A020-小説家

第26回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 今回のレクチャーは「素材の切り口」について説明した。

 作品の評価の中心は、文章力と素材だ。どちらが重要か。載せる媒体によって違う。「ともに甲乙付けがたい、ともに重要だ」、というのが明快な答えだろう。


 エッセイはどこまでも読者を相手にして書くもの。自分を相手にして書く日記とちがう。同じ素材でも、作品化されたエッセイは、作者によって切り口がちがうものだ。それが作者の個性だ。

 文章力は、良い文章を読んで、真似て、より多くの作品を書くことで磨かれる。と同時に、「省略」と「書き込み」が重要である。
 素材の処し方は感性もある。それ以上に、常にシャープに切り取る、という意識が大切だ。

 鋭い切り口(シャープ)とは具体的になにか。
「そういう見方があるのか」
「そういう考え方もできるのか」
「なるほどな、面白い捉えかたもあるものだな」
「へぇ、そんな体験があるんだ」
 と読者を感心させたり、うならせることだ。


 今回の提出されたエッセイは、味のある作品、目を引く作品が多かった。豊かな人生経験のうえに、創作技量の向上があるから、作品に深みや厚みが出せているのだ。
 全作品を一つひとつ紹介したい。作品の素材をメインに紹介するために、部分抜粋を中心においてみた。


上田 恭子  巫女さんになりたい そのニ

   

 八王子の子安神社の境内で、神楽や管絃や舞楽の夕べという催しがあった。孫の静香から「券を二枚買ったから行く?」と誘われた。
 10月4日の土曜日の夜だった。神社の境内では、松明があかあかと燃え、赤い布の敷かれた長椅子がたくさん並べられていた。お参りにきた人が椅子に座り、神楽の始まるのを待つ。
 宮内庁の雅楽の方も加わった、優雅な演奏が始まった。そして、神主の言葉で、全員が立ち上がった。君が代の斉唱だ。「私」は雅楽にあわせて君が代を歌ったのは初めてだった。『君が代には雅楽が似合う』という思いを持った。

 4人の神楽舞い人が、静かな笛の音とともに、優雅に舞う。その舞のなかに、私の遠い昔の場面と重なり合うものがあった。
 小学校の6年生まで、琴を習っていた。演奏会があると、着物を着せられて舞台で弾かされる。それが苦痛だった。

 女学校2年生の「時」には、クラスから4人の生徒が選ばれ、護国神社の奉納で琴を弾いた。「選ばれたのは、みんな美人ばかり」とうわさが広まったものだ。
 その時の写真があったはずだ。
「神楽や管絃や舞楽の夕べ」が終り、帰宅後に探してみると、セピア色の写真が出てきた。衣装が、子安神社の舞い人の衣装と同じ。写真をみた静香が、「この衣装は本物だ」としげしげと眺めていた。

 

吉田 年男   喫茶「嵯峨」の思い出


「私」が定年退職後に勤めた第二の職場は、千住大橋にも近い自動機のメーカーだ。目と鼻の先には、食事もできる小さな喫茶店「嵯峨」があった。
『半間のドアを手前にひくと、カランカランと心地よい鈴の音がする。室内に入ると電球色の温かい照明が、木製のテーブルと椅子を照らしている』。周りの雑踏から隔離された、家庭的で優しい雰囲気の店である。

 職場に入る前に喫茶「嵯峨」に立ち寄り、ママさんが淹れてくれる、美味しい、挽きたてのコーヒーを頂くのが日課になった。彼女は動物が好きな人で、愛犬の話をよくしていた。
『職場を去ることになったとき、「嵯峨」の思い出を、「人尽楽」(人楽しみをつくす)と小色紙に書いた。お世話になったお礼に、額にいれてママさんに差し上げて別れた』

 5年が過ぎて、再会する。『半間のドアを手前に引いた。カランカランと馴染みの心地よい鈴の音がした。「あら珍しい」と明るいママさんの声が聞こえた』。木製の椅子に腰をおろすと、注文もしないで、ママが挽きたてのコーヒーを出してくれた。
 他方で、「人尽楽」の額が、外から窓を通して見える場所にかけられていた。『懐かしさと嬉しさが入り混じり、一瞬熱いものがこみ上げてきた』と結ぶ。
 店主と客という間柄だが、人間どうしの絆が胸を打つ作品だ。


濱崎 洋光   銀飯の味


 妻から、「今夜はおかず何にします?」と聞かれる。その都度、何でも良いさ、と「私」は答えてしまう。食事メニューの選択が極めて苦手なのだ。戦中、戦後の物資欠乏時代に育ったからだ。

 国民学校(現小学校)の校舎に隣接した、演習農園があった。3年生以上の生徒が分担して耕した。ジャガイモ、サツマイモなど空腹を補う芋類で、給食に利用されていた。芋の品種が「農林百号」で、今では家畜も食べない。それでも、空腹を凌ぐのには貴重な作物だった。

 昭和20年8月に戦いは終わった。物資欠乏の苦しい生活はなおも続いた。学校の授業も満足になかった。家に帰ってもおやつは無かった。夕餉は米粒の少ない雑炊や水団が多く、身体はアバラ骨が見えるほどに痩せ細っていた。

「私」は6年生になった。物不足の世だが、「市内国民学校対抗軟式野球大会」が秋に開催された。野球がどんな運動か全く知らなかった。「野球が一チーム9人でやるスポーツ」という、初歩からの指導を受けた。新品のボールも、バットで打つとすぐ割れる粗悪品だった。

 練習時間の最高の楽しみは、おやつに、優しい女先生が運んでくれるバケツ一杯のサツマイモだった。優勝した祝勝会が学校の宿直室で開かれた。ご飯に白菜の味噌汁、秋刀魚の塩焼きと沢庵だった。真っ白な山盛りの銀飯は眩しかった。優勝の喜びと、銀飯の美味しさを腹一杯噛み締めた。

『子供の頃は、空腹を紛らすことさえ難しく、食べ物の好き嫌いを言っていられなかった。時を経て、当時の記録を読み、話を聞くにつけ、私達のような内地の田舎育ちの者はこれでもまだ幸せだった事を知る』と結ぶ。
 終戦前後の子どもの立場から、飢餓寸前の状況が描かれている。貴重な記録エッセイだ。


中澤映子   オカマ猫   動物歳時記 その16


 猫のシロは目が開かない生後間もない時に、ダンボール箱に入れられて捨てられていた。12年前ほど前だった。近所からの通報で、娘と主人が駆けつけ、猫が入ったままの箱ごと、持ち帰ってきた。そして、猫用の哺乳瓶と粉ミルクを購入してきた。なんとか生きながらえた。

 いまは小俣一家の長老となったシロだ。歌舞伎の役者のような少し眼がつり上がっている。エメラルド色の瞳、白いフサフサした毛並み、頭と尻尾にアクセントの黒い毛が混ざっている。『シロ狐ともいわれている』。性格はマイペースで、あまり他の猫のめんどうをみたがらない。
『わが家のお客様から「まぁ、きれいな猫ちゃん」と言われると、まんざらでもないような顔をしている』。男の子なんだけど、ちょっとオカマぽい。

 シロは一年近く家出の経験がある。近所を放浪の末、舞い戻ってきた。『シロのいない間に小俣一家に仲間入りした猫などは、前からいたとは知らず、追い出しにかかった。それを何回か繰り返し、やっと認められ、今では堂々と定着し、その存在を誇示している』と現在を描く。
『人間の年でいえば70歳前後、義母の膝の上やベッドの上、そしてお釜の上でくつろいで、ゴキゲンな老後を過ごしている』と結ぶ。

 シロ(猫)の生体と、数奇な人生が擬人法を使い、リアルに描かれている。生まれたときの不幸な状態から、長老といわれるまで、長い猫人生を描いている。時間の処理が巧く処された作品だ。


長谷川 正夫   思いがけない再会

                         

 平成5年1月、客船「飛鳥」のマニラ・ラバウル間のクルーズに参加した。ラバウルは、戦中派、特に海軍に勤務した者にとっては忘れられない地名である。そこへ戦後はじめて客船がゆく。「私」は見逃さず、乗り込んだ。

 船内で、一組の若い夫婦が目についた。『年配者ばかりの他の乗客たちに、とけ込めず、食卓でも会話の輪からはずれ、いつも寂しそうであった。同じテーブルで食事したのを機に、私たち夫婦はこの夫妻に積極的に話しかけた。
 新婚旅行の医師夫妻だ。『楽しかるべき旅行の調子が狂って、ほとほと困りはてていたところ、われわれ夫婦に声をかけられ、助け舟に出会ったようですと大変喜んでいた。医師と私が偶然同学ということも分かって一段と親しさを増した』というつながりを得た。

 数年後、「私」は体に異常を感じたことから、K大学病院で診察をうけた。手術を受けることになった。病室は10階の個室で、担当の医師と看護婦(現・看護師)も決まった。
 教授の回診があった。ベッドの上に座って来診を待つ。教授が医師一名と婦長、看護婦各一名を伴って入ってきた。

「あッ」随行の医師は、ラバウルクルーズで一緒になったひとだ。にっこりと会釈する。劇的な出会いだ。
「君はこの長谷川さんを知っているのか」
 教授もちょっと驚いて、うしろのK医師に問いかけた。
「ハイ。以前、飛鳥でお世話になりました」
 医師は手短かに答えた。教授は私に幾つかの質問を重ねたあと「お大事に」と会釈し、部屋を出ていった。2、3分くらい経って、婦長が再び部屋に入ってきて言った。担当医がクルーズで一緒だった先生に代わったと告げられたのだ。

 その医師夫人から花束が届いた。予想外だ。『患者が担当医の夫人から花束を贈られるとは話が逆ではないかと、恐縮するばかり』それから一両日過ぎたあと、医師から「妻がお見舞いに伺いたいといっています」といわれた。

 担当医の夫人が、入院中の患者の見舞いに行くとは聞いたことがない。辞退したが無駄だった。面会時間には夫人が幼児をつれて、医師と並んで病室に入ってきた。
 ひとつの出会いから、交流が深まっていく。人間愛に満ちた良品だ。


奧田 和美   自転車で転んだ


 二人目の孫が生まれた。「私」は毎日、自転車で15分先までうきうきと手伝いに通う。街は起伏が多い。下り坂でブレーキをかけずに急降下するのが好きだ。9月に入っても日差しが強く、つばの広い帽子をかぶっていた。風を受けて帽子がそり返り、全部後に行ってしまった。

 自転車を運転しながら片手で帽子をなおす。強い風で帽子がゴムがついているので背中に残っている。次の角を曲がると平坦な道になるからそこで両手でなおそう。自転車のハンドルから両手をパッと離して帽子をつかんだ。その途端、生垣に突っ込んだ。

「あーあ、やってしまった」
 膝とすねから血が出ている。孫の家に着いて事情を話した。
「疲れが出ているんじゃないですか」と嫁が心配してくれる。
「両手離し運転できると思っちゃたのよねー」と私は照れ笑いする。

 上の孫娘が昼寝を始めたので、自宅に帰ることに決めた。足首は痛いが歩けた。自宅に着いてシャワーを浴びてから、足首を少し高くし、仰向けになって本を読む。立ち上がりかけると、足首が腫れて痛い。骨折ではないと思うが、病院に歩いてはいけない。保冷剤をあてて冷やす。

 夜、娘が帰ってきた。
「もうまったくバカなんだからー。歳を考えてよ。あの坂をブレーキかけないですっ飛ばして」と批判する。若い頃できていたことが今もできると思うのが間違いなのだ。要注意だ。
 足首の腫れがやがて引いてきた。また、自転車で孫たちに会いにいける、と心が弾むのだ。
「若さへの自意識と、実際の肉体のギャップ」をテーマにした、誰にも心当たりがあるものだから、しっかり読させる。


塩地 薫   平和のバトンタッチ(改)


 63年目の終戦記念日に、稲城市の中央図書館で、「平和百人一首原画展」を観ることができた。
『一首ごとに、右に短歌、左に挿絵が描かれて、目の前の壁面に並んでいる。一首ずつ観ていくうちに、十五歳のとき名古屋で戦災し、福岡の炭鉱に移って、何とか生き延びた、終戦前後の異常な感覚が甦ってきた』と回想に入る。

 会場に挿絵を描いた稲田善樹さんがいた。「私」より10歳若い。戦争と平和について話し合う。戦争をしてはならないという想いがよく通じ合った。
「明日から、広島平和記念資料館の『サダコと折鶴』も同時展示されます」と誘われた。参加すると、大半は団塊の世代より若い人たちだった。
 シカゴの二人の中学生が撮った「魔法のランプのジニー」という16分の映画が上映された。そのなかに「サダコと折鶴」も出てきた。サダコ(佐々木禎子)は2歳のときに広島で被爆し、10年後に白血病と診断されて、入院した。「ツルを千羽折ると願いがかなう」と折り続けたが、12歳で亡くなった。

 3年後、彼女をモデルにした「原爆の子の像」が平和記念公園のなかに完成した。そのころ、私は転勤先として広島で2年間を過ごした。折々、知り合いを原爆記念館を案内して、「戦争をしてはならない」、「原爆はなくさなくてはならない」と言い続けていたものだ。

 会場には多岐に渡る人が集まっていた。南京の日中韓「戦争を語り合う会」に高校生の息子と参加した母親、高松から夜行バスで駆けつけた女性、中国人の若いカップル、平和を語りに韓国に行った車椅子の身障者などだ。参加者には広島・長崎の原爆被災者もいた。

 それらの人たちの交流会では「平和百人一首」と「原画」への「想い」が語られた。8編の原爆詩が8人の市民有志により、平和への祈念をこめて朗読された。小学生の詩でも、体験者の悲痛な叫びが、私の心に響く。

『私は名古屋の空襲体験を話した。原爆の被災にくらべれば、着の身着のままの状態で焼け出されても、まだ幸運だった。あらめて平和を語り継ぐ大切さを痛感した。「平和のバトンタッチ」が、今こそ必要なのだ』と結ぶ。

 作者の平和を想う気持ちと、後世への戦争や原爆の悲惨さを伝達したい想いがつたわってくる。読み手も深く考えさせられる。


中村 誠   誕生花


『いつもの様にごみ出しで玄関を出て、裏山を見上げた。樹木を被っている葛(くず)に、薄紫紅の花が一斉に咲き始めていた。微かな香りが流れてくる』と自宅近くの葛を紹介している。

 2ヶ月ほど前の初夏は、葛のつるが垣根や庭木に絡み、取り除くのに苦労させられた。取り除いても、すぐに新しいつるが絡みつく。しつこい葛の生命力の強さにはへきへきさせられていた。

 葛の根から作られる葛粉は、葛きり、葛餅、葛桜などの原料になる。解熱剤にもなる。花言葉は《活力、芯の強さ》、よく持ち味、性質、性格を表現している。『葛の花が、私の誕生日、9月21日の誕生花』と知ることとなった。これが俳句に成らないか。9月句会に自由句としてひねり出した。

   《香り来る 吾が誕生花 葛の花》

 花が重なり響きが悪く、選句の対象には無理があるが、家内に意見を求めてみた。「お仲間にはこれと云った、感じるものも無いと思うわ。誕生花があるのは興味を惹きそうね」。家内のコメントが胸にぎゅーとくる。まさに図星だから。他にもう一作できた。

   《木々覆う にくまれ葛に 花香る》

 句会の自由題の提出は、誕生花があまり知られていないし、目新しいので二作目の句にした。ところが、感性ゆたかな仲間たちのきびしい選眼には私の句はお呼びでなかった。結果は得点数ゼロだった。
『葛』という植物に、あらゆる角度から焦点をあて、辞典なども駆使し、掘り下げている。誕生花と知り、俳句の創作、夫婦愛に結びつけている。
 テーマと題名が結合し、無駄なく展開された作品だ。


青山貴文   ウクレレ発表会 ハワイアンバンドの結成(二)

                    

 ウクレレの先生が、練習中の「私」の手の動きはおかしいと首をかしげる。妻すらも、『あなたの弾き方は、ロボットだ』と変な顔をする。『イチロウだってはじめは、おかしな打ちかたといわれた』と、私は意に関せず、胸をはった。
 さらには、近所の人が『面白い音色ですね、何という楽器ですか』と訊く。三味線とも言えない。やはり弾き方がおかしいようだ、という認識を持つ。私が考案した独自の弾き方はあきらめた。
 私は原点に戻り、先生やNさんの弾き方を真似ることに徹した。

 ウクレレ教室では、劣等生だが、合奏は楽しい。『終始、間違いなく揃って弾き終わると、一体感で一杯になる』。慣れてきて、途中で楽譜から目を離すと、どこを弾いているのかわからなくなる。暗譜は、音痴の私にはむずかしい。しかし、多少まちがっても、みんなの中に混じって弾くとなんとかなる。

 習いはじめて半年経ったころ、発表会に出ることになった。先生の奥さんがフラダンスの先生で、約100人を教える。そのフラダンスの発表会に、ウクレレが加わったのだ。

 男性はアロハシャツで、造花のレイを首にかけた。女性はフラダンスの華やかな衣装だ。「私」が約200人の観衆の前に立つのは、小学校の学芸会以来で、それなりに緊張が走る。妻や娘夫婦も後部座席から、手を振っている。『一寸ぐらい間違っても平気を装えば、観衆にはわからない。なんとかなる。このなんとかなるは、私の処世訓である。だから、何をやっても半人前で終わってしまう』と自分を見つめる。

 ウクレレ組は、前半と後半で約15分間の演奏だけだ。他は早朝から座席に札を付けたり、看板を立てたり、受付の机を並べたり、楽屋裏に行ったりで忙殺させられた。
 発表会が終ると、跡片付けの力仕事だった。ウクレレ教室の私が、フラダンスがメインの発表会に招かれた、その真意は男手の利用だったと気づくのだ。

 ウクレレの腕前が未熟な「私」を突き放し、距離を置いて書かれている。技術的なミスをごまかす態度までも、赤裸々に書いているので、好感度の高い作品に仕上がっている。


森田多加子   町の佇まい


 隣家から、庭に咲いた小菊を抱きかかえるほどもらった。「私」はそれを色分けして部屋のあちこちに置いた。花の数が多すぎて、むせてしまう。「私」は思わず戸外に出た。

 住む町は新興の住宅街で区画整理ができている。戸外に出た「私」は無意識の意識で、花に気持ちがむかう。庭いっぱいに花を植えている家、こざっぱりとした庭、庭など無視した捨て鉢な家がならぶ。

 ヨーロッパの街は、各々の家の屋根は同じ色、塀の色も統一されているし、集団の美しさを発揮する。わが町の一軒、一軒の様式はちがう。日本人は群がる、人と違うことを好まない。街づくりに関しては当てはまらない。一見して不調和だ。

「私」は散歩する人に目を向けた。60代の男性が猫を抱く。ときには猫に紐をつけて歩かせている。ブルドックを連れた50代の女性は飼い犬そっくりの顔だ。『犬は飼い主に似るというが、これほどそっくりなのはスゴイと思う』。
 ポメラリアンらしき犬を連れた70代前半の女性はいつも誰かと立ち話だ。犬が足元をぐるぐる歩き回っている。

 私は行きかうひとの着衣に注視する。夕方に出会うのが、上から下まで真っ白な服を着た年女性である。白い帽子、白い服とズボン、それに白色の太い鼻緒のついた男物の大きな下駄を履いている。唯一違うのはサングラスの漆黒である。宗教の関係者かと思ったが、そうではないらしい。白いコート姿は見たことがないので、今年の冬はぜひ会ってみたい。

 次の意識は、周りの家からの匂いだ。ある家の今夜の惣菜は焼き魚のようだ。こちらの家はフライだろうか。煮物の匂いもしてくる。『わが家に飾った菊の花が、部屋にもう馴染んだ時分かもしれない。帰って夕食の準備にとりかかろう。今夜は湯豆腐といきますか』と結ぶ。

 日常生活のなかで見過ごしている点を抽出し、掘り下げて観察している。


 高原 真   メスがドスになった

                    
 小田急線の朝のラッシュはいつも混雑している。経堂駅からは乗る人が多く、新宿まで約20分間だが、ずっと立ちっぱなし。その日もやっとの思いで乗り込んだ。『娘さんが乗車口近くの座席の前に立っている。その後ろから、手を差し伸べて、ようやく吊り革を掴んだ』

 「私」の右側には、背の低い痩せた老婦人が両手で、荷台を支えるパイプにつかまっていた。病弱とも見える顔には、皺が多く、70歳はとうにすぎている。

『うなだれる格好で、パイプに時折り頭をつけてしがみついている。痛々しい姿だ。座席の人が替わってあげるでもない。皆、目を閉じている状態だった』

 次の駅で席が空いた。20代の娘さんがスッと座った。私はとっさに「年寄りに席を譲りなさいよ」と声をかけた。彼女は気はずかしそうに腰を上げた。
「どうぞ。おかけなさいよ」と、私は空いた席に座るように老婦人に、なんども薦めた。しかし、老婦人はそのつど軽くうなずいて、すぐ頭を小刻みに横に振り、固辞して座らなかった。

 そこから私の心理的な葛藤がはじまるのだ。「ひとこと」を言わねばよかったと悔やんだ。居心地が悪かった。娘さんや回りの人が「敵意の視線」を私に向けているという嫌悪がこみ上げた。
 老婦人は乗降客の激しい出入りに体を振られながらも、パイプにしがみついている。次の駅も、その次の駅でも降りる気配はない。望んでもいないのに座らせることを強要もできない。
「老婦人が素直に座ってくれれば良かったのに」と、恨み言がもたげてきた。

 私はかつて息子に諭したことがある。息子がプラットホームで、タバコを吸っていた若い男に「ここは『禁煙場所』ですよ」と注意したという。親切心はよいと思うが「ぶすっ」と刺される。それを気づかったのだ。
「手術で人を助けるメスも、使いようによって、人を傷つけるドスになる。不用意で発した言葉が相手にも、自分にも、悪い結果を招くこともあるよ」という訓戒もした。
 なんのことはない、自分がやっていたのだ。

 結局、老婦人も娘さんも終点まで立ちっぱなしだった。よかれと思って言った「私のひとこと」がドスに変じ、娘さんにも、老婦人にも、私にもともどもにキズを負わせたのだ、と結末を導く。

 日常、誰にでも起こりえることだ。それだけに、読者が作中の心理描写に入り込める。一気に読ませてしまう作品だ。


山下 昌子   ニヒルに笑うな


「元気に百歳」クラブの出版記念例会で、名誉会員で百歳の船越さんが乾杯の音頭をとった。短い話が面白く、みんなから拍手をうけた。
 元気で長生きするには三つの『わ』を実行すること。「忘れること」、二つめは「笑うこと」、三つめは「我がまま」を実行することと述べた。
 都合の悪いことなど忘れれば、ストレスは溜まらない。笑うことが良いことだと、誰でも納得できる。「我がまま」はわが道を行く、という意味。

 その三つを「私」に当てはめてみるのだ。「笑う」は実行していると思っていたが、年々笑いが少なくなっている。声を立てて、涙がにじむほど笑わない。涙はよく出るが、これは単に涙腺が緩んできただけなのか。

 娘が小学校低学年の頃だった。夫の中学時代のクラス会が、家族同伴で開かれた。「子供たちからパパへの注文」というコーナーがあった。
 私の娘が「パパも笑うときは、声を出して笑ってほしい。みんなで笑っているとき、パパは黙って笑っている」といったのだ。司会者が黒板に「ニヒルに笑うな」と書いた。それから、我が家では「ニヒルに笑うな」という言葉がよく交わされた。

 先日、孫の運動会でハプニングをみて、「あー、こっちだ、こっちだ。アハハハ」夫が声を上げて笑っていた。氣がつくと「ニヒルに笑うな」といわれた夫が声を出して笑っているのだ。

 高齢者の二人暮らしでは、声を上げて笑うことが少なくなってきた。他方で、高齢者でもよく笑う人には、元気な人が多い。三つの『わ』は私に向けられた言葉ではないかと思う。
「ニヒルに笑うな」と、時どき私自身に言い聞かせている。

 書き出しから切り口の良い、生き方、長生きの参考になる、啓蒙作品だ。


二上 薆   鉄道博物館 ー自分史のよすがにー

                            

 鉄道博物館は大正10年、鉄道開業50周年を記念して作られた。万世橋の館は一昨年5月で閉じた。去年の秋には新しく鉄道博物館として大宮に誕生した。

「私」は墓参の帰り、そこを訊ねた。大宮の博物館駐車場に入るのに、数十分待たされた。そのうえ、館内は人の渦だった。ここは旧国鉄の大宮操車場や車両工場の跡に作られたものだ。その割には細長い建物に飲食店、売店などが多く、肝心の展示物そのものはあまり目を引かない。操車場レールに置かれた古い各種の実物車両が目に付く程度だった。

 幼い頃が私の脳裏を横切った。簡素な鉄道博物館の館内に置かれた、蒸気機関車に登ったり降りたり、模型鉄道の運転を楽しんだ。それは新しく万世橋に移った後か。万世橋移転は昭和11年と聞く。

 さらに、戦後交通博物館と名を変えた万世橋の館は一昨年5月に閉館した。この際の館内見学、溢れる人波に何かわびしい思いが強く残った。
 戦争中のこと、大宮操車場に隣接する国鉄修理工場を訪ねた。『疎開の荷物運搬の便を願って、遠縁の国鉄人の官舎に訪ねた。巨大な蒸気機関車と忙しそうに立ち働く人々の姿が思い出された』という記憶もよみがえった。

 蒸気機関車の出発の汽笛は、耳をふさぐほど恐ろしい。昭和1桁時代の上野駅のある出来事が思い起こされた。
『汽笛一声、列車がのろのろと動き出した瞬間、一人の老婆をだき抱えた駅員が、最後尾のドアを追っかけ、無事に乗せた』。その光景が強く残っているのだ。『今では安全無視、とんでもないと罵倒されようが、戦雲ただならぬ頃、世情、人情の嬉しさ有難さを思った』と心情を語る。

 機関車は多く客車をただ一人で引っ張る。客車はゴトゴト車輪の回転、線路のつなぎめを通る音が響く。何となく嬉しい。いまは電車で各車両に動力源が据えられている。音はゴーという喧騒となった。

『昔の世情は家族的な集団社会だ。引っ張るリーダー機関車役と、従う客車役がそれぞれ役割を分担していた。が、今は何でも一人で出来る。自由、自由、と。
 鉄道博物館の変遷と、人生の推移を巧く重ね合わせた良品だ。

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