫌の夫はへらへら笑っている。

 妻の「私」は内心面白くない。映画はもう始まっている。そこで、近くにあったオーラの機械に、嫌がる夫を連れ込み、二人で手をつなぎ、写真を撮った。
 オーラはぺちゃんこで、二人の相性は49%だった。「やっぱりね」と思ったが、夫はニコニコして人ごとのようだった。

 それから数ヶ月後、二人で外出した折、名誉挽回の意味もあってもう一度、オーラの機械に立ち、挑戦するのだ。結果は良かった。「二人の愛情運」の解説には、『長年連れ添った夫婦のように「ツー」と言えば、「カー」と応える、息のぴったり合ったカップルだね』と書かれていた。爽快な夫婦愛の結末に導かれていく。

 夫婦愛がオーラを通して、微笑ましく描かれた作品。ハッピーな結末がよい読後感を与えてくれる。と同時に、タイトルには納得させられる。


塩地 薫 ホッチキス

 
「私」はトイレで下血した。タクシーで病院の救急外来に駆けつけた。
 医師が内視鏡で、8日前に手術した直腸の広基性ポリープの跡を診ていた。「私」からは、腸内が映るモニターの画面が見えない。聞き耳を立てる。
「潰瘍の表面は硬くなっている」「粘膜の裂け目に、細い血管がはみ出ている。ここが出血現場だ」という医者の会話から、症状を類推する。

「裂け目の両側の薄い粘膜を、ホッチキスでとじます」
 医師から説明をうけた。そして、パチッ、パチッと音が聞こえてきた。
 そのまま入院になった。病室はナース・ステーションの隣にあり、看護チームが再三、ケアに回ってきた。「私」は直腸にガス(おなら)がたまるたびに、チクッと痛みを感じていた。

 22時の消灯とともに、まぶたを閉じた。深夜に、ガスとともに排便をもよおした。長さ1センチほどの細長い金属が出てきた。光って見える。
「これがホッチキスなのだ」
 腸内にホッチキスが取り付けて10時間後に、偶然回収されたのだ。看護師が点滴液の交換にきた。ホッチキスを回収したというと、あわてて、それを持って走り去った。夜明けに、その看護師が回ってきた。
「ホッチキスは、どうしましたか」
「先生が捨てなさいと言うので、汚物入れに捨てました」
「先生にとっては汚物かもしれませんが、私にとっては貴重な記念品です。写真を撮っておきたかったんですよ。探し出してきてください」
 神妙な顔の彼女がさっきのホッチキスを小さなビニール袋に入れて戻ってきた。「私」はほっとして眠りについた。

 やがて、退院。バス・電車・バスを乗り継いで、自宅に帰ってきた。翌朝、少量の下血があった。またホッチキスが外れて、血豆が出てきたのではないかと、心配になってきた。病院に連絡を取ると、担当医から折り返し、電話が入ってきた。 
「少量の下血なら、そのうち止まります」
 その予想を裏切り、2週間たっても、また下血を経験することになった。私のポリープは、やはり大きかったのだ、と結末で、事の重大さがさらに深刻さを増している。

 作者の目が正確で、観察力のすぐれた作品だ。手術の推移とともに、「私」の心理が書き込まれている。ホッチキスが発見されてから、ストーリーの運びがよく、読者は強く引き込まれる。


中村 誠   集いの楽しさ

                          

 俳句の会で、「私」は特別皆勤賞をもらった。平成20年の句会には、その実、一度だけ欠席投句をしている。しかし、その投句をもって毎回参加した、と見なしてくれたのだ。
 1年間12回を完走した純粋な皆勤賞は一人だけだ。それに次ぐもので、貴重な賞だった。S主宰の達筆な字で、賞状には執念と努力が讃えられていた。

「私」は黒板の前で、両手を前に組んで、神妙な顔して主宰から賞状を渡される。もともと褒められれば喜ぶ単純な性格なので、なおさら嬉しくなるのだ。
 賞状の裏面に、〈執念の一句〉と題して、欠席投句が書かれていた。


〈 風邪に負け臥して見送る句会かな 〉  誠人


 4月の句会は、「私」は予想以上に句作に集中し、締め切りぎりぎりの提出となった。二つの席題、「シャボン玉」と「花見」に、一つの自由題だ。
 主宰の達筆に書かれた短冊が貼り出された。俳人たちは短冊をジッと見つめて、これぞ、と思うものを一句づつ選ぶ。ブツブツうなる人、歳時記を引く人、神経戦のごとく緊張感が漂う。

 結果が出るまで、「私」はびくびくする。主宰から、一番良いと思う〈天賞〉が読み上げられる。「作者は誰だろう?」と参加者たちに、「一瞬の静かな間」が生まれるのだ。
 天賞の作者が「ありがとうございます」と、立ち上がり礼をいう。選んだ人、選ばれた人が互いにホットする。

 句会の様子が、作者のこまかな心理描写と緊張感とで描かれている。『文学の世界は奥が深い』と強く感じさせてくれる作品だ。


濱崎 洋光   おくりびと


 妻と映画でも見に行こうかと、話がまとまった。梅花が散る路をバス停に向かった。バス停の向うに、4軒の商店用の貸家がある。
 そのうちの一軒はいつも白いカーテンが引かれている。不可解だ。夫婦がそんな話題をかわすうちに、バスが来て乗った。

 ショッピングセンターの三階にあるシネコンで、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」を観た。遺体を尊ぶ、日本人の心が描かれていてよかったと思う。
「納棺夫の仕事は、むかし親族がやっていた湯潅(ゆかん)じゃないかな。単なる儀礼ではない、身内の真心が籠もったものだ」
 私が感想を述べる。
「大悟(映画の主人公)が、人のいやがる納棺夫の仕事に誇りを持って、懸命に生きる姿は立派だったと思う」
 妻の感想に、私も同感だった。

 数日後、私はバス停に立っていた。目の前に軽乗用車が停車した。黒のユニホームを着た女性が降りてきて、白いカーテンが引かれた店に駆け込んで行った。
 軽自動車の運転席には、黒のスーツの男が待つ。女性は店舗から紙包みを持って車に戻ってきた。ナンバープレートは黒地に黄数字の営業車だ。

 よく見ると、営業車なのに社名やロゴが見当たらない。喪服姿の人が出入りしている。これは映画で見た納棺夫の待機場では? と私は映画「おくりびと」を連想したのだ。

 映画での納棺夫は立派な仕事として描かれていた。現実は、やはり世間を憚っているのだろうか。世の中には、納棺夫に限らず、人が嫌う仕事が幾つかある。忌まわしい、穢らわしいと。
『世に欠かせない大切な仕事と、誰もが頭の中では知っているのだが。お前の身内に、納棺夫との縁談話が出たらどうする』
 私は自分に問うのだ。職業に貴賤はない。喜んで賛成する、と答えられるだろうか。
「自分の娘が、納棺夫を好きになったらどうする?」
 妻にも、類似的な質問を向けてみた。
「彼氏が仕事に誇りを持って、真面目に働いていればいいのでは……」
 その答えは少しかっこよすぎる。「収入次第よ」という世情の声が聞こえそうな気がした、と切り込んで、自問の結末に導く。

 作者は、現代の素材を上手に取扱っている。カーテンの引かれた店舗と喪服の男女から、推理を展開し、その上で自問していく。構成(ストーリーの運び)が優れた作品だ。


高原 真   「私の名義」長談義

  
                   

 銀行通帳やキャッシュカードを入れた財布を見失ってしまった。数日前にはローンの振込に銀行にいったはずだ。そのときのカバンのなかにもない。
 思い当たるところ、他の場所もなんども捜した。見当たらず、紛失センターに電話した。すぐに差し止めの処置をとった。幸い被害はなかった。他方で、どうして無くなったのか、思い出せないのが無念でたまらなかった。

 再発行手続で、郵貯と都銀の窓口に行った。その翌朝、一つの記憶がよみがえった。寝間着姿で、「私」は自家用車まで足を運んだ。車検を入れのボックスに革の財布が入っていた。嬉しかった。モヤモヤが一挙に吹っ飛んだ。さっそく郵貯と都銀にいって再発行手続の中止を申し出た。

 窓口では、通帳ごとに『発見届』が書かされた。申請者名「高原真」と記入した。「通帳の名義は字体が異なっているので、ご記入いただいた『発見届』の申請者名に修正・捺印をお願いします」という。この指摘は郵貯も都銀も同じだった。

 それぞれ通帳を作ったときに、「高」と「真」を旧字体で書いてしまったものがある。過去はさほど窓口で問題にならなかった。最近は「申請時の字体」でしか、名義として認めないという。

「面倒だから、いずれ全通帳の名義を統一し、申請しなおそう」
 そう思いながらもオックウで、そのままになっていた。全部の通帳が一挙に無くなって、「標準化」していない不便を感じたのだ。

 戦後間もない頃に「当用漢字」が制定された。「将来、漢字は少なくしていく方針であるが、当面はこの漢字を使うことにする」という趣旨から「当用」の文字をあてた。その折に「字体の大幅な修正」もあった。以後、私の名前は新字体で「高」と「真」となったのだ。

「当用漢字制定の趣旨」には、私は賛同し、もっぱらこの字を使っている。戸籍に届けた字でなければ「個人の尊厳が損なわれる」という人もいる。
 氏名は『符丁』だ、と私は思っている。表記は「タカハラ マコト」でも「たカハラ まコト」でも草書でも行書でも、ローマ字の表記でも、私自身に代わりないから、それで構わない。形式的な末葉のことだと思っている。
 それにも関わらず日常生活における、新字と旧字の使い分けが求められている。その不便さ、矛盾が展開されるのだ。

 実生活では何事も、シンプルのほうがやりやすい。先頃、「常用漢字の改定案」が発表になった。「書くから、打つ。その時代の変化に対応」だという。ところが、シンニュウは字によってはふたつ点を打つものに変わる。『字体』は簡素化・単純化が基本なのにこれでは逆行だ。国民の基準となるものを「智者の好み」でやられては困る。通帳紛失劇のイライラが高じて、つい言いたくなってしまった。
 
 作者は一つの小さな出来事から、世情に切り込んで行く、名手だ。読み手がスカッとさせられたり、矛盾に考えさせられたり、良い情報を得たり。一言でいえば、いつも勉強になるエッセイの書き手だ。


奧田 和美 息子の子 娘の子

                        

 所帯を持つ息子は、「私」の家から自転車で15分の近距離に住む。それなのに、「私」の都合では会えない。息子の嫁の存在があるからだ。嫁姑の問題を取り上げた、心理エッセイだといえる。
 息子には、3歳の女児と生後8ヶ月の男児がいる。「私」にすれば、いまが一番可愛い年頃の孫だ。
 
 二人目の男児が生まれる前から、私は職場に了解をもらって1ヶ月間ほど休暇を取った。自宅出産だった。嫁は産後の3日間は絶対安静だった。

「哲平(息子)は、産後の特別食を料理したり、食べさせたり、洗濯、ゴミ出しまでよくやっていた。本当に良い夫になったものだ」
 孫が誕生してからは毎日、私は自転車で息子の家までウキウキと通った。上の子のお守りと夕食の支度だ。みんなと一緒に食べる夕食はおいしかった。
 ある日、嫁が私に通うのを断ってきたのだ。私のお役目は2週間で終わってしまった。その後はめったにお呼びはかからない。

 知人の娘さんに孫が生まれた。毎日のように会いにいっている。車で10分ほどの距離だし、娘の孫には会いに行きやすいのだ。そこで、「私」は息子の孫と比較してしまうのだ。
 おもちゃの「光るメロディ太鼓」が手に入った。孫に持っていきたいと、電話をかけた。息子は嫁と相談している。「引越しして間がないから」と、断られてしまった。許可が出ないと、孫には会いにいけない身を如実に知るのだ。
 
 可愛い孫に会いたくても、会えない。「私」の想いや心情がよく描かれている作品だ。「これがわが娘の孫ならば」という心が痛いほどに伝わってくる。
 嫁姑問題は内面の対立(戦い)だ。普遍性がある素材でもある。孫のいる人と、孫がいない人では読み方が違ってくるともいえる。


二上 薆   医は仁術か  ―自分史のよすがに―


 地方都市で頑張っていた開業医の知友から、『年も年だが、もう今の制度にはついて行けない、廃業する』という挨拶を聞いた。
 医者はかつて「先生々々」と崇められる特殊階級であった。現代は、医者にかかるにはお金がかかる。

 作者の目は、戦前の医学制度にさかのぼる。
 日本の医学はすべてドイツ万能主義だった。国立大学は文・理科総合的科目を持つ帝国大学と、医科大学があった。私立の医学専門学校には。高校に受からなかった医者希望者や金持ちの息子などが多かったという。
 昭和一桁時代は、「貧しい農民には無料に近い安い料金で」という姿はあった。「医は仁術」という言葉はあたりまえで、子供心にはまったく抵抗はなかった。

「私」ノ家族が病気になれば、「喜美ちゃん」が診てくれた。彼女は実母からみて、20歳近く年下の末妹(作者の叔母)だ。著名な小児科病院住込み女医だった。と同時に、我が家の専門医だった。(往診デ)、わが家に訪ねてくレバ、泊まって行く。「医は人と人とのつながり」という、自然の思いだった。

 戦後になって、「私」は会社人間になった。月給袋には健康保険・年金保険料の項目があった。
 医療に関しては、保険で保障できない治療、病院の特別室料金などは膨大な費用がかかる。他方で、莫大な費用と思えるものが、保険で本人の自己負担はわずかである。気軽に医者にかかれる。これで長寿国日本はこれで出来上がった。ここに疑問を持つ。

 日本は高年化社会で、年金・健康保険の財源が少なくなった。医療制度の改革、高年者医療保険制度などが定められた。将来の杞憂でなければ、良いが、と案じる。

 アメリカは公の健康保険制度がない、唯一の近代国家だ。「医療費の節減と質の向上を目的」とすると称して、保険会社と大病院が手を組む。『米国医療崩壊の構図』の紹介する。創生の意欲、文化が失われた組織の堕落の典型。日本がアメリカと同様の誤りに陥らぬようにと強く警告する。

『医は仁術どころか、利益追求の算術のかたまりとなる。サン術でも「人と病気と医者」の三者の深いつながり、仁術が失せてもこのサン術であってほしい』と結ぶ。

 戦前と戦後の医術の流れをひも解いている。そのうえで、アメリカの制度の欠陥を兼ね合わせている、視点のしっかり座った作品だ。医者が金儲けの道に走る現実の一方で、「仁術」に期待したい、作者の心が伝わってくる。


長谷川 正夫   潜望鏡

                   
 茨城県鹿島港で、潜水艦の一般公開があった。「私」は海軍同期生(主計科短期現役)の野口から誘いを受け、妻と一緒に行くことに決めた。
 平成5年の5月、東京駅から長距離バスで鹿島港に到着した。
「やあ長谷川、よくきたな」
 野口が出迎えてくれた。
 潜水艦「おきしお」が、岸壁に繋留されていた。艦の大部分は海面下に沈め、甲板・司令塔や潜望鏡を海面上に出している。見学者は乗組員の案内で潜水艦に乗り込んだ。

 甲板上の昇降口から、細長い円筒形で垂直に、こわごわ降りてゆく。艦内の通路は想像以上に狭く薄暗く、機器類に取り囲まれ、圧迫感で息がつまりそうだ。

 見学者一同は通路を一列になって艦の中央付近にまで進んだ。潜望鏡に眼をおしつけて艦の外を見る。
 潜望鏡を覗いていた妻が突然、大声を出した。
「海の中を人が歩いている」
「なんだって! 海の中を人が?」
 私は妻を払いのけて潜望鏡を覗いた。確かに歩いている人が写っている。これは当然で。潜望鏡は海面上に突き出ていたので、陸上の建造物や人間が映るからだ。
 妻はこれに気がつかず、海中の潜望鏡が陸上の事物を写すはずがない。と思い込んでいたから、大声を出したのだ。

 潜水艦の見学会が終わり、近所のレストランに入り、四人で食事をした。先程の妻のエピソードがサカナになった。私は妻をからかった。妻は、愉快そうに笑う旦那をみて不機嫌そのもの。私を睨み、ぶつぶつ文句を言っていた。
「奥さんは潜望鏡を、水中眼鏡と同じと思っていた。だから、びっくりしたのだ。そう笑うなよ」
 野口は私をたしなめ、妻の顔を立てていた。だが、腹の中では嬉しそうに笑っているのが、手にとるようにわかった。

 素材がユニークで、ストーリーの運びが良い、完成度の高い作品だ。作者は海軍関係に想いが強い。それでいて距離感が保てているので、好感のもてる作品になっている。


筒井 隆一   ウィーンフィルハーモニーのリハーサル


 昨年5月末、1年ぶりにウィーンを訪れた。いつも通の格安航空券と、手狭な定宿との組合せだ。
 ウィーン芸術週間に合わせ、ロリン・マゼールがウィーンフィルを指揮する。コンサートの演目は『ペンデレッキの第4交響曲』、『ブラームスの第2交響曲』である。そのコンサートの本番と、前日のリハーサルのチケットも運よく確保できていた。

 世界有数のオーケストラのリハーサルだ。一体どんなものなのだろうか。指揮者がどのように団員に接し、できばえをチェックしながら自分の音楽を作り上げていくのか。本番との聴き比べには、大いに興味がある。
 N響はじめ、日本の大半のオーケストラはリハーサルを公開していない。それだけに、期待するものは高い。

 私たちはリハーサル会場の楽友協会に向かった。本番さんながらに、臨むのだろう。そう勝手に思い込んでいた。
 楽団員がGパンにTシャツのような思い思いの服装で練習している。ステージに指揮者が現れた。一気に通して演奏し、サッと引き上げてしまう。演奏に関するやり取りは何も無い。
 メンバーのなかには、自分のパートや隣のパートと、演奏中に小声で話をしている。メモを取り交わす者すらいる。
「これが公開ゲネプロなのか」
 公開の目的・趣旨が今ひとつ理解できないまま、その日はホテルに戻った。

 名門オーケストラであれば、練習の公開でも銭が取れるという、思い上がった考えがあるのだろうか。チケットは本番の7割くらい。結構な料金を取っている。

 さて本番。マゼールは前日と違い。しっかりした足取りで登場し、団員も正装で正規のコンサートが始まった。ウィーンフィルの力量に加え、ホールの豊かな響きのせいか、圧倒的な音量と迫力である。

 ウィーン在住の音楽愛好家の女性ブログによると、私たちと同じパターンで2日間聴き比べをしたらしい。
「本番はリハーサルに比べ、テンポを少し速め、ブラームスの牧歌的な音色が響いて、とても良い演奏だった」
 と感想を述べていた。素人の聴き比べでは分からない微妙な評価だった。

 東京に戻り、高校時代の友人に尋ねてみた。彼女の息子は、ニューヨークフィルでコントラバスを弾いている。海外の名門オーケストラのリハーサルというのは、大体このようなものらしい。
 リハーサルのステージで、団員が何をやっていようと気にせず、目をつぶってリハーサルを聴く。それが一番お得な楽しみ方かな・・・・という結論に落着いた。

 名門オーケストラのリハーサルと本番の対比。めずらしい体験が素材だ。それだけでも、読み手には価値がある。作者の心情や考え方が随所に出て、それがストーリー立てになり、最後まで読ませてしまう作品だ。


中澤 映子   うさぎ猫  動物歳時記 その21

 
                         

 8年前の8月のある日、さつきの木陰に、小さな白うさぎのような。生後間もない小さな猫がうずくまっていた。小俣一家に仲間入りする第一歩だった。
 それがオス猫のポーちゃんだ。
 フワフワの真っ白な毛でおおわれ、しっぽはうさぎのように短く、耳の内側はほんのりともも色、これで目が赤かったら、まるで白うさぎだ。そのせいか、ピョンピョンよく跳ねていた。

 ナッちゃんは2ヶ月後に小俣家にやって来た。ナッちゃんは長くて太いしっぽだ。ポーちゃんにすれば、羨望の的だろう。
 ナッちゃんはポーちゃんの目の前を、わざとしっぽをおっ立てて、ファションモデルのような足どりで通り過ぎて行った。

 ポーちゃんは小俣一家の3代目のボス候補だった。しかし、2年前のある時、食欲が落ち、口をクチャクチャやりだした。獣医さんに連れて行くと「口内炎」と診断された。痛みを抑えるための、長時間作用型ステロイド剤「デポメドロール」が注射された。
 3週間くらいから、また痛みが出て、クチャクチャがはじまる。元気がなくなる、注射に通う、そのくりかえしで2年が過ぎた。


花の道 病院通いの 猫ありき


 注射の回数を重ねるほどに、免疫力も落ち、痩せてきた。フワフワだった毛並みは、針ねずみのようにガサガサになった。真っ白だった毛の色も灰色。黒い目やにをつけている。具合が悪くなると、主人の膝の上に乗り、病院行きをそれとなく催促する。病院に行くと決まったら、おとなしくケージに入る。

 注射をしてもらうと元気が出、帰ってくると、家の中を駆けずり回ったりする。ボスになることは、病院通いが始まる頃から断念したようだ。『月1回の注射で、なんとか生きようと努力している。そのけなげな姿は、私たち人間に、何かを教えている』と結末に導いている。

 作者の観察眼は深いものがある。猫の病状が進む。毛並みの良い猫がハリネズミのようになる。愛猫の体力の衰えに、痛々しさと哀れみを感じる作品だ。


藤田 賢吾   恩ちゃんのこと


 ボクは、「人を見極めるとき、体育会系か文科系か」という見方をする。
 体育会系は、身体を鍛えるため、日々トレーニングに励んでいる。先輩から「ほらっ、ダメだっ、もっとやれっ」と言われれば、「はいっ、がんばりますっ」と、懸命に訓練し、汗を流す。まるで自分の身体を痛めつけるように……。ボクは、どうも体育会系には、なじめないものがある。

 文科系は「ダメだっ、」と言われたら、「なぜですか。どこが悪いのですか」と反論する。理路整然と説明できないと、後輩はついていけない。納得しないと、言うとおりに動かない。

 後輩を指導するとき、その人間が、体育会系か文科系か、それを見極めると、指導方法が異なってくる。

 ボクは大学で新聞編集局に入部した。さっそく取材を頼まれ、原稿をすばやく書いて、恩田先輩に提出した。授業が終わって部室に行くと、黒板にボクの原稿が貼り付けられていて、大きく「書き直し!」と書いてある。
「どこが悪いのですか」
「どこが悪いか、自分で読んでみろっ。お前ら、頭をかいたり、足をかいたりするんじゃねぇ。文章を書けっ、文章をっ」
 新入部員のみんなの前で言った。

 理由も説明しないで、大声を出す。「コイツは、体育会系だな」と思った。帰宅して、読み返した。いくつかのミス、わかりにくい表現、5W1Hの法則に反しているとわかった。

 翌日、恐る恐る恩田先輩に差し出した。
「よくなったな。でもここは、こういう風に書き換えた方がいいな」
 と赤字を入れてくれた。昨日とは打って変わった態度に、ほっとした。その素早さと明確な説明に「ひょっとしたら、文科系かな」と思った。

 先輩は、1m80センチほどの長身だ。キャッチボールをやらせたら、サウスポーから投げる速球は見事だった。重要な編集会議の席で、先輩は二本指を差し出し、次に四本指を見せて、ガッツポーズをした。競馬で「2―4枠」で大金が入ったという合図だった。マージャンの話も多く、賭け事をやっている先輩は不良じゃないか、とボクは思った。

 ある朝早く部室にいくと、ソファーで寝る恩田先輩が起きてきた。「昨日の晩、遅くまで飲んじゃったから、家に帰らなかったんだ」という。酒の飲み方も、話し方も豪放磊落で、ボクにはない魅力があった。

 恩田さんは必須の外国語を落として卒業できなかった。地方公務員に就職したという噂を聞いた。その後、ゴルフで再会した。やがて亡くなった。
 いまとなれば、恩田さんは体育会系でも文科系でも、どちらでもいい。「あの颯爽とした恩ちゃんと、もう一度、一緒に飲みたかった」と結ぶ。

 体育会系か、文科系で、人物を判断する。それをエッセイで展開する、という着想はユニークだ。説得力のある作品だ。


森田 多加子   春菜摘み


 家の前の空き地には、一本の土筆(つくし)が背筋を伸ばして立っていた。陽が柔らかくなり、狭庭の芝生が青みを増してくると、毎年かならず近くの土手に、野蒜(のびる)や土筆を採りに行く。今年はその時間を逃してしまっていた。
 それだけに、土筆とは思いがけない出会い。近づいて見ると、周辺には何本か見える。一本ずつていねいに採った。片手に載るわずかな量だが、今年も春を充分味わえた。

 子どもの頃、母に連れられて野草採りに行った。懐古のなかで、母娘のふれあいが語られる。母が小声で歌いながら、楽しそうに野草を摘む。あぜ道の田芹(せり)をが、小さなシャベルで、根っこから掘り起こす。蓬(よもぎ)の一番上の新芽を手でちぎっていく。茶色に染まった「私」の指先を嗅ぐと、青い匂いが心地よい。蓬まんじゅうは香りをいただくのだ。

 まわりには薄い肌色の土筆が、数本ずつ固まって顔をだしている。たくさん採れると、てんぷら、卵とじ、おひたしなど馳走になれる。

 今年の土筆は片手に載る、わずかな量だ。遅く採ったことから、食べごろ。はかま取りも、このくらいの量だと楽である。茹でるとほんの少しの量になってしまった。
 頭が薄緑色、茎は薄いピンク色になって、とても美しい。小さな器二つに盛って、夕食の一菜になった。お箸でつまむと一回分しかないが、二本くらいずつそっと口に運ぶ。

 土筆をていねいに、掘り下げている。野草の匂い、土のにおい、その味が作品からしっかり伝わってくる、良品である。


吉田 年男   二枚の色紙


 4月の日曜日の会合で、O氏から色紙2枚の写真をもらった。哲人や哲学者の書であった。それはキャビネ版で、きれいな写真だ。「私」は紙に包んでカバンにしまったけれども、気になって仕方がない。電車のなかで、カバンから取り出し、何回も眺めた。


  「丹華払(欠?)落 塵草踏環生」
    昭和三十一年夏     天風
  (赤い花は身をそぎ落とし、草は踏まれて生き還る)

  「流水如有意 花(葉?)相与環」
                寸心
  (水の流れは有意の如し、花葉は相ともに還る)


「何と書いてあるのだろう」「何と読むのだろう」それは脇において、「景色を見る目つきを意識して」ふたたび2枚の色紙を眺めた。
 文字の配置配列、行間、抑揚、重心の移動などから、これらの作品には音色を感じる。雅印の位置は決っている。線のかすれにも過不足がなく、風通しがよくて、何とも心地がよい。こころをゆする波動が感じられるのだ。

『書は人なり』という。二人の先生(「心身統一法」創始者の中村天風、哲学者 西田幾多郎)の作品から、温かいものが伝わってくる。それが昂じて、O氏の自室に飾られた、2枚の色紙の実物をぜ拝見したい、と結ぶ。

 この作者は書家である。あか抜けした語彙l使い方がなされている。それが作品の品質を高めている。「短く」にして、深く渋く味わいのある、重厚な作品だ。


和田 譲次 薄暮のジブラルタル海峡

                        
                    

 船客たちは、夕日が沈みゆく空にひきつけられた。パレットから橙だい色の絵具を吸い取り,墨を一滴ずつ垂らしていくような、微妙な空の変化だ。それに見とれていた。
 
 5組の夫婦は船旅なかまだ。スペイン・バルセロナから大型クルーズ船に乗り込み、目指すはカナリァ諸島と、カサブランカだ。地中海から大西洋に出るにはジブラルタル海峡を通る。

 乗船した3日目の夕方、船長からレポートが届いた。強い西風を受けているので、通過は午後8時半から約1時間かるという。日没は9時過ぎだから、丁度夕暮れ時で、絶好のタイミングである。

 8時前に最上階のラウンジに上がり、船首側の席を確保した。進行方向を見ると、高い白波が立つ、
「この波の状態では風速25メートル以上ですね。日没がせまると、風が収まります。夕凪という奴ですね」
 ヨットマンのSさんが言ったとおり、船体が安定した。
 ジョキング並みのスピードだ。乗客へサービスでゆっくり航行したわけではない。狭い海域を通過する際の制限速度らしい。おかげで、素晴らしい光景を堪能することができた。

 船が進むうちに、二つの大陸が近づいてきた。お互いに挨拶を交わしているような情景だ。アフリカ側はなだらかな丘陵で灯火も見え隠れする。一方、ヨーロッパの方は黒く高い絶壁で、巨大な軍艦のようだ。
 かつては城砦があり,幾世紀にわたって重要な軍事拠点だった。海戦の舞台にもなってきた。

 酒好きな最年長のFさんと、私は静かにグラスを傾けた。
「65歳からの10年間が人生最良な時期というけど、壮大でブリリアントな光景を見て、まさにそうだと思いましたよ」
 寡黙なFさんが口を開いた。
「人生の薄暮期でしょうね。自ら光輝かなくても、自然体でその折々の環境に身をおけば、さまになりますよね」
 私は意見を述べた。
「75歳になったけど自然現象とは違うのだから、気の持ちようで、日没を先に延ばして薄暮期をもっと楽しみたいよ」
 二人は静かに乾杯した。

 船旅の最高の見せ場である、ジブラルタル海峡の夕日の情景が、色彩豊かに描かれている。他方で、人生とからめた味わい深い作品である。

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