A020-小説家

30回「元気エッセイ教室」作品紹介

冒頭のレクチャーは、「悪文の研究について」とした。

 私が小説を学びはじめた30代初めのころ、「講談社フエーマススクールズ」に通いはじめた。直木賞作家・伊藤桂一氏から、執筆の根幹を築ける指導を受けた。当時、教室に提出した作品の講評は小説家、編集者、批評家と多彩だった。大変勉強になった。

 小説現代の川端編集長から「あなたは悪文だが、作品は面白い。ただ、編集者によっては頭から悪文を受け入れない人がいるよ」とアドバイスを受けた。

「悪文とは何か」。自分にそう問うてもわからない。答えられない。長く悩んだ。そこで、小説の神様といわれた、志賀直哉の長編『暗夜航路』を原稿用紙に書き写すことをおこなった。日々に原稿用紙で3、4枚ずつ、3年はほど続けた。ずいぶん根気がいった。それで悪文から脱皮できたと思っている。

 エッセイは「悪文」を気にすることはない。文章が劣っていても、内容(素材)に深みがあった、感動させたりすれば、味のある良品となるからだ。文章よりも、素材の切り口の勝負なのだ。

 文章作法からみた「悪文」の条件はありえる。
①誤字脱字が多い。
②区切り符号、改行、段落などの使い方が正しくない。
③慣用語の使い方を間違っている
④借り物の表現が多い。自分の目で見た文章ではない。
⑤センテンスが長すぎて、主語と述語のかかり方が悪い。
⑥文と文のつなぎが悪い。
⑦修飾語が長すぎる

 文章を書きなれてくると、書き上げた後の推敲で、「悪文」の大半が改善される。そのためにも、「良い読み手」を求めてください、と強調した。

 今回は30回目ということで、受講生は気合が入っていた。作品のテーマ、書き出し、結末、ストーリーは4大要素だ。今回はできるだけ「書き出し」と「結末」を結びつけた、作品紹介としてみたい。

吉田 年男   木製の衣文掛け


 近所の玲子さんが、住み慣れた杉並から引越しされる。荷物を整理していた彼女から、木製のハンガーを頂いた。『ガッチリした好みのタイプだ。木の温もりがある。ハンガーというより、「衣文掛け」という言葉がピッタリだ』。中央部分には、『三省堂洋服店』と金文字で刻印されていた。

 最近のハンガーは、「クリーニング店から洗濯物についてくるプラスチック製など、キャシャなものが多い。市販のハンガーはレディース用、メンズ用、下着用、靴下用など用途別だが、何となくなじめない」と対比がなされる。

 三省堂書店は、「私」が半世紀前に、初めて学生アルバイトをしたところ。『高円寺の自宅から、青梅街道を14番の都電で新宿まで行き、新宿から12番岩本町行き都電に乗り換え、神田駿河台下まで毎日通った。店内は書籍の売り場だけだはなく、「洋服店」があった。文具売り場、時計・メガメ売り場、三省堂パーラー(喫茶室)などもあった』という。読者までもが妙になつかしく誘い込まれていく。

『その文具売り場で、父から成人祝いに、プラチナ社製万年筆を買ってもらった』とエピソードが加わる。
ラストでは『衣文掛けの金文字がキッカケで、学生時代が鮮明に思い浮かんだ。衣文掛けは、自分にとって大切な宝物をいただいた、という気分だ』と結ぶ。
 木製の衣文掛けの温かみが、読者にも伝わってくる良い作品だ。


中澤 映子   アイのドラッグ  エッセイ教室・動物20


 動物を描くエッセイストは多い。作者は擬人法を使った、「中澤節」とでもいえる、新エッセイの開拓を成した。作中には、俳句の挿入があり、作品に味わいがある。

「ドラッグといっても、わたしは麻薬常用犬ではありませんよ。ドラッグというと、麻薬のことを考えがちだと思うけど」と、犬言葉で書き出す。
「初夏の五月から、獣医さんで処方されたフィラリアの薬を、月一回のペースで半年間、十月まで飲まされています。奥さんが夕飯の時、錠剤をちょっと砕いてご飯に混ぜておくようです。わたしはご飯と一緒にペロリと食べてしまうので、いつ薬が入っていたか、なんてわからないわ」。

    春の夕 犬ワクチンで 夢うつつ

「その他にもあるわ。わたしのドラッグ体験は、耳の手術をした時、抗生物質(錠剤)を何日か飲まされたことかな。食事と一緒だったので、よくわからなかったけど。耳のアフターケアで、獣医師さんに耳のお掃除をしていただくため、今でも月一回、通院をしています。その時、殺菌効果のある清浄剤(薬用イヤークリーナー)を注入しているようです」

 主人公は一本の足を切断した三肢の犬だが、実に明るい性格のようだ。
「奥さんがお風呂場で、犬用の薬用シャンプー剤を使って、ボディ・シャンプーをしてくれるの。時間は15分~20分位かかるのだけど、その間、三本脚でジイーッと立っています。「アイちゃんは、けなげだね」なんて言われて。実はあとでもらえる、ごほうび(干し肉のおやつなど)が、お目当てなんですけどね。終るとすっ飛んで庭に出て、体を振って水分を飛ばしたり、芝生に身体をこすりつけたり……。奥さんは嘆きますけどね』とユーモラスな運びになる。

      春風に 朝シャンの犬 ブルルンと

「ドラッグなんて、わたしには縁のないものと思っていましたが、やはり毎日元気に過ごすためには必要なのかな。わたしのことに、いつも、いろいろと気を配ってくださるご主人達に、感謝しなくちゃ。ワン!」と結ぶ。

 難解なドラッグ(投薬)を、擬人法で読みやすくさせている。犬の生態とか、病気とか、予防接種とかを知る、教材のような値打ちを感じさせる。技ありの作品だ。


二上 薆   エッセイ、随筆とは


 つれづれなるままに、日ぐらし硯に對ひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 戦前、古文勉強の教科書として、広く読まれた吉田兼好の「徒然草」の序の言葉である。「徒然草」は、清少納言の「枕の草紙」とは異質だが、日本古典随筆の一つの典型とも思われる。「随筆」を古い辞書、言海(大槻文彦著 明治二十二年五月十五日初版印刷発行)で調べると、「ずゐひつ」=「随筆」として「思ヒノマニマニ筆記シタルカキモノ。筆ズサミノ著述」とある。

「この国では随筆という言葉が消え、エッセィという言葉が大手をふっている。エッセイは英語、エッセーは仏語、この言葉の源はフランスの哲学者モンテーニュだという」と導く。

 徒然草は「ひらがな」の多い文、それに続く硬かな説明文。二つの調和が取れた、絶妙なる書き出し。そして、本題の「エッセイ、随筆」論に入ってくる。

「モンテーニュの「エセー」の、邦訳のいくつかを断片的に見た。考え、習俗など、文献や事実・体験などを基礎として、理路整然として述べている。それは見事な展開である。しかし、理屈に走り肩の凝る思いであった。寺田寅彦の「随筆集」や島崎藤村の「飯倉だより」にみた共感や心のときめきはなかった。原語で読めば、多少の違いがあったのかもしれない」と原語と翻訳本の差異がしっかり押えられている。

「インターネットではエッセイについて、欧米では綿密な思索を基にした論文スタイルを念頭においているもの。一方、日本では気楽な漫筆、漫文スタイルを指している」という。なるほど、と思わせる

『「ベストエッセイ」と言う言葉につられて読んでみたが、書き方はうまいと思うが、心のときめきは少ない』と作者は述べている。

「書きたい思いで、かたちに囚われず、気軽に自分の考えを書く。それが引き立つように書く、伝えやすく伝える。描写の間には情念が籠もる。ここには、「言海」に述べるように随筆という言葉がふさわしい。「随筆教室」よりも「エッセイ教室」という方が語呂がよい。それが現世、日本かもしれない」と結末に導いている。
 ラストにおいて、「何時の日か、よき日本に思いを託した名随筆を書きたいと思う」と目標を書き記す。

「エッセイ、随筆」の違いは問われても、誰もが明解な説明などできない。そこに切り込んだ、斬新な作品だ。論旨がしっかりした、ストーリーの運びがよい作品でもある。


 奧田 和美  反日感情

                        
 タイトルとテーマがはっきりした作品だ。導入文から、それらに連動している。
「日本のサムライJAPANがWBCで優勝した。二連覇だ。韓国と何度も戦って最終的に日本が勝った。日本国民が全員一緒になって一喜一憂したと思う。世界一になって日本中が元気をもらったような気分だ。
 韓国は対日本となると、敵対心を燃やすように見える。バレーボールで日本が世界一であったころ、韓国は他の国に負けても、日本にだけは負けなかった。サッカーもそうだ。最近はフィギュアスケートでもライバルである」と競技の世界から入っているだけに、わかりやすい。
 
『先日、民主党の小沢代表が「今はウオンが安いからチェジュ島(竹島)を買ってしまえ」と言った、言わない問題』と、それにつなげている。

 そのうえで、作者の体験談に入ってくる。
「5年前、上海にツアーで行った。漢字が略字になっていてびっくりした。駅やデパートの案内板、公共施設なども、ずいぶん簡略された漢字が使われていた。漢字の本家本元なのに、これでよいのかなと思った」と率直な感想を語る。そして、エピソードに入ってくる。

『この上海旅行では、反日感情があらわにされた。上海の街は若い女の子たちがお洒落でハツラツとしていた。「上海の女の子はきれいね。日本人とおんなじね」と私が言ったら、現地のツアーコンダクター(30代女性)が日本語で、「日本人よりきれい」ときっぱりと言った』と結ぶ。
この結末をもって作者が何を言いたかったのか、明瞭にわかる作品だ。


 筒井 隆一   サインと握手


「妻はファビオ・ルイージという指揮者の熱烈なファンになってしまった。ルイージは1959年にイタリアジェノバで生まれた。50歳に近い。指揮者としても脂の乗り始めた年代である。現在はウィーン交響楽団の首席指揮者と、ドレスデンのゼンパーオーパーの音楽監督を兼ねて活躍している」と書き出す。

 指揮者に対する、熱狂的な妻の『ヒートアップは止まらない』と、その姿を書き表していく。
「妻はウィーンフィルの会員定期演奏会や、オペラ「トスカ」など手に入りにくいチケットも確保していた。妻の心はルイージ様々である」。
「私」はかつて指揮者・ルイージの演奏を聴いている。好感はもっていたが、小柄で地味な姿がいまいちだと思っているのだ。

 ウィーン入りした夫婦は、妻のペースで音楽会に向かった。ルイージはウィーン交響楽団で指揮した。次の晩は楽友協会の小ホールで、みずからピアノで、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」を弾き、演奏するという会場の席に着いた。

 開演前に、前席にいた日本人女性が、私たち夫婦に話しかけてきた。「指揮者ルイージは、バレンボイムに引けを取らない名ピアニストでもあるんですよ……」と説明する。彼女は日経新聞の音楽担当の記者で、定年を迎えた。経歴を活かした仕事がしたく、ウィーンと東京に事務所を構えている。

 妻がルイージの大ファンだとわかったので、『そんなに熱烈なファンなら楽屋に行ってルイージのサインを貰いましょう。彼もきっと喜びますよ』と彼女は言ってくれた。
 演奏が終わって楽屋に入った。元日経新聞の彼女が、「ルイージがピアノを弾くと聞いて、わざわざ日本から来た、熱心なファンですよ」と紹介してくれた。 ルイージは人懐っこい笑顔で、妻と気軽に握手し、プログラムにサインしてくれた。
「暖かくやわらかい手だった」と、妻の興奮はつづく。なにも掴まないうちにと、握手したての右手の写真を撮るありさま。音楽ファンの心情を克明に描く。

 バーンスタインが、札幌で始めたPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)の指揮者として、ルイージが2007年夏からの五年間、日本で振ることが決まっている。ウィーンに行くだけでなく、これからしばらくは、日本でも応援出来そうだ』と結ぶ。

 妻の熱狂振りに振り回されていく、「私」の行動と心情がていねいに描かれた作品だ。


山下 昌子   三十三回忌

                           


『テーブルからちょこんと首を出した小さな男の子が、子供用のスプーンで何かをおいしそうに食べている。
「たくさん食べてね」と声をかけた。
「そんなにたくさん食べられないよ。だって僕死んでいるんだもん」
「もっと食べてね」
 と私は声をかけた。
 同じ答えが返ってきた。そこで目が覚めた。あの子は誰だろう。「ママ」とは言わなかったが、間違いなく私の息子だ』と夢の書き出す。

 夢を挿入すると、失敗作が9割以上だが、この作品は息子の死に対する、見事な伏線となっている。その息子は30年以上も前に生まれて、1ヶ月で死んでいた。

『長女を出産してから7年後に息子を授かった。当時、私たちは発展途上国に住んでいた。出産のために帰国した』
 息子の出産前後で、ストーリーが展開される。
『私は産後一週間で退院した。息子は2400グラムの未熟児で、病院に残され、保育器ですやすやと寝ていた。時どき動かす手足は小さかったが、私には生きようとする力が感じられた』
 数日後から、病院の転院がくり返された。
『国際電話で、夫には息子が危篤だと知らせた。夫は飛んで帰ってきて、空港から直接病院へ行き、何とか生前の姿と対面できた。生まれて一ヶ月後に、息子は一度も母親に抱かれず、天国へ旅立っていった。遺骨になって初めてやっと私の胸に抱くことが出来た息子だった』

 四十九日には遠い播州の墓地に埋葬した。
『やっと手元に帰ってきた息子の遺骨さえも、手放さなければならないのか。この寂しさは、想像を超えるものだった。その後、息子の遺骨を取り出してもらい、それ以来は私の部屋に置いている』と、息子の死の痛みが母親を苦しめていた。

『毎日、仏壇に手を合わせている。はじめて息子の夢を見た。なぜ今になって夢に出てきたのだろうか。 今年は三十三回忌だと、はっと氣がついた』。娘に夢の話をしたら、「お母さんは泣いてばかり。氣が狂ってしまったのか、と思って怖かった」という。あの時7歳だった娘のことをどれだけ思いやっていただろうか。はっきりした記憶はない』と結末に導く。

 1ヵ月で死んだわが子への愛情と、母親の心の痛みが掘り下げられた作品だ。と同時に、(腹を痛めた)、女性にしか書けない作品だ。


濱崎 洋光   おいらん列車の思い出


「1964年3月末から約2週間、私は新幹線建設工事現場の小田原・熱海間で防護柵取付け請負工事に従事していた。
 満開となった桜花は、相模湾の春の輝く海を背景にして美しかった。家族連れで賑わう観光客を横目に見ながら、休日を返上して仕事を進めた。

 この区間はトンネルの連続。最長が10数キロの南郷山トンネルだ。
『私はリュックに図面、工具、昼飯を詰めて、工事完了確認のために、南郷山トンネルに、一人で入った。熱海側トンネル入り口付近の急斜面には、蜜柑畑があり、たわわに実った黄色い夏蜜柑と、真新しいトンネルの白いアーチが、朝日に照り出されて、「自然」と「造形」の美が重なり、一幅の絵をなしていた』と地上の美の情景が描かれている。

『トンネル内は主体工事が終わり、照明灯が消されていた。歩を進めるごとに暗さを増し、懐中電灯を唯一の頼りに、奥へ向かった。時折り襟首に落ちる冷たい水滴に身をすくめた。トンネル中央の大きな排水溝を音高く大量の湧き水が流れていた。暗闇の中で一人聞く流れの音に孤独感が強まり、殉難者の声が聞こえるような妄想が湧いた。「何で、俺がこんな所で仕事をしなければいけないのだ」と自問自答しながら、漆黒の闇の中を数時間歩いた』と恐怖心が描かれている。

『予定した作業を終えた。こんどは帰っていく。前方に明かりが見えてから、さらに小一時間もある。ようやくトンネルを出た時には達成感と、密閉された空間からの言い知れぬ開放感に浸った。外は、すでに夕暮れが迫っていた』と恐怖からの解放感が、読者にも安堵を与える。

『小田原駅構内に夕暮れまでは、枕木やレールが一本も見当たらなかった。そこにレールを一夜で敷設を終わらせたのには驚いた。
 翌朝、真新しいレールの上を、おいらん列車が小田原駅へ入ってきた。試運転列車を「おいらん列車」という。列車に、車体をはみ出す棒を、花魁(おいらん)のかんざしのように取付けて、障害物の有無を調べることから、この名がついたという』と題名を納得させてくれた。

『おいらん列車は、徒歩より遅い速度で近づき、目の前を静かに通過して行った。新幹線の大事業の中では、ごく小さな仕事ではあったが関与でき、珍しい試運転に立ち会えた。普通ならば、ニュースの映像で見るだけだ。この目で見たという強い感動で、工事中の疲れ、徹夜での眠気、トンネル内での孤独感と恐怖心が綺麗に吹き飛んだ』と歓喜の境地を展開する。

『私の人生は、社会が目まぐるしく変わる中で、新幹線の車窓の景色が後ろへ飛び去るように、瞬く間に過ぎて、思い出の残影のみ瞼に残る』と作者としての心の財産で結ぶ。
難解な工事をわかりやすく書いたうえで、「私」の仕事への情熱を追い求めていく。読み手の心にはよく響く作品だ。


森田 多加子   豊かな表情


『昼下がりの常磐線の車中で、突然体格の良い白人男性が、隣の席にどっかりと腰をおろした。座るいとまもなく、私に向って何かしゃべり始めた。日本に滞在しているのだろうか。旅行をしているという印象ではない。』と書き出す。

「ナントイッタノデスカ?」
 私は怪訝な顔で答えた。
「日本人はみんな同じ顔をしているね」
「ワタシハ、オナジトハオモイマセン」
外国人に通じたか、通じなかったかはわからない。
「いやいや、本当だよ。ユーモアがわからない。声を出して笑わない。車内の人をみてごらん。みんな同じ表情だろ?」
「ワタシノトモダチ、ミンナヨクワライマス。ユーモアダイスキデス」
この程度のことしか言えないのがもどかしい。
日本人の「私」の発言はカタカナ表記だけに、ユニークな文体だ。

『アメリカの滞在中では、目が合うと、微笑んでくれる人がほとんどだった。「素敵な帽子ね」と声をかけられたこともある。日本人は外国の人にこんな風にできるだろうか。
改めて車内を見渡すと、ウイークデーでもあるせいか、子どもの姿はなく、わりに高齢者が多かった。その顔に精彩はなく、表情のない顔が並んでいる」と公衆においては無表情な日本人を切り込んでいく。

それから7、8年が経つ。『最近、高齢者が元気になり、表情豊かに笑う人が多くなった。過去と一番違う点は、リタイア後の男性が外に出始めたことだ。女性の数が優勢だった以前と違う。ほとんどのサークルで男性を見かける。連れ立って行動する夫婦も多くなった。男性と女性がグループになり、楽しげにウオーキングをしたり、趣味の集いに参加したりしている』

『充実した生活をしていると、思考も前向きになって、楽しいことも多くなる。おのずと笑顔にもなれる。いまの車内には、目を輝かせている高齢者もたくさんいる。いつかの外人に見てもらいたいものだ』と結ぶ。

電車のなかで起きた、外国人との一つの小さな出来事。そこから、日本人の特徴や、リタイア後の中高年層の行動力が倍加したと展開していく。会話のカタカナ表記するなど、従来の方式と逆転させた、作者の独創性が光る。ある種の実験エッセイともいえる。


中村 誠   天声人語

                          
「かつて、わが家では日本経済新聞と朝日新聞の二つの日刊紙を取っていた。いまは朝日の一紙だけだが、満足している。人によっては朝日を嫌うようだ。
なぜ、わが家がこの朝日を選んだか、それははっきりしていない。50数年前、中学担任が毎朝のホーム教室に、いつも、「おはよう、今朝の〈天声人語〉では、・・・」ではじまり、その内容を説明してくれていた』と遠い思い出と根拠を結びつけた、よい書き出しだ。

朝食が終わり、妻との会話に区切りがつくと、「私」は朝刊に目を通す。〈天声人語〉が楽しみだ。『コラムの内容はおもに時評だ。書き出しは季節の移り変わりで、本題は時局に関したもの。それを624字で収めている。二人の筆者が順番に担当していると、同紙の記事で知った』

先日のコラムの出だしは興味を引いた。歴代の米国大統領の就任演説だ。〈リンカーンの272語の短さ、それも3分ほどだったと記す。ケネディーは15分で、名演説が歴史に残る。1月21日、44代に就任のオバマ氏の演説は興味をもって待つ〉と記事を引用しながら紹介する。

翌日は、天声人語の担当筆者が変ったようだ、〈色のとぼしい季節だが、近くの公園を歩くとささやかな黄色が目に入る。・・ロウバイが咲き、地面には福寿草が光る……〉と記事を引用する。

「手紙のように、時候の挨拶から始まり、昨今の暗い世情からはなれた内容の記事は季節感を感じて一気読みができた。良い読後感だった」と「私」は感想を述べている。

時候の挨拶抜きに、政治、経済、社会面を語って欲しいとする、忙しい若い読者も多いと思う。花鳥諷詠、俳句に興味のない人は、時間の無駄、と決め付ける。そうしたせわしない人が多い世のなかだ。

「読後感が良ければ、その日は良いことが起こるだろう。そう感じるのは時間に余裕があるからだろうか。朝には清々しさを盛り込んだ記事を期待する。読者はサポーターの一人だ」と結ぶ。
時候の挨拶は、俳句の必需品である。天声人語においても、ある種の冒頭挨拶。こ+6三つをトライアルで展開させている。テーマが明瞭で、読み応えのある作品です。夫婦の朝食風景もさりげなく入っている。


塩地 薫   直腸がん切除(前)

    

病気の記録エッセイである。
1月26日、大腸ポリープ切除のため4泊5日の予定で入院した。病名「早期直腸S状部癌」。表面が、がん化しているポリープを内視鏡で切除するためものだ。
『1月27日、肛門から十数センチ奥にあるポリープを一つ切除する。2時間半もかかった。内視鏡を挿入したままの私に、
「これが取ったポリープです」
 O先生がツヤのある黒褐色のかたまりを見せてくれた。ゴムでつくった模型のような印象をもった。モニターで見たポリープとは思えない。表面はブドウの房のように、こぶだらけである。底というか切断面は、電気メスで、粘膜に沿って慎重に少しずつ切り離したのだろう、黒いきれいな平面になっていた』とリアルに描かれている。

「私の大腸は10年前に『2メートルぐらいあるのではないか』と新宿の病院で言われたことがあるのですが、先生の内視鏡の長さは?」
「1メートル30センチです」
「えっ、そんなに短くて通せたんですか」
「初めて来院されたとき、別の先生が通せなくなって、途中で私に代わったから、大変だったのです。いつもは70センチの物を使っています」
「どうして、大腸より短かい内視鏡で通しきれるんですか」
「腸管、特にS状結腸を、蛇腹を折りたたむようにして、通すんです」

『1月29日、退院の前夜、病室に来たO先生が「予測より大きかったね」と、A4の写真を二枚渡してくれた。私が「切除したポリープを病理検査に回す前に写真を撮りたかった」と話したのを、聞き流していなかったのだ。
黒褐色のかたまりが、水洗して黄白色のいびつなブロッコリーのようになったものと、紫っぽく染められて、大小さまざまな形のこぶの表面が見やすくなったものである。四方から糸で引っ張り、物差しを添えて、きれいな標本として写っている』

『その所見に「ESD一括」とあった。これは、まだ一部の病院でしか実施されていない、最新の内視鏡的粘膜下層剥離術で一括切除したという意味だという。私の大腸内視鏡検診で、初診担当の先生がうまく通せなかったことが、ベテランのO先生と出会うきっかけになったのだ。その幸運に感謝している。
「明日は、退院ですね。今度は、2月13日にお会いしましょう」

『このあと2月13日までに二度、下血のため緊急入院した。大きな切除には、それなりに快復時間がかかることも体験させられた』と結ぶ。
大腸の手術を書き残す。記録的なエッセイ。観察力のある目で、処方を読者に知らしめるように、丹念に描かれている。


青山 貴文   猫いらず     自分史の一助に

                   
      
「私」は東京戸越で生まれた。3歳くらいの年に、両親に詰問される場面からはじまる。

「貴文。正直に言いなさい」両親が詰め寄る。
「タンスの上のおまんじゅうたべたでしょう」
「怒らないから、食べたといいなさい」
両親は容赦しない態度だった。「私」には食べた覚えはなかった。あまりの二人の真剣さに圧倒されて、「たべた」と白状したのだ。

『晩酌していた父が突如として、私を抱いて夜の街を走る。母も一緒だった。4歳の姉はどうしていたのだろう。私の記憶にはまったく残っていない。
両親は深夜の医者の玄関をどんどんたたき、眠そうにしている医者を起こす。子供が猫いらず(ネズミ殺しの饅頭)を食べたといい、わが子の救いの懇願をする。両親は必死である。いろいろ調べたが、「私」には症状が無く帰宅した。

『帰宅して、タンスの周囲を再度こまめに探すと、タンスと壁の隙間に饅頭が落ちていた。タンスの上に置いた「猫いらず」が、なにかの拍子に落ちたのであろう。この話は物心ついてから、何度も聞かされた。わが家の共通の笑い話になっていた』。
3歳の「私」はなぜこのとき、がんと「食べていない」と主張できなかったのか。

 これをエッセイに書いて、透析で退屈している姉にファックスした。すかさず姉から電話がきた。
「この件は、私のことよ。猫いらずも数日後、母が掃除していて見つかったのよ。あの時、お医者で胃の洗浄で大変な目にあったのよ」
 1歳7ケ月離れた姉は、当時の私より記憶力は確かである。両親に本当のところを聞こうにも、二人とももうこの世にいない。
 
『二つの教訓を得た。記憶とは、いいかげんなものである。書くことは、人を確かにする。幼少のころ聞いた笑い話は、自分のことだと信じ込んでいた。幼少時の体験談とし、自分の中で作り上げていた。文字にしていなかったら、自分の思い違いに気がつかなかったわけである』と結ぶ。
テーマ「思い込み」が、ラストのどんでん返しが効果的に決まっている。そして、作品の価値を高めている。


上田 恭子   子守人形

   
                     

『その人は、京城帝大の文科に在籍していた。
 昭和19年の頃だった。わが家では、姉や兄のお友達をあつめて、「インテリゲーム」やカルタとりで、よく遊んでいた。私は女学校三年の頃だったので、味噌っかすで、入れてもらっていた。
帝大生は、私の親にも信頼されていた。わが家の出入りは自由で、私には、二人の兄がいるようなものだった』と、戦時下の淡い恋の書き出しだ。

『戦況が厳しくなり、文科生は学徒動員の通知が来た。「私」は兄とともに、その人の家に遊びに行った。何人か、友達もいた。その人に相応しい女性もいた。今思うと、「お別れの会」だった。その人が、何か思いつめたような目で私を見ていらした。けれど、その頃の私は、分っているようで分らないふりをするのが、得意だった』と女学生の微妙な心理が描かれている。

 当時の女学校では、出征する人にお人形を作ったり、慰問袋を作ったり、千人針を作ったりしていた。「私」は小さな人形をはぎれで作って、学徒動員される帝大生に「お守りよ」とプレゼントをしたのだ。

 8月15日の敗戦を境に、人はそれぞれ運命に翻弄された。「私」たちは父の兄のいる金澤へ引き上げた。昭和25年頃、金澤から東京に移った。
 私は女学校を卒業して、広告代理店に勤務した。ある時、勤めから帰ると、京城帝大の人が来ていた。九州に復員して、九州帝大を出られたという。

『二人だけになったとき「出征するときに、くれたお人形は大事にもっていたよ。復員してから、何が入っているか気になって、解いてみた、何も入っていなかった……」という。何を入れればよかったのだろう? その人は一晩泊まられて、帰っていかれた。
 次の日、母親から、「あなたを貰いにいらしたようだけど、何か言われたの?」と言う。
「何も聞いてないわよ、私、結婚するけど、お嫁にはいかないから」
 それからしばらくして、その人は九州の方と結婚されたと聞いた。』と結ぶ。

 思い出の純愛エッセイである。戦争は人間の運命を翻弄する。肩に力が入っておらず、大げさな言葉でなく、さりげなく書かれている。それだけに、好感が持てる作品だ。


高原 真   老いの記憶訓練


 書棚を整理すると、小さなメモ帳が沢山でてきた。雑記帳代わ、講演の備忘もあったが、大半は本からの「抜き書き」だ。
前ページには著書の出所、裏ページには解説が書いていた。現職のころ「本の内容」を理解するためのものだ。
「よく根気が続いたな。こんなことを・・」と苦心した気持ちが高まって快かった。数ページたぐるが、内容は忘れている。その時は記憶し「他人に話しをし、実例やタトエ話をしたはずだが……」と自分に問い直した。からっきし頭に浮かばない。急に虚しい思いがこみ上げてきて、一日中落ち込んでしまった。


 子供の頃から記憶に対する劣等感がある。小学校の頃は「歴史と地理」が特に不得手だった。隣家の同年代の子どもたちと、将棋やトランプなどをした。「神経衰弱」の遊びは一番嫌いだった。

 そんな「私」が教員となった。記憶には自信がないので、「記憶」に関する書物をあさった。記憶の心理学、記憶術の本などが、いまでも書架に眠る。原理はすぐ理解できた。応用した自作「記憶モノ」もいくつかはある。学生に伝え、興味をもってもらった。効果をあげたことも事実で、「記憶術」様様であった。

 二個の数字をゴロで覚える方法も試みた。これはなかなか覚えられない。自然と消えてしまった。

『「元気に百歳」主催の十周年記念総会で「円周率四万桁暗記のギネス記録」を達成した友寄英哲さんの記念講演があった。記憶コンプレックスの私にとっては驚異で、すすんで聞いた。講演が終わってから、個人的に友寄さんに記憶方法を聞いた。原理的には本に書いてある記憶の工夫の応用である。友寄さんは現在「高齢者の脳の活性化」を研究していた』

『とみに忘れっぽくなった自分の脳の活性化を図ろう、と記憶に関する本を書架からとりだし、再度ひもといた。「数字ゴロ合わせ」をもう一度やってみようと試みている。記憶は「記銘と連想」が基本だが、私は「記銘(最初に頭にたたき込む)」に弱いのだ。
 試作のゴロを使って二数字をすぐ事物に置き換えることを試みた。が、覚えたと思った自作のゴロがでてこない。記憶に弱い頭にがっかりした。
それよりも「こんな練習をして、なんになるか」という「悪のささやき」が沸いて断念しかかった。
二桁の「乱数表」を思いついた。いま、これをもとに練習をしだしたばかりであるが、いつまで続くか。

「教育訓練」という言葉が現職のころは盛んに用いられた。教育は知識の伝授であって、訓練は伝授したことを実際にできるように習熟させることだ。
 二桁の数字の連想を巧みに使える。そうなるには「訓練」以外のなにものでもない。
『絶えぬ努力が必要だが、続けられず途上で挫折するのは私の一番の弱点でもある。今回は「老いのあがき」の試みだ。でも、友寄さんほどにはいけないまでも実用的に使えるまでになりたい』と結ぶ。
苦手な「記憶」に対する、取組みの熱意。結果として失望。それらが具体策と心理描写で、ストーリー立てて描かれている。力技の作品だ。

「小説家」トップへ戻る