A020-小説家

第24回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 30分間レクチャーでは、「味のある文章の書き方」を取り上げた。日常些事なできごとでも、味のある文章ならば、上質のエッセイが生まれる。それには月並みな表現から一歩踏み出し、工夫した文章、シャレた文章を挿入することである。

 読者側に立てば、「この一行、この文章は考えられているな」と思わせることである。それが強い印象に結びつく。

 5項目を意識すれば、作品の奥行きや幅の拡がりにつながっていく。
  ①直説法のみでなく、間接法で表現してみる
  ②1、2ヶ所は倒置法を入れてみる
  ③動植物には、擬人法を取り入れてみる。  
  ④比喩は他人が使っていないものを使う。
  ⑤自然描写では、一つセンテンスのなかに類似したものを並べる
  受講生が実際に①~⑤を文章に落とし込むために、『演習問題』を課した。

 今月のエッセイ提出作品には、日常些事なできごと、動物を素材にしたものが多かった。人生では、途轍もなく大きな出来事に遭遇する。それが毎回エッセイの材料になるほど、豊富ではないはずだ。
 人生とは日常の積み重ねだ。日々の小さな話題、出来事を上手に仕上げられる。磨かれたエッセイとして書ける能力。それがエッセイの力量を判断する一つになる。

 14作品を読んでみると、磨かれたエッセイの方向に確実に進んでいる。また、一段あがったな。それを感じさせる作品が多いので、指導者としてはうれしいかぎりだ。

和田 譲次  フランダースの犬

                     
 M君は夫婦そろって犬好きである。酒好き、クラシック音楽は大好き人間。M君は、「私」と学校も同窓で、歳は一回りほどちがう。人事部門の要職にあった。難しい人事案件で話がこじれて、2人がギクシャクすると、犬の話がでてきてムードが和らぐ。そんな会社の親しい間柄だった。

 M君がベルギーの勤務を命ぜられた。彼を悩ませたのは、老犬をどうするかであった。海外の環境の変化にはついていけないと判断し、実家に預けた。そして、現地に赴任した。

 欧米の人達には犬好きが多い。犬は家族同様に扱われ、一緒に旅行もするし、買い物、食事の場にも連れて行く。彼は犬を見るたびに無性に犬を飼いたくなるのだ。
 他方で、M君には初めての海外勤務でストレスがたまる。癒してくれるのは犬だ。それに気づいた。生後三ヶ月のゴールデンリトリバーを手に入れた。

 数日後には近所のひとから、犬を訓練所に預け、しつけをしなさいと、注意を受けた。訓練所に預けた犬が、一週間後に元気に戻ってきた。「お手、お座り、待て」などが難解なフラマン語で躾けられたのだ。
 夫妻はフラマン語に仮名をふって、犬に呼びかける。発音がかなり違っていたようだ。犬はポカンとしていて、何の反応も示さない。隣家の子供に来てもらい、犬に指示書のとおりに声をかけてもらうと、一つひとつ犬は敏速に行動する。

 5年後、M夫妻はその犬を連れて帰国した。犬は日本の風土にすぐになじんだが、「お手、お座り」など簡単な日本語すら覚えようとはしない。フランダースの犬はフラマン語に誇りを持っているのだろう、と結末に導く。

 作者には海外赴任の経験が豊かなので、M君夫妻の心理をうまく描ききっている。作品には随所にユーモアがあり、犬の誇り高き姿勢が作品を上質なものにしている。


中澤 映子  「母娘再会」 動物歳時記15


 4月2日は、アイ(犬)が産んだ4人の娘たち(仔犬)のお誕生日だ。娘の飼主のひとり浅見さんご夫妻が、シドちゃん(娘)を連れてわが家を訪ねてくることになった。

 母犬のアイはこの冬、耳たぶに水がたまる「耳血腫」を病み、通院していた。命に別状はなく、いまは治癒して元気に飛びまわる。元気を取り戻してから、誕生日の母娘(おやこ)対面となったのだ。

 娘のシドちゃんの飼主の浅見さんご夫妻は地元に住む。「今日はアイちゃんに逢いに行くからね」というと、仔犬は言葉がわかるらしく、母親に逢いたい一心で、リードのひもを引っ張って、我が家に向かって突進してきたという。
 成長したシドちゃんは、母親のアイより大きい。しかし、母を見るや、静かになった。母犬のアイは、シドちゃんの尻のニオイをかいでいた。わが娘だと確認したらしい。母娘(おやこ)対面の儀式はおわった。嬉々として戯れていた。

 母子の再会の翌日から、アイは娘のことはもう忘れたのか、何事もなかったように、日々の暮らしにもどった。
 アイの平穏な日々を語る。アイは雷が大嫌いだ。稲妻が光ると、次なる雷を察して、「私」たちがいるダイニングルームに逃避してきた。食卓の下にもぐりこんで「伏せ」の姿勢で小さくなっている。こうした微笑ましいエピソードが、「私」の生活に溶け込んでいるのだ。

 作者は擬人法で、エピソードを展開させる。同時に、犬の習性などの注釈や説明を入れてくれるので、わかりやすい。犬の母子の情愛が上手に描かれた作品だ。動物も、人間も、母子愛はおなじ。それがこの作品の主題となっている。


森田 多加子   真夏の格闘


 どんな格闘がはじまるのか。そんな期待を持つ書き出しだ。ベランダ側のシャッターボックスには、得体の知れない小動物が棲みついていた。最初の発見は、ドアの敷居に落ちていた黒色の米粒大の糞だった。

「私」はいろいろな鳥が来て糞をしていくのか、まあ仕方がないか、と掃除をしていた。『2、3日たって、また同じものを見つけた』。それがくり返された。
 夫の協力を仰ぐ。日ごろは使わないシャッターを下ろす。動かした途端に、蝙蝠が落ちてきたのだ。そして、飛んでいった。

 次の日になると、蝙蝠がちゃんと戻ってきた。その証の糞が落ちていたのだ。蝙蝠は逃げたのではなく、シャッターボックスに棲み着たままなのだ。『家主の許可もなく、家賃も払わずに住み着くのはもってのほかだ』。糞害を見るほどに、「私」は憤慨した。絶対、この軒先を貸すわけにはいかないのだ。

 ネットで調べると、蝙蝠は静かなところが好きらしい。音で攻撃するが、効き目はない。箒で軒先を叩いても、出てこない。動物愛護を承知しながらも、「私」はだんだん腹も立ってきて殺虫剤をふきこんでみた。効果なし。時々シャッターを下ろすが、もう落ちてこない。糞だけは毎日きちんと落ちている。
作者の日々の敵意がとてもよく伝わってくる。

 娘が来た。何をしているの? と聞かれた。「蝙蝠追い出し作戦」を説明した。「あら、かわいそう。ハムスターみたいに、可愛いのに」と糞害を知らないから、動物愛を語る。

 糞をみなくなったのは2年間の格闘の末だった。しかし、戦いはこれで終わらなかった。1週間ほど家を空けて帰ってくると、『あのナツカシイも、腹だたしい糞が落ちているではないか。また、あの格闘が始まるのか。ああ蝙蝠め』とエンドレスの、余韻のある結末へと運ばれていく。

 遠くで見れば愛らしい小動物も、棲みつかれると糞害に悩まされる。この実態が描かれた、切り口の良い作品だ。蝙蝠との格闘と敵意がしっかり描かれている。


青山貴文   銭運び

                            

 昭和の半ばの『立川競輪場』が舞台だ。大学生のアルバイトの目で、裏舞台から、観客や働く人たちが描かれている。二浪したあと、私大に入学した。父親は失業後に再就職した身で、家から小遣い銭はもらえなかった。週二軒の家庭教師をはじめた。さらにはじめたのが、競輪場のバイトだった。

「私」が住む町には当時、日曜日は競輪が開催されていた。母親が競輪場の券売り場で働いていた。そのお蔭でありつけた、百円硬貨運びのアルバイトだった。家庭教師の1ヶ月分の給料を1日で稼げるほど、アルバイト料が高かった。

 立川競輪場の3棟並んだ券売場の情景が細かく説明される。いまとなれば、貴重な証言だ。『木の椅子に腰かけたおばさんたちが、冬は毛布に包まれて券を売っていた。暑い夏は、当時クーラーなどなく、扇風機の生暖かい風の中、うちわを頼りに券を売っていた』。その人数は約40人。昭和の時代がよみがえる、タッチで描かれている。

 レース毎に、券売り場の窓口には観客が殺到する。膨大な百円硬貨が各建屋に集まる。それらの硬貨を麻袋にいれ、数人の学生アルバイターが事務棟に運ぶのだ。地下道を運ぶときは問題ない。途中、50メートルは群衆の中を歩かなければならない。

 当時の世情は不景気で、山陽特殊鋼など大型倒産が頻発していた。よからぬことを考える輩がたくさんいた。制服の警察官や私服刑事が場内に入り込んで見張っていた。

 こういった群衆の中で銭運びするのだから、物々しい警護が行われていたけれど、危険度は高い。アルバイトの学生f麻袋を肩に担ぐ。一人を前後、左右、4人の警察官が警護する。『これはすごく危険ではあったが、警護つきのエキサイティングなアルバイトであった』と作者は回顧するのだ。

 いまや昭和時代が懐かしまれる。貴重なバイトの実体験が、丁寧に描かれて残されていく。価値のある作品だ。


中村 誠   人もかなわぬ花芙蓉


 8月7日は酷暑だ。暦では立秋だが、蝉は前日とおなじ暑さを叫んでいる。青空一杯の快晴だが、富士の頂上は雲で覆われてみえない。手前に連なる丹沢の山々は青空にくっきりと望める。こうした自宅の窓から見た、夏の光景が描かれている。

 自宅の門より一歩でると、向かいの主人が、わが家の前まで、散った芙蓉の花殻を掃き集めている。高さが約3メートルの芙蓉が石垣と道路との狭い空間で器用に根をつけている。花数だけでも二十以上も咲き、今が盛りだ。これから九月半ばまで咲き続けることだろう。

「私」は、隣家の開花した淡いピンクの花を見ながら、「お宅の芙蓉、見事に咲いて楽しみですね」という挨拶を向けた。主人はにこにことご機嫌顔で、「順調に育ち、蕾も多く、これからも楽しめますよ」という。
家内にこれらを話すと、「毎朝、家の前をきれいに掃いてくださるし、申しわけないわ」という。「私」はこれらを俳句に読む。

《 楚々とした人もかなわぬ花芙蓉 》

 家内の評価としては素っ気ないものだった。『最近、俳句はちょっとご無沙汰で自信もない。一句出来たと納得し、次の句会に出して仲間の評価を聞いてみよう』と決めた。念のため歳時記を開くと、季語は秋だった。ちょうど立秋の日に詠んだものだけに、納得できたのだ。

 『わが家の近辺で四季の変化をテーマとして、俳句やエッセイが出来れば内容はともかく、良しとしている』と結末に導く。
 芙蓉の花描写や風景が絵をみるように書かれている。
 日常の小さなエピソードが、かぎられた登場人物をもって丹念に運ばれていく、味わいの良い作品だ。


二上 薆   歌は世につれ 世は歌につれ

  


「私」はわが家で一人、友人がプレゼントしてくれたCDを静かに聞くのだ。曲名は分らない。過去には耳にした歌が多い。『歌手は男女こもごも明るく歌っている。しみじみと心にしみる寂しさがわいて、涙ぐむこともあった』

 わが家には昔の蓄音機があった。それは犬がラッパに耳を傾けている図で有名なものだ。しかし、それを聴いた記憶はない。『音楽といえば、古い大きなオルガンに長姉がしばしば弾いてくれた「グレースダーリング・燈台守の歌」が強く心に残っている』という。

 昭和元年生まれの「私」は、青春歌年鑑『昭和の歌』のCDを年代別に聴きながら、昭和の初期から不幸な敗戦まで、たどるのだ。作中では、約5年ごとに、「私」の想いと世相が語られていく。

 昭和3年~8年はレコード歌曲スタートから、歌謡曲の隆盛期である。バラエティー豊かで、活気に溢れている。もの悲しさは少ない。

 昭和9年~12年、寂しさがみなぎり、思わず涙を催すような思いだ。当時は支那大陸に戦端が開かれた。表向きは平和でも当時の鬱積した国情が重なっているのかも知れない。

 昭和13年~14年、沢山の曲が作られている。今日にも歌われる著名なものも多い。「私」が中学校に進むときだったから、記憶に残る歌も出てくる。

 昭和15年~20年、激しい戦いのさなかに、こんなにも叙情豊かな歌、哀歓に満ちた多くの歌があったのか、とおどろいた。同時に、戦意高揚の言葉があっても、むしろ寂しさをあらわにする歌曲が多い、という発見につながっていた。

『戦後はGHQの指示で、歌詞が大幅に改められた』と、歌謡という文化は世相を反映しているのに、後の政治で改ざんされている、と紹介される。

 友人がくれた年鑑CDには、『昔のままの歌が、昔の歌い手とともに残っている』のだ。それは改ざんまえの貴重な歌詞だと知るのだ。
 作者の視線で、音楽CDから、昭和史の断面を鋭く切って見せてくれる。他方で、メロディーや歌詞には、世情の貴重な情報があると教えてくれる作品だ。


上田 恭子   つばめの恩返し

  

        
 つばめが車庫の天井近くに巣をつくった。エンジンの音がうるさいはずなのに、『なんてお馬鹿さんなつばめだろう』と「私」は侮っていた。やがて、ピィピィと鳴き声が聞こえ、小さな頭が4つ見えた。「私」の目はそちらに引き付けられた。夫を呼び寄せる。そして、孵化にたいする夫婦の興奮が描かれていく。
親鳥が電線に止まり、心配そうに、ピィッと鋭い鳴き声をあげている。『きっとお母さんのつばめが、監視をしているのだろう』と、「私」は見上げている。

 つばめの巣はトイレの窓の正面からははっきり見える。「私」は用がなくてもトイレに入る。『親が餌さをくわえて来て、子つばめの大きく開いた口に入れる』。その光景を飽かずに見つめる日がつづいていく。
『何日かして、窓から覗くと、一羽もいない。巣立った』と興奮する。前の電線に子つばめが止まっていた。そして、西の空へ飛び立っていった。『また、帰って来てね。わが子を嫁に出す親の心境ってこんなものか』という心境に及ぶ。
 作者の素朴な情感が書かれている。

 7月の終わりだった。車庫で何気なく巣を見たら、ちいさなつばめの頭が見えた。『えっ? 二度も卵を生むのだろうか?』とおどろく。「私」はまたトイレに通う回数が増えた。『二階のベランダで洗濯物を干している時は、よく傍の電線の上に乗った親つばめがピィと鳴いているのと目が合った』とつねにつばめを意識している「私」を知るのだ。

 ある日、子つばめが道端に落ちていた。「私」たち夫婦は脚立を使って、巣の中に戻してやった。『落ちた子つばめを、親つばめは助けられない』と聞く。果たしてどうなるのか。ともかく、カラスに食べられないうちに見つけてよかった。その落ちた子つばめも無事に成育していくのだ。そして、立派に巣立った。『ほっとしたけれど、なんとも寂しくなった』と心情が述べられている。

 作者は燕の巣作り後から、二度も、子を産む生体をしっかりした観察力で描いている。他方で、小さな生物と、人間の係わり合いが情感豊かに伝わってくる、という作品に仕上げている。


黒田謙治   息子が痴漢で逮捕


 朝の10時過ぎに、居間の電話が鳴った。「私」はどうせ妻の長電話の相手であろうと、受話器を取った。『「こちらは、新宿鉄道警察隊です。お宅の息子さんを、けさ9時過ぎに、電車内の痴漢の現行犯で逮捕しました」と男の声が受話器一杯にひびいた。
 この書き出しから、作品には一気に引き込まれていく。

 絶句した「私」は、俺の息子に限って、何かの間違いだろう、と信じて押し返そうとした。「本人は、最初は否定していましたが、先ほど自分がやったと、やっと認めました。今は興奮して、泣いています」といわれると、「私」の頭の中は、あれこれ不幸な想いが駆け巡るのだ。

 息子は会社を辞めざるを得ないだろう。妻子はどうなるのか。日吉にマンションを購入したばかり。嫁はこんなバカ息子と結婚したことを悔やむだろう。『ウソであって欲しい。この私が代われるものなら、代わってやりたい』と心が重く暗くなっていくばかりだ。
 この心理描写が絶妙に書き込まれている。

「電話を息子さんと替わりましょう」息子はただ泣きじゃくっているばかり。問い掛けには「お父さん、ごめん」と言うばかりで、会話にはならない。

 ふたたび警察隊の男に替わり、検察庁への書類の作成に必要だといい、「私」と妻の氏名と生年月日を尋ねてきた。応えながら何となく、違和感をおぼえた。漢字の書き方の質問がないことから、振込み詐欺だと見破っていくのだ。他方で、先方の電話番号と名前を聞き出した。

『息子の携帯に電話してみよう。でも、本当に新宿の鉄道警察隊にいたら、どうしよう』と心が揺れるのだ。息子は会社にいた。『息子の声を聞いて、地獄から極楽へ登ったような、嬉しい一声だった』と心情を述べる。

 経緯を息子に話し終えると、「気をつけてよ。その手の詐欺が流行っているんだから」と逆に注意を受けた。それには内心、不満であった。帰宅した妻に、警察の電話を偽電話と見破った、と誇らしげに話す。「もう少しでお金を取られるところだったのね。気をつけてよ」という妻の一言も不満をおぼえるのだ。

 この作品は、唐突な詐欺電話がかかってきたときから、解決まで、一気に読ませる。体験が克明に書かれており、。緊張感と心理描写に、奥行きがある。圧巻だ。


高原 真   蜂


『痛い!左の耳たぶを蜂に刺された。巣にいた蜂たちは一斉に舞い上がる。急いで部屋に駆け込み、戸を閉めた。耳たぶは急に腫れだした。洗濯物を干そうとして、うっかり蜂の巣を触ってしまったのだ』書き出しから、緊張感が伝わってくる。

 蜂は体長2センチほどで、体の幅は五ミリぐらい。ふだん危害はない。毎年、春の終り頃から、去っていくまで、その生体をみている。
 一匹の蜂が巣の材料を運んできて、巧みに正六角形の柱状を一つ一つ積み重ねていく。おおよそ直径五、六センチほどで完成する。最盛期には20匹ほどが群れる。場所は毎年必ずしも同じではない。勤勉な蜂は、見ていて楽しいものだ、と静かな観察の関わりがあったのだ。

 夏の終り頃、洗濯物を干しにベランダにでた。蜂が、巣の周辺で狂ったように乱舞している。大蜂が巣の幼虫を襲っていた。体長は約3センチで、わが家の蜂と比べたら5、6倍ある。『すずめばち』で獰猛で肉食だ。大蜂が悠然と居座る。わが家の蜂軍団が刃向かう。噛まれるのか、またたくまにうち落とされる。大蜂は貪欲に巣の幼虫を食べている。
 緊迫感がある、蜂どうしの戦いが描かれている。

「私」は叩いてやろうと思った。しかし、助けようとする「私」を襲ってくるかもしれない。見殺しは気の毒だが、戸を閉めて部屋に逃れた。
 戦いが終わると、『無惨にも蜂たちの残骸がこぼれていた。ナチスに大量殺戮され、やせ細った裸のムクロの山にも似てあわれだった』。すざましい昆虫の争いは初めて見た「私」は空念仏を唱えながら、残骸と空家の巣をきれいにした。

 今年は、人の肩の高さあたりに巣を作った。ただ、場所が悪かった。壁面には輪状の洗濯ハンガーが重ねて掛けていた。「私」がそれを取るときに、ハンガーが巣に触れてしまったのだ。猛攻されて耳たぶを刺されたのだ。
 まだ蜂の活動期だ。刺されると憎くなる。恐怖も芽生える。保健所に駆除の依頼をする。業者は大型殺虫剤の噴霧器で、蜂を殺した。噴霧は数分で終わった。
 蜂への愛が殺意に変わったのだ。そこに「人間」を感じさせる。

『今年は自衛のためだ。いたしかたなかったのだ。耳たぶはまだ腫れて痛い。もう刺される心配はないが、ふと「来年もまた巣づくりに来てくれるだろうか」と妙な期待がよぎった』という良い結末に結びついている。
 緊迫感に満ちた作品で、一気に読ませてしまう。蜂の生態とか、残酷さが見事なまでに描かれている、完成度の高い作品だ。


吉田 年男   短い会話


 家庭用コピー機の故障から、代替品を買うまで、「私」の心理を追う。妻から「コピーが出来ないから、来て」と声がかかった。カタカタカタと異常音がする。液晶パネルを見、操作ボタンを押すが全く応答しない。電源スイッチのオン、オフを繰り返したり、コンセントを抜いたりするが、動作不能は変わらない。

『我が家のプリンターは、FAX機能もついているので、電源はいつも入れっぱなしなのである。四年も使っているので、この暑さで壊れたか』

 そう判断した。「私」はできる事なら部品の交換くらいで直したい。出費は最小限に抑えたいと考えていた。メーカーに直接電話をかけながら、ある種のやり取りを予測をした。プリンターの交換部品がないといい、最新機が勧められるというものだ。技術担当者につながった。代替品のことは一言もいわない。
『顔は見えないが、顧客へ向いた姿勢がなんとも頼もしく、温かい対応で好感がもてた』

 技術者はこちらの気持ちになって、親身に対応してくれる。プリンターは、修理できないことが判った。短い会話であったが、普段はあまり気に留めていなかったが、相手を思う会話をあらためて考えさせられたのだ。

 技術者の好印象から、「私」は同社の価格の安い製品にきめたのだ。作者が技術屋(理系)だけに、冷静に「私」の心理を追う。安定感がある作品だ。


山下 昌子   いとこの再会

                         
 昭和九年、東京で商売をする祖父は、日本の大学で学ぶ朝鮮の青年を預かった。自家には年頃の娘が居た。『色白のきれいな娘だったが、体が弱かったので、25歳になってもまだ結婚していなかった。若い男性と女性が同じ屋根の下で暮らすことになった。二人は、恋に落ちて結婚した。』と書き出す。

 二人は京城(現在のソウル)で新生活を始めた。母親として、3人の女の子を産んだ。結核になった母親は日本の親元で静養することになった。

 朝鮮人の姑が初孫を手放さなかった。長女を京城に残し、母親は二人の娘だけを連れて親元に帰った。しかし、病死したことから、次女、三女は日本で育てられることになったのだ。

 戦争は終わると、日本と朝鮮の国交は断絶して、家族の行き来が出来なくなった。三姉妹は二つの国に分かれてしまった。手紙を出すこともままならなかった。そのうえ、南北朝鮮戦争が起こった。
7歳だった「私」この日本で育つ二人のいとこと、十数年いっしょに暮らしてきた。
 3姉妹は二つの国で分れ、会う機会もつくれなかった。

『昭和40年、私の夫が駐在員として一年間ソウルに行くことになった。まだ日韓国交回復の前だった。家族を同行できないばかりか、仕事でソウルを離れると、監視の人に尾行され、自由な行動も取れない時代だった』と厳しい社会情勢で、3姉妹の再会の労は取れなかった。

 8年後、夫が再びソウルに、家族と共に駐在することになった。ここでチャンスが巡ってきた。長女は結婚した韓国人の夫とともに、「私」の家に来た。3姉妹の再会スケジュールを打ち合わせた。

 コスモスが咲く頃、ソウル金浦空港で、3姉妹は再会したのだ。『面影もない、思い出もない3人だったが、姉妹の血は争えない。長年の思いが一気にこみ上げてきて、しっかりと抱き合い、涙々の再会だった』と状況を記す。
 その後も、3姉妹の交流がつづく。言語の壁から、日本語が分からない長女は、つねにふたりの妹を潤んだ目で見ているのだ。

 国境を越えた愛とか、民族のちがう夫婦と姑の関係とか、その子どもの3姉妹の数奇な運命が展開されていく、ドラマチックな作品だ。祖父母の伝聞や、作者自身の再会への労から、作品がくわしく書き進められている。3姉妹に名まえがあれば、読み手が楽になった。


藤田 賢吾   伝わらない感動


 ウィーンのツアー参加者は、特別の装いでオペラ座に向かった。本場のオペラ、しかもモーツァルトの「魔笛」だ。歌っている言葉はドイツ語だ。
『座席の背板に英語でセリフが出ている。それを読んでいると、劇が見られない。なかなか理解できない』。華々しいオペラであったが、言葉は感動を支える重要な役割だと思い知らされた。

 元高校教師のA子さんはドイツ人と結婚している。ドイツ在住だが、帰国してコンサートを開く。藤沢の小さなホールで、知人、友人、昔の生徒たちを招いて、留学の成果を披露する、という。
「私」はハンブルグで、彼女の結婚披露宴に列席した。彼女がドイツ音楽すらも日本語で歌ったり、新郎新婦のデュエットもあり、楽しかった。それだけに期待して、藤沢コンサートだった。

 彼女が歌った曲は、すべてドイツ語だ。パンフレットには、悲しい曲だ、と解説されている。『なぜ悲しいのか、なんと言って悲しんでいるのか、全くわからない。彼女の表情は、涙を流さんばかりだったが、こちらにその悲しさが、なかなか伝わってこないのだ』
 A子さんに問えば、日本語訳は殆どないらしい。

 姉が書道を習う。その発表会に顔を出した。筆の漢字が読めず、「この作品には、どんなことが書いてあるの?」と聞くと、姉も、「えーと、何だっけな」と書いた本人もよく覚えていない。書の漢字は意志を伝える道具のはずだが、どうして、こんなにわかり難く書くのだろうか。読めないと理解もできず、その内容に感動することもできない。

 わが家の宝物に額装した書がある。大きさは一畳ほどだ。書の内容は理解できるから、文字のリズムも、デザインも、おもしろい。
 言葉は理解できないと、感動や感銘が共有できないと導いてくる。
 作者は外国音楽、書道のことばがわからない、理解できない、物足りない、という苛立ちの心理描写が展開されている作品だ。同時に、説得力がある。


塩地 薫   名古屋の大空襲


 終戦記念日にも、「私」は稲城市の中央図書館にいた。館内にアナウンスが流れ、全員が起立して、黙祷した。瞼を閉じた。
 63年前の今日、「私」は名古屋市郊外の三菱航空機知多工場にいた。16歳の中学生だった。学徒動員で一年前から、軍需工場で働かされていた。
 ラジオの前に集められた。『雑音で、声も内容もよく聞き取れなかった。後から戦争が終ったのだと知らされて、ほっとしたのと同時に、これからどうなるのかと、不安になっていた』と思い出す。。

 中学生の私は、最初は愛知時計の鋳物工場で、魚雷の頭部やピストンなどを作っていた。『終戦間際の六月九日、警報ミスのため、十分間の昼間爆撃で、愛知時計だけでも四千人あまりが死傷した。私たち中学生は最初の警戒警報で場外に退避していて、難を逃れた』と生死の分かれ目を思い出すのだ。

 次も小さな会社だったが、空襲で爆破されてしまった。そして、最後に配属されたのが三菱航空機だった。『米軍の航空母艦が、日本の近海に迫って来ていた。突然、山かげから艦載機が襲ってきて、機銃掃射されたこともある。動くと狙われることも知った。』と緊迫した状況が描かれている。

「8月6日、広島に新型爆弾が落とされた」と聞いたときには、敗戦も近いのではないかと感じた。

 工場被災の前に、5月17日の夜間大空襲で、わが家は全焼した。B29がくっきりと浮かび上がった。焼夷弾が「私」を目指して落ちて来た。あっと言う間に、あたりに火の手が上がった。
『防空頭巾など役に立たない。布団を用水槽に浸し、頭から背中に被って、火の中を通り抜けた。道の上でも焼夷弾の油脂は燃えている』と、その恐怖の体験も描かれている。

『空襲警報が解除されたのは4時半だった。焼けてなくなっているであろう、わが家に帰る道も火事場のように雑然としている。路上に倒れた人もいる。座り込んで、膝の上に老父の頭を乗せた老婆の手には、流れ出た脳がすくい上げられている。放心状態の老婆に声もかけられない』と悲惨な状況が書き記されている。
 中学生が体験した、名古屋大空襲が如実に描かれている作品だ。戦争の悲惨さが克明に描かれている。記録文学としても、貴重な作品だ。

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