A020-小説家

第25回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 今月のレクチャーは、「味のある文章で、エッセイを読ませる方法」という、前回の続きだ。
 日常些事なエッセイでも、読者を魅了させる名文が生まれる。読む人に深い感銘を与えられる。それには表記することばが正しくて、「この一行は考えられているな」と読者に思わせることだ。そのコツを身につけるために、と具体的な学び方を示した。

 ・感情表現(怖、好、厭、昂、安、驚など)の喜怒哀楽の語彙を増やす。

 ・類語を上手につかう。

 ・反対語とか、反復とか、対比とかの言葉を組み合わせる。

 ・名文章家の作品で、「うまいな」と思ったら書き取っておく。使ってみる。

 『名文は一夜にしてならず』と説明した。


  10月度の作品は、日常生活から選んだ素材で、切り口の良い作品が多かった。失敗談から、本人は真剣だから随所にユーモアを感じさせる。それら作品に出会えると、読み手に一服の憩いとなる。

 幼い頃、青春時代に戦争と関わった世代には、心に戦争の陰が残っている。それらがモチーフになった作品も幾つかある。書くこと自体が記録として価値ある作品となる。

青山 貴文  ウクレレとの出会い ハワイアンバンドの結成(1)

                             

 「私」は60歳になり、会社生活から解放されて、毎日が日曜日の生活となった。他方で、看病していた母が亡くなり、放心状態であった。
 あるとき、友人のウクレレ教室を覘いてみた。「私」にはいつか楽器を弾きたいと願望があった。ウクレレはバイオリンより易しい? それが「私」の好奇心に火をつけた。
 隔週ごとに毎月2回の練習。男3人と女5人のメンバー。音符がよく読めない「私」には、ウクレレのコードは簡単で、なじみやすいものだった。

 指先が不器用な「私」は、帰宅してからも練習。テレビ観ながらも、歩いているときでも、両手をうごかすことに専念した。それでも、先生からは、『パソコンにかまけて練習が足りない』と苦言をいわれる。

 数か月後、ウクレレを持たない生徒は、先生の推奨する型式のウクレレを一括購入することになった。
『安物を買うと、容易にやめる。高価なものを買うと、もったいないのでやめられなくなる』といわれた。「私」は生涯にわたって、ウクレレを奏でたいと考え、初心者としては高価なウクレレを購入した。いまは親しみのある手離せない愛器になった。

 だが、ランクアップの高価なものまで、再購入する気になれていない。ウクレレを習いはじめる動機、上達していく過程。グレードの高い楽器を求めていく。心のゆれ具合が書き込まれた、求心力のある作品だ。


上田 恭子  巫女さんになりたい

                     
 夫が亡くなった。自家は神道だ。春日神社の神主さんに、葬式を依頼した。
 その後、年の暮れが押し迫ったある日、「私」は神主に会ったので、高校3年の孫娘の『巫女』のバイトを頼んでみた。承諾が得られた。

 私の口利きから孫娘が着物姿で、30日、大晦日と、お神酒のお酌やら、お札やお守りの売子をおこなっていた。夜中2時ころになると、孫娘のバイトが引けるので、父親が車で迎えに行っていた。
「私」はお参りかたがた覗きに行った。孫娘が参拝客にお守りや破魔矢などを売っていた。「私」がカメラを向けたら「今お仕事中で忙しいの」と睨まれてしまった。

 毎年、孫娘は同じ神社に手伝いにいく。一方で、アルバイトのお金で、「浦安の舞い」という奉納舞踊を習う。
 大学4年になると、孫娘は就職活動をせず、神社に勤める気でいる。孫娘のバイト先の神社は小さくて募集していない。
 鎌倉八幡宮など大きな神社の採用は五月だ。今年はもう終わっていることから、孫娘は就職浪人する気だ。軽い気持ちで進めたバイトが、孫娘の人生に掛かってくる。そこに導いた責任が「私」にあるようで、気の重い、と結ぶ。
 神社の巫女のバイト、という特異な良い素材だ。展開するほどに、ふくらみがある作品だ。


二上 薆   名月や池をめぐりて 三つの歓び


 観月会の向島百花園に、友人の誘いで出向いた。
『秋は夕暮れ、向うの緑の草叢にたった一人、楚々たる和服の乙女が横笛を構えて立つ。静かに曲が流れる』と情感豊かな優雅な書き出し。クズ棚や藤棚の下には、三々五々と月見の会のひとたちが集まってくる、と情景が描かれている。

「私」は月見団子、すすきを飾った祭壇に一礼した。そのうえで、萩のトンネルをくぐり、名碑の園の小道を歩む。すっかり暗くなると、明るく灯された仮設舞台では、笛吹く乙女から、琴の演奏に変わった。

 売店前の小広場で、「私」は友と野外テーブルでビールと焼きとりを口にした。真っ黒な夜空に、まん丸の月が昇ってきた。仲間の一人が双眼鏡をさしむけてきた。『お月様の面をまじまじと拝したのは、何年ぶりだろうか。
 黒い影がくっきりと、やはりウサギが餅をついているのは間違いない』と作者の独特のユーモラスな語り口調で、月を表す。

 琴の音が止むと、次なるは灯籠の点灯だ。「私」は、第一番目の灯籠の点灯者となった。灯籠の明かりから、芭蕉の句が浮かび上がった。
「名月や 池をめぐりて 夜もすがら 松尾芭蕉」
 こうした名月の観賞が終わると、「私」たちは向島から浅草に出て、神谷バーの電気ブランで締めくくった。

 向島百花園の月見の会。優雅な横笛や琴が似合う文体で、丁寧に、しっかり描かれた作品だ。萩のトンネル、芭蕉の句、灯籠の点灯など、それぞれが作品を支え、盛り上げている。


山下 昌子   DNAか

                 

「私」は外出するとなると、子どもが翌日の時間割をそろえるように、バッグに必要なものを詰め込む。ハンドバッグは満杯なので、サイドバッグに押し込む。
『あれもいるかな、これもあると役に立つと、バッグは膨らむ』と前置きしてから、急な雨に備えた晴雨兼用傘、冷房を警戒した長袖の上着、冷房が効かなかったための扇子も。化粧ポーチ。胃腸薬、葛根湯、プロポリス、手作りの「びわの葉エキス」なども携える。

 これだけに収まらず、針と糸、バンドエイド、歯間ブラシなども。さらには免許証、銀行・デパートやスーパーのカード、とたたみ掛けてくる。
 手帳には予備の紙幣、地下鉄路線図、ポストイットと数え上げればきりがない。「備えあれば憂いなし」だ。

 さかのぼれば、「私」の娘時代、母から「あなたは無人島に住んでいるの?」と揶揄されたものだ。大きなバッグを持ち歩くのは、「おばさん現象」ではなく、若い頃からなのだ。

 孫と一緒に外出する約束があった。迎えに行くと、小さな身体に大きなバッグと小さなバッグを二つ持っている。バッグの中から絵本、ノート、鉛筆、色鉛筆、折り紙、ゲーム、携帯電話、お菓子、ぬいぐるみと玩具箱のように次々と出てきた。
 孫は減らす氣は全くない。外出先で重たくなると、「私」が持たされる。必死で減らすようにあれこ勧めてみたが、孫は応じなかった。

「駄目よ。DNAだから」の娘の一言で、「私」は何も言えなくなった。『そうか、隔世遺伝か』と。
 読者が思わず、くすっと笑いを洩らすような、ユーモアがある。日常の素材が上手に切り取られた作品だ。


高原 真  「教えること」は「楽しんだこと」

   

 高岡の病院で手術を受けた。東京には多くの医院がある。「なぜわざわざ富山県の高岡で?」と問われる。それは名医がいるからだ、と書き出す。
「私」は東京在住で、大学で教鞭をとる。授業は合格率の低い検定「受検講座一級」だ。

 2週間程度の予定が、合併症が出て手術が延期し、入院の見通しが約1か月となった。そこで学校には了解を得て、授業の代行を頼んだ。
 
 東京からは遠い富山だから、見舞い客はいないし、孤独を楽しんでいた。退院まじかの朝、突然、若い娘の見舞いを受けた。
「受検講座」が昨日終わったので、彼女は夜行バスで富山にけさ着いたという。実家の南砺市に行く途中で、立ち寄ってくれたのだ。受講者全員の「寄せ書き」を差し向けた。「私」はそれを手にし、「全員、試験に合格するといいね」と小一時間談笑した。

「私」は持参してきた教授資料をこっそりみた。彼女の日頃の成績は、検定の3教科のうち、1教科がひどく悪い。この弱点の教科についてアドバイスした。試験日まではあと一週間。どの程度成績が伸びるか。それが不安だったけれど。

 退院後、試験結果をみると、合格者は全国平均を少し上回った26%だった。そこには高岡の病院に見舞ってくれた、彼女の名前があった。爽快な気持ちになれた。見舞った彼女からのオーラで、教材作りの「やる気」をもらったのだ。

「的をえた教材」「勉強を促進させる仕組み」「学生の意欲」の三つがあれば検定に合格する。この三つの信念が語られていく。
 学校が「検定試験」の分野で文部科学大臣賞を貰ったことから、同講座を発展させようとする。学校側の意向が「私」の胸を打った。他方で、『潮時を感じて丁重に後期の授業は辞退した。係留していた小舟の綱を断った思いだ』と結ばれる。

 20代の女子学生とのやり取りは体験者でないと描けない。どんな検定試験か、明記されると、教材作りの7年間の努力と、教える妙味が一段と読者を引き込むだろう。それが悔やまれる点だ。


森田 多加子   風の盆


 9月の越中八尾『おわら風の盆』のツアーに、友人が誘ってくれた。その友人は『風の盆』が4回目だ。「私」と友人との申込み日が違っていたことから、別々のグループになった。

「私」は3人グループで、だれもが『風の盆』は初めてだった。心もとない。バスの車中で聞くガイドのアドバイスが唯一の頼り。
「風の盆は胡弓が水分に弱いので、小雨でも取りやめです」という。走るバスのワイパーは時々動いている。祈るような気持ちにさせられた。

「町流しは人気のない場所を選びます。観光に来たのに何も見られなかった、ということも起こります」と説明を受けた。町の人たちは観光客を歓迎していないらしい。
「私」は現地にくれば、必ず見られるものと思い込んでいたことから、意外な説明だった。

 八尾についたのは夕方で、雨はあがっていた。うす暗くなってきた街なかで、観光客は右往左往する。どこにいけば、町流しの幽玄な踊りが見られるのか。輪踊りを見るにはどうすればいいのか。

 9時くらいからが本番だという。「私」のグループはとにかく町を見てみよう、と歩きだした。『衣装を着けたお嬢さんが二人、幸先がいいぞと写真に撮る。小さなグループがあちこちで踊っている。しかし、TVで見たり、人に聞いた『風の盆』の雰囲気とは何か違う』と考える。旅籠宿が並ぶ町まで歩いてみた。

 大勢の人が道路の両端に座っている光景があった。町流しが来るらしい。人はだんだん増えてきた。1時間近くも我慢していた。だが、法被を着た子どもたちの行列だけだった。
『風の盆』という、頭に描いた踊りの列はとうとう来なかった。まわりのひとたちは引きあげて行く。「私」たち3人グループはがっかりして蕎麦屋に入った。畳の部屋だったので、足を撫で、腰を伸ばして休んでいた。

 3人グループはやがて見切りをつけて、集合時間の11時前にはバスにもどってきた。バスは無灯で無人。だれも帰っていない。
 やがて帰ってきた人は口々に、町流しに出会った、と興奮ぎみだ。「鏡町はすごかった」という。それは蕎麦屋で休んでいるさなかだったらしい。

「風の盆に来たのなら、ゆっくり夕飯なんかしちゃあ駄目ですよ。町流しは見られないですよ」という。何年も頭で美しく描いていた『風の盆』は、結局のところ蕎麦に負けて見られなかったのだ。
 ツアーへの期待と失望の落差。街なかを歩く徒労感ともに、しっかり描かれている作品だ。


濱崎 洋光   想い出 ―兄弟―


 郡山市の高台には、10歳年上だった長兄の墓石がある。次兄夫婦が墓所を手厚く見守ってくれている。

 昭和18年は大東亜戦争の真っ最中だ。長兄が三重県の明野陸軍飛行学校で学ぶ。戦闘機の操縦訓練中の身だった。
 当時は戦時色一色で、食料やあらゆる物資が欠乏状態だ。一般庶民にとって旅行など夢のまた夢。ところが、「私」が8歳で、国民学校(小学校)3年生の夏休みに、7歳年上の次兄と三重県に兄を訪ねることになったのだ。
『両親には子供たち3人が、顔を合わす最後の機会になるのでは、との予感があったのであろう。困難な汽車の乗車券を準備して、旅に出してくれたのだ』。

「私」と次兄は、郡山から満員列車を乗り継ぎ、名古屋駅を経由し、やっと宇治山田駅に着いた。
 出迎えてくれた長兄とともに、三人が揃って伊勢神宮を参拝した。『神殿に向かい日本の戦勝と戦地の兵隊さんの武運を祈り、深々と頭(こうべ)を垂れ、忠君愛国を誓った』。そのうえで、昼食の食堂に入った。品数は少なかった。当時としては珍しい「カルピス」、「かき氷」に「チキンライス」を注文した。「私」には体験したことのないご馳走だった。

 その夜は明野飛行学校兵舎に泊めてもらった。『兵舎内では、電灯を黒い布で覆った灯火管制の明かりの下で、兄から模型飛行機を使って空中戦訓練の模様や、演習で標的を狙い撃った記録写真など、戦闘機訓練の話に眠さを忘れ聞き入った』と3兄弟の様子が描かれている。「僕も大きくなったら大空へ羽撃(はばた)こう」と決意ものだ。

 翌朝、敷布には大きな地図が出来ていた。寝小便である。大失敗。優しい兄たちが甲斐甲斐しく、洗濯をしてくれた。恥ずかしく情けない出来事だった。これが生涯で最後の寝小便と記憶に残る。

 近鉄山田線・明野駅まで長兄が見送ってくれた。電車がホームを離れ、お互い姿の見えなくなるまで手を振り合い、別れを惜しむ。これが最後だった。長兄は南方へ出征し、現インドネシア領モロタイ島の敵飛行場攻撃で散華した。享年20才。いまは郷里の郡山の大地へ還り、山々に囲まれた自然の中に静かに眠る。

 次兄は強運だった。昭和20年8月に満州へ向かう。舞鶴の出航時と釜山入港時、ソ連機の空襲を受けた船舶が二度も撃沈された。九死に一生を得た。次兄はいまも長兄の墓を守る。

 戦時中の「兄弟愛」がしっかり描かれた作品だ。戦争で兄を失った悲しみがわきあがる。と同時に、家族の心の痛みが伝わってくる。


吉田 年男   苦手意識


 杉並法務局に行った帰り、荻窪駅ビルのバックスコーヒー店に立ち寄った。日差しの強い表通りから、一気に涼しく、薄暗い店内に入ったことから落ち着いた気分になれた。
 店内は若い人が多く、騒がしかった。隣の席では、女子高生3人が携帯電話を操作し、大声でしゃべっている。雑然とした雰囲気のなかでも、読書に集中する青年がいた。物静かな振る舞いだった。

「私」法務局から取り寄せた測量図に目を通す。他方で、青年の存在が気になった。何度も視線をむけた。青年は一心不乱に活字を追う。テーブルには分厚い本を置く。何を読んでいるのか、と「私」は気になる。
 青年は辞書をひきながら、指で文字を横に追う。洋書を読んでいたのだ。

「私」の脳裏には、横文字が大の苦手だった、学生時代がよみがえった。第二外国語は初めから放棄。単位取得のために、必須の英語だけに絞った。試験すらも一夜漬けだ。

 新しい技術、異文化を吸収するには、外国語は必修だ。そうとわかっていても、本気で外国語をやる気にはなれなかった。
『本当の自分探しは、日本のよき伝統、文化にそのルーツを見定め、在外はそのキッカケを提供するに過ぎないと思っていた。それが苦手意識になったのかも知れない』と結んでいる。

 コーヒー店の騒々しさ。そのなかで洋書を読む青年の姿から、外国語が苦手だった学生時代にさかのぼっていく。展開のよさが光る作品だ。


塩地 薫   平和百人一首原画展

    


 63年目の終戦記念日に、稲城市中央図書館に出かけた。館内で「平和百人一首原画展」が開かれていた。
『一首ごとに、右に短歌、左に挿絵が描かれた百枚が、会場の壁面に並んでいる。一首ずつ観ていくうちに、名古屋で戦災し、福岡の炭鉱に移って、何とか生き延びた、終戦前後の異常な感覚が甦ってきた』と、戦時の恐怖の体験に入っていく。

 昭和19年末から、米軍のB29による名古屋への空襲がくり返された。『昼は爆弾、夜は焼夷弾。反撃のすべもなく、ただ「ものおぢ」しているだけだった』という。恐怖の中から生きながらえた今、平凡な日常生活が何と和やかで、幸せなものか、と思うのだ。

 戦災者の「私」には、戦場からの帰還兵と共通の感覚で理解できる。『テレビで見る戦争では、戦争の悲惨さは実感できない。戦争をしてはならない。その思いを機会あるごとに語り残したいと思う』と、後世に目を向けている。

 終戦の翌年11月3日、戦争放棄の新憲法が公布された。記念事業の一つとして、平和の鐘楼建立会が「平和百人一首」を募集した。主催者は60年の歳月を経て、国会図書館などから、応募作品2万3720首から、入選100首を探し出した。
「百のうた千の想い 甦る平和百人一首」として編集しされていた。画家の稲田善樹さんが100枚の絵を描いた。その原画展だった。

「私」は会場で、稲田さんと「戦争と平和」について語った。彼は十歳ほど若いが話も通じ合った。明日から、広島平和記念資料館の『サダコと折鶴』の展示。24日には、『平和を語り継ぐ三世代のつどい』があると誘われた。
 それらの集いにm参加した。活動家たちの姿、それに対する「私」の思いが語られていくのだ。

 空襲の被災者体験がベースとして、戦争を憎み、平和を望む、熱い気持ちが語られていく作品だ。


奥田 和美   オーバーブッキング


 高校時代の同級生たち3人による還暦記念旅行のエピソードだ。3人はスイス・マッターホルンの麓にあるツエルマットの町についた。ホテルにチェックインする前に、3人はゴルナグラート展望台で、マッターホルンの雄大な景色に見入る。日本語のアナウンスもあった。スイスにきた実感を味わう。

 白人の親子がセントバーナード犬と記念撮影をしている。「私」はそれを横からパチリと撮る。登山列車を一駅下り、ハイキングを楽しむ。青い空、そそり立つ山々、可愛い花、バッタや蝶、マッターホルンを逆さに映す湖など、どれも期待通りだった。

 4つ星ホテルを2泊で予約していた。到着したフロントで、日本で作成した予約票をだす。係りの人がオーバーブッキング(重複予約)になっている、という。
(エーッ こんなことって本当にあるのー。どうしよう)
 3人は狼狽する。
「お客様を野宿させられない。他のホテルをご案内します」と、「私」の英語力では、そう理解できた。他方で、予約票の緊急連絡先に電話を入れたところ、日本語で話ができた。
「移ったホテルが格下げだったり、不便な場所だったりしたら、ご連絡下さい」という。

 タクシーに乗せられた。「私」たち3人のほかに、白人の初老カップルも同乗する。初老夫妻は駅に近いホテルで降ろされた。「私」たち三人はもう少し先のホテルに送り込まれた。

 フロントでは要領を得ない。二階から黒服の日本人女性が降りてきた。旅行会社の添乗員でドイツ語がわかる。「私」たちは事情を話した。
 このホテルではなく、先刻の初老のカップルが降りたホテルだという。そのうえで、「シュバイツアー・ホフですって。一番いいホテルですよ」と教えてくれた。不安な心が解消された。

 部屋は素晴らしかった。窓を開けると、マッターホルンが見える。駅は近い。直ぐ前は中心街だ。これなら文句ない。翌日には、オーバーブッキングをしたホテルからワインとチョコレートが届いた。「終わり良ければすべて良し」と結ぶ。

 海外旅行先のアクシデントの遭遇を描く。読者までも、暗澹たる気持ちで、どうなるのか、と不安に陥る。同時に、読者を強く引き込む作品だ。


和田 譲次  病気の恩恵

                    
 退院から半年後、「私」の体力は良い方に向かっている。
 入院中はガンに対する不安感、焦燥感、家族や周囲に迷惑をかけた自己嫌悪など、いろいろな不快な感情にさいなまれていた。さらには今年中の計画や行動がすべてご破算になった、という被害者意識を持っていた。

 退院後、自家に戻った。「待てよ、病気になったおかげで、何か得をしたこともあるのでは」と考えてみた。
『スケジュールに縛られない生活。予定が真っ白な手帳を前にすると、自分のペースで過ごせると心が安らいだ。好きなときに、好きなだけ聴きたい音楽に接し、読みたい本も読める。メールも受信中心で、こちらからは気が向かないと発信しない。通常の生活では味わえない、わがままな生活だ』と考えた。
マイナス思考を断ち切ったことから、精神的な面、心の状態が大きく変化してきた。

 役所やマネジメント関連の諸団体の専門委員やプロジェクトメンバーに任命されていた。辞めたくても「あと一年お願いします」といわれ続けてきた。ガン手術を受けると伝えると、辞任を了解してくれた。ガンは水戸黄門の印籠のような効き目がある。

 死に対する恐怖にエネルギーを使うよりも、生きることにそれを使う。それが大切だと悟った。
 経済的な面では、健保組合の高額医療費補助制度と入院保険で、クルーズの旅に出かけられる金額が残った。

 がんに罹った体験から、家族や友人達の優しさや、いたわりの心が芯から感じとれた。入院中は鬱状態になりかかっていたが、家内の励まし、心ずかいから、私自身を取り戻すこともできた。

 本音が赤裸々に書かれたガン体験記だ。術後から自分を見つめる姿勢が光っている。『病苦から抜け出す方法』としても参考になる作品だ。


黒田 謙治   我が家の番犬 黒平(くろべい)


 散歩中に出会う犬が、「私」にはどれも同じ姿かたちに見える。カタログから抜け出した犬が歩いているようだ。秋田犬とか柴犬とかの和名ではなく、横文字だから、犬の種類は何度聞いても忘れてしまう。

 妻が生後一ケ月くらい雑種の仔犬をもらってきた。小学生の息子たちが毎日、仔犬を連れだし、家の前で「チビ! チビ!」と呼びながら走り回っていた。
 数日後、近所から苦情があった。
「チビ、チビと呼ばないでください。うちの犬の名前も同じなので、チビと呼ばれると、外へ出たがるのです」とお叱りを受けた。

 チビは普通名詞だが、優先権でもあるとでも思っているらしい。そのうえ、「クロヘイちゃんにしたら」と推奨を受けたのだ。「私」の息子の名が3人とも下に「平」がつく。
「腹が立ったり、ムカムカしたりした」
 それがいつの間にか「クロヘイ」が「クロベー」となり、体長も1メートルほどに成長した。

 庭に犬小屋を作って、番犬として育てた。「私」が丹精を込めて作り上げた、庭の芝生は無残にも丸坊主にされてしまった。
 犬小屋の前に、雀の死体が並んでいた。クロベーは誇らしげに「私」を見上げている。「どうだ。オレは敏捷だろう」と言いたいのだ。「分かった。分かった」と頭を軽く叩いてやった。「私」に一度、敏捷さを認めさせたら、その後は雀が犬の餌の残りを食べに来ても、腹ばいになったまま、じっと眺めている。

 夫婦が散歩中に妻が遅れると、クロベーは何度も振り向き、妻の姿を確認する。曲がり角などで妻の姿が見えなくなると、前進することすら拒否した。

 クロベーが「私」をどう見ているのか。犬の紐を妻に託して、陰に隠れてみた。クロベーは私を探すこともせず、尻尾を振って妻とどんどん先に行ってしまう。
「この野郎!」叫びたくなった。
 クロベーは5年前に、心臓に虫が涌いて死んだ。火葬に付し、骨壷を四十九日間、床の間に置いて供養した。そして、庭の「雀の墓」の隣に埋め、小枝を墓標代わりにしてやった。

 クロベーとの関わりにはつねにユーモアがある。読者の興味をかき立てるエッセイだ。


中村 誠   梅干し


 わが家の食卓には、びん詰めの梅干が置かれている。家内に言わせると、健康に良いらしい。美容に良いのかも知れない。「私」は時たま食べるが、けしてうまいとは思っていない。

 11歳の孫娘は、家内と同じように梅干をうまそうにたべる。ほかの4人の孫はいっさい手をつけない。家内の好みが年長の孫娘に現れたのかなと思う。

 60余年程まえ、戦後の疎開先のまま、伊豆伊東の祖母の家に住んでいた。「私」が小学2年生の頃だった。炎天下で、姐さんかぶりの祖母から、「お手伝いをして」と頼まれた。
『壷に漬け込んである梅を一つ一つとりだして、いっしょに入れた赤紫蘇の葉も、張り板に並べ日干しにする』という梅干し作業だ。『夕方には取り込み、また天気のよい日に取り出して、二,三日充分に日干しをして壷に戻す』。作業内容が詳細に描かれている。

 この梅干が一年間、毎日食卓に並び、貴重な食材となっていた。

 このごろの「私」には苦い経験があるのだ。食物のない時代だから、未熟で酸味が強い青梅を食べたのだ。晩方には激しい腹痛に襲われた。母親や兄から、口にするな、といわれていたが、誘惑に負けた。その罰が当たったのだ。それ以来、青梅を口にすることはない。

「梅干」という素材から、人生の一コマを取り出して見せる。そのうえで、祖母から孫娘まで、「血筋」という一本の線で結ばれている。テーマがはっきりした作品だ。

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