A020-小説家

第22回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 私的なことだが、小説を書きはじめたころ、『小説作法』関連の書物はずいぶん数多く読んだものだ。どの本も出てくるのが、決まって「テーマ」についてだった。

(テーマとは、実際にどういうものなのか?)
 それが理解できなかった。いろいろ考えてみた。テーマとはこんなものかな、という模索がつづいた。明快な答えがいつまでもつかめなかった。まわりの小説仲間にも、テーマってなあに? と真剣に質問したものだ。そんな状態が数年つづいた。


『テーマとは作品を一言で、言い表すもの』
 と理解できたのはずいぶん先のことだった。
(テーマを言い表すことばが、短かければ短いほど、求心力の強い作品が生まれる)
 それが解ったとき、長年のモヤモヤがすっと消えた。

『テーマが統一されていない作品』
 それは作者が何を言いたいのか、何を書きたかったのか、それが解らない作品になってしまう。長編の場合はとかくテーマから外れやすい。話があちらこちらに飛んでしまう。ならば、と一つの作品の執筆がはじまると、私は日々、目にする壁に「テーマ」を貼り付けておいた。
「外れたらだめだぞ、外れるなよ」
 と私自身に言い聞かせていた。

 エッセイは短文だ。ストーリーよりも、『テーマの絞込み』が重要だ。テーマ自体が作品の優劣に、大きく関わる。
 教室のレクチャーでは、演習の素材を提起し、全員に「テーマ」を発表してもらった。


 今回も、質の良いエッセイが数多く提出された。1作ずつ紹介してみたい。その前に、注釈をすれば、(こんな体験をしているのか、すごいな)
 と思ったり、ずいぶん参考になるな、教えられるな、と思った素材が多かった。

 読者は作品を読んで、新たな知識が得られたら、うれしいものだ。このエッセイ教室は経験豊富な作者の集まりだ。
 近頃は、全員の文章がずいぶん磨かれてきた。書きなれてきた。切口が良い。となると、必然的に読者の心に触れる作品が多くなる。率直に、そんな印象をもった。

 

塩地 薫   真向法(まっこうほう)それから5年

 

『妻や友人から「姿勢が悪い」と言われ、知人から「それなら真向法を」と勧められて、74歳の春に、真向法を始めた。それから5年目になる』と書き出す。作品の全体が見える、よいリード文だ。

「私」の脚がずいぶん開く、と妻がお世辞をいう。両脚を開いても90度くらいだったが、今では115くらいまで開く。
〈1日1mm〉が合い言葉で、2、3か月すれば120度くらい開くようになる、と説明されていた。それは若い人たちの場合であった。「私」は1mm開いて1mm戻り、3ミリ開いて3ミリ戻るの繰り返しで、やっとここまできた。こうした若者との対比が、作品にリアリティーを持たせている。

 最近、我流のストレッチも始めた。真向法協会の総会後の懇親会で、
「我流は危険を伴います。曲げることを優先させるために、かえって腰痛になることもあります」と先輩から注意された。
「真向法は、曲げるのではなく、動かすことです。動かしていれば、百歳になっても、体は柔らかくなります」
 重みのあるアドバイスが、作品のなかで展開されていく。

 半年ほど前に、中指が腱鞘炎になった。「私」はパソコンを人差し指一本で打ち、中指は使わない。さらに3か月ほど経つと、左手の指も同じ症状になった。医師は同じ診断を下した。
「私」は右ききだから、左手はあまり使わない。重い物を持っていた記憶はない。『ふと、気づいた。二年ほど前から、近くにスポーツクラブができ、ジムで筋肉トレーニングをしている。その機器類のバーを両手でしっかり握っているのが原因ではないか』、と。使いすぎでなく、あまり使わないために萎縮が起きではないだろうか。老化現象の現れではないかと思うのだ。

 真向法の初年度は5級に認定された。年々進級してきて、今では1級になっている。
『自然の生理的な老化のスピードと、真向法などアンチエイジング活動のスピードとの競合を、実体験のようだ』と余韻のある、良い結末に導いてくれる。  
 作者が自分の身体としっかり向かい合っている作品だ。緻密な観察力が冴えているから、細かな数字も納得しながら読める。欲をいえば、もう少し夫婦の会話を入れたら、エッセイの味がより深まるだろう。


森田 多加子   高等遊民の生き方


「私」の手もとには、『想出のままに』と表題がついた、古いノートがある。父が遺した数冊のひとつ。國民出版社が発行した、本の体裁だ。それを開くと、升目のついた原稿用紙だ。最初のページは昭和15年12月9日である。

 父が創作した随筆、俳句、詩、応募した歌詞、脚本などが書かれている。日記風の文章も読み取れる。このノートから父の顔が浮かぶのだ。

『父と一緒に何かをしたという記憶はない。ぼんやりと残っているのは、第二次世界大戦が始まって、軍需工場で働いていた頃だ』という。その時代と家庭環境が述べられていく。
父は単身赴任で、家にはいなかった。

『父の部屋は私にとっては不思議な空間だった。入口には、横書きで『幽泉庵』と書かれた、趣のある大きな板が懸けられていた。入口の広さは襖一枚ほどなので、その門札には威圧感があった』。

 父が留守の時に、「私」は何度か幽泉庵に忍び込んだものだ。自在かぎ、、火鉢、素朴な艶がある文机、本棚、、茶碗や古い花器など、それぞれが描写ている。『あまり美しいとは思えなかった品を一つずつ触ってみた。どうしてこんなものを飾っているのか、不思議だった』と子どもの目と心理で描かれている。
 食事中の父は寡黙で、終わると『幽泉庵』に戻る。父が食卓からいなくなると、ほっとした雰囲気になって、あとは賑やかになる。

 そんな父と中学生の頃、すし屋に誘われて、一度だけ手をつないだことがある。『突然父が私の手を取った。ビクッとした感覚をはっきり覚えている。繋がれた私の手が他人の手に思えた』と記す。年頃の娘の心情がよく伝わる描写だ。

『祖父が大きな洋品店を経営していた。父は放蕩息子であった』。文学青年の父が稼業をおろそかにし、斜陽化していく。
『父は生まれて初めて働くことになった。それが軍需工場だった』その苦悩が『想出のままに』の古いノートに書き残されているのだ。

    自分の職業に誇りを持ち得るか
    作業衣を着ている時知人に會うて誇り顔でいられるか
    私は造兵廠の筆生でありますと大衆の前でいひ得るか 

 父親の遺した3行が、この作品をいっそう輝かせている。全体を通して、娘の目から見た、父親が深みをもって描かれた良品だ。と同時に、作者には大切にしてもらいたい素材だ。


吉田 年男   K子さんからの電話


『朝のストレッチ体操を終えて、食事の準備をしていた。K子さんから電話がはいった。広島からであった』と書き出す。

 小学生時代のK子さんは、書道の教え子だった。その後、10数年間の交流がある。大学を卒業したK子さんは、平塚の動物園に就職をした。それを機にして親元をはなれて、ひとり暮らしをはじめた。

 K子さが久しぶりに稽古に来た。彼女とは3年ぶりの再会だ。(交際相手?)彼の実家の酪農を手伝うという。それが広島だ。彼女は平塚から広島へ行くという。彼との同居でなく、彼女はひとり暮らしとして。

『仕事のきびしさは、やってみないとわからない。動物は大好きでも、酪農を仕事にしたときの、不安が彼女にはあったと思う』
 そう認識する「私」は、彼女の決断に敬意を表す心境だった。他方で、20代のころの「私」と比べている自分に気づくのだ。K子さんの冷静、客観的に行動する勇気、いつでも引き返す勇気。これらは同年代を振り返ると、「私」にはなかったと述べている。

『現代は何ごとも文献に頼り、頭で理解できれば、判ったような錯覚に囚われていると思う。行動する前に余計なことまで考えてしまう。素直にそのまま行動すればいいのに、理屈が先にたち、悩んで立ち止まってしまう。
「楽天知命」与えられた環境の中で、素直に行動し、楽しさを見つけ出していく。人は経験したことのみが、身につくという。

「人間、50年や60年やったって、たいしたことはない」
 大東流合気武術宗範 佐川幸義先生の言葉と結びつけていく。そして、『あらためて行動することの大切さを感じた』と導く。

 年配者が20歳代を語ると、とかく「いまの若い者は」と表層的な思考になりやすい。作者は青春時代の「私」と比べて、見劣りがする自分を知るのだ。若者にも学ぶ姿勢は、快いものだ。
 現代の世相の一面に切り込」が、説明文のために硬い印象をもたれてしまう。K子さんとの会話文を挿入すれば、さらによい作品になる。


奥田 和美  家も生きている


「私」と娘は2LDKのマンションで、二人暮しだ。
『女二人の生活は楽でよい。夕食を作りたくない時は二人で外食とかで簡単にすませる。あるいはうどん、蕎麦、スパゲティで充分だ。男がいたら、そうはいかない。一人暮らしの息子が時おり自宅に帰ってくると、「私」は張り切ってご馳走を作る。だが1日で疲れてしまう』。書き出しでは母親と娘、息子の対応の違いがよく描けている。

 住居は築30年で、あちこちガタが来ている。困るほどではない。「私」はこの家が気に入っている。『出かけるときにはいつも「行ってきます。お家さん、留守を頼むね」と声をかける』

 母の四十九日に札幌から兄夫婦がきた。そして、わが家に1泊した。蛍光灯が切れる寸前のような、プルプルと不快なゆれた光になった。『兄がカバーを外して丸管を見てくれた。黒くはない。取り替える必要はないという。洗って綺麗にしたカバーをはめて、もう一度スイッチを入れたら、ちゃんとついた』と小さなエピソードを展開させる。

 兄嫁が入浴中に、電気温水器がビービーとすごい音がした。メーターボックスのドアを開けると、お湯があふれている。緊急連絡先に電話すると、係りの人が「給水栓を止めてください」といっているようだ。音がうるさくて聞こえない。兄に電話を代ってもらう。給水栓がやっと分かり、絞めたら音が止まった。
 兄嫁が風呂から出てきて、「掃除機でもかけているのかと思った」という。
『普段にない出来事だ。家屋はいつもと違う人がいると、興奮するのだろうか』と解析してみせる。ユーモアある捉え方だ。

「建物はちがうが、前にも同じようなことがあった」と17年前の海外旅行の不在に起きた、類似的なエピソードへとつづくのだ。それらが述べられてから、『兄夫婦が帰って、また娘と二人だけ。家は何事もなかったように静かだ』と、落ち着くべきところに落ち着いてみせる。

 面白い視点で、「家」を捉えている作品だ。作者はつねにユーモアがある感性だから、読んでいて楽しい気分にさせてくれる。


和田 譲次   私もがんを手術した

                          
 題名から、引き込まれる作品だ。
 手術後の夢から覚めた、「私」が意識を取り戻す。名前を呼ばれている。『白いマスクをつけ、青い手術着をまとった人達が取り囲んでいる』と、現実の世界を知るのだ。
「すこし前に手術が終わりました、悪いところは全部とれました」と医師が明るい声で説明してくれた。
『朝9時半に麻酔が注入されてから、7時間以上も何も知らずに熟睡していたことになる。この間、医師、看護師は食事も取らず、立ったまま仕事に没頭していたことになる』と、患者の立場から、感謝の念をもつのだ。
 対面した家内の表情には明るさがあった。

「私」は特別看護室に入れられた。鎮痛剤と、無事に手術が済んだ安堵感からウトウトとまどろみはじめた。

 2ヶ月まえの癌の宣告におよぶ。大腸の内視鏡検査を受る描写が展開される。モニターを見ていると、『もうすぐ終わるという直前、月のクレーターのような薄汚れた画像が現れた。瞬間、一緒にモニターを見ていた看護師と研修医の表情がこわばった』と緊迫した状況に陥るのだ。
 名医は冷静な態度で、組織検査まで何とも言えませんという。
 検査室を出るとき、「私」は看護師にかまをかけ、病状を知ろうとする。曖昧な返事だ。『癌という言葉はお互いに使わなかったが,ついに来るものが来たか、というのが私の最初の印象である。しかし、深刻には受け止めなかった』と心情を述べている。他方で、家族にも「癌らしいけど何とかなるらしい」とあっさり伝えた。

 肛門に近いところに平面状の腺腫がん。これら病状の説明と、神経質になった「私」の心とが描かれる。やがて、外科部長の主治医との人間関係におよぶ。『先生は大腸手術の権威だときく。それ以上にその人柄にほれてしまった』と、医師の人物像に「私」の目が向けられてから、
『主治医と信頼関係が出来てからは、癌という言葉は怖くなかった』という境地に達するのだ。そして、  手術室のベッドに横たわったのだ。

 手術後の回復していく状況に、作品は展開していく。『手術の傷は痛んだが、起き上がり数歩、歩いてみた。看護師さん達が拍手をしてくれた。すべては終わった、心の中で万歳と叫んだ。だが、運命の女神は味方してくれない。これが終わりではなく、癌との付き合いの初めだった。一週間後に過酷な事態が待ち受けていた』と、続き物になっている。

 緊迫感から、一気に読ませる作品だ。連載だから、次を読んで公表すべきだが、作者が病気と向かい合いながらも、距離が取れた作品だ。


山下 昌子   天ぷらそばとコスモス


『筑波に着くとコスモスが咲き乱れ、たおやかな茎は風に優しくゆれていた。やさしいピンクや濃いピンクの昔ながらのコスモスだった』と、ピンクのコスモスが咲く情景から書き出す。

 花の好きの妹に誘われた、「私」は過去にもチューリップ・紫陽花・コスモス・萩と、都内の花の名所を見てまわっている。その一つ、江戸川沿いのコスモスは、黄色い種類のキバナコスモスだった。葉は幅が広く、丈も低く全体がこんもりしている。まったく趣が違い、コスモスとは別種の花だった。
『花に優劣はなく、罪はないが、私のイメージのコスモスとの違いにはガッカリしたことがある』と述べられている。

 今回は、筑波に住む妹の友人の招きだ。案内されたコスモス畑のあぜ道に入り、「私」は花に囲まれて何枚も写真を撮った。ふいに違和感を覚えた。「私」たち3人のほかには、コスモスの見物人は誰一人いない。

「これは休耕田なのよ」と、あぜ道に座ってお茶を飲みながら、妹の友人が教えてくれた。
『広い田圃にお米が植えられなくなった。瑞穂の国は、これでいいのかと、不安に包まれた』。3人の話題が最近の食生活や食料自給率におよぶ。「私」は暗い心境になったが、気をとりもどし、美味しいおそばやで、天ぷらそばを食べた。念願のコスモスの咲く風景が堪能できたのだ。

 小旅行は終わった数日後、新聞に天ぷらそばの写真入りの記事をみつけた。『今、天ぷらそばを食べると、日本産のものは、水と丼だけだという記事だった。海老は勿論のこと、おそばも油も、てんぷらの衣になる小麦粉も全て輸入品だという。「天ぷらそばよ、おまえもか」と思った』と、作者は現在の食料問題に切り込んでいく。

 これも10年も前の話だった。いまや天ぷらそばの丼も輸入品で、日本のものは水だけかもしれない、と思うと、背筋が寒くなる。思わぬ展開の結末へとたたみこんでいく、切れ味の良い作品だ。


藤田 賢吾   父の日記


「チチキトク」の電報を受け取った。大学の期末試験の最中だったが、「私」は3歳上の兄と、夜行列車で郷里・小松へ帰省した。68歳の父はすでに棺のなかだった。 死因は酒のあと、食べた餅をのどにつまらせたことだと聞かされた。 

 祭壇には、宮本三郎画伯の描いた父の似顔絵が飾ってあった。画伯は父の自慢の教え子だった。『その宮本家を訪ねた折に、「30分かけずに、色紙に描いてくれた」と、その喜びを話していた』と父を回顧する。
 寡黙な父は小学校の校長を退職したあと、家でぶらぶらしているだけの老人だった。夜、突如として寝言で、生徒を叱る声が家中に響く。離れた「私」の部屋でも、ハッキリ聞こえた。『家族には、決して見せない言葉遣いだった。学校では、厳しい先生だったのだろう』と寝言から父の性格を推し量っていた。

 口数の少ない父だったが、かつてある暗記を教えてくれた。「嘉六安六万元文三元元慶三明治大正昭和」という幕末の年号だ。嘉永が6年、安政6年、万延は1年だけである。文久3年、元治1年、慶応3年で、明治と続く。今では西暦中心で、こんなことを覚えても、あまり役に立たないが、棺の父をみると、強い思い出に変わった。

 生前、父は、川崎にやってきた。亡くなる前年で、酒好きの父が、「一杯飲もうか」と言いだした。ボクは20歳になったばかり。さして店も知らない。通りがかりの飲屋に入った。
『話題が出てこない。彼(父)も、相変わらず無口だ。気まずい思いをして、店を出た。ボクが自分で稼ぐ日がきたら、もっと気の利いた飲み屋で、父を誘って飲みたいと思った』と懐古する。父と息子の心情が描かれている。

 父は全部で54冊の日記を遺す。形見分けで、「私」の生まれた年の日記を引き取った。「男児出生」と書かれていて、「阿部内閣成立」とある。
 先を読むほどに、「名まえを如何につけるか」と思慮する父親の姿が浮かんでくるのだ。父は妻に聞いて決定する、と記す。翌日の日記には「赤ん坊の名前は 賢吾と決定」とある。
『今年、末子のボクが、ついに父の享年を超えた。彼(父)は無口だったが、ボクにとって大切な情報を書き残しておいてくれた』と結末に導く。

 死に目に会えなかった父を回顧しながら、父が遺した日記が「私」の貴重な財産となっていく。父と子の心情が丹念に描かれた作品だ。
 全体を通して、父親の人物像が立ち上がっている作品だ。


中村 誠  ご飯に生卵


『朝日新聞の天声人語に、自分のエッセイと同じような話を見つけると嬉しくなる』と書き出す。

 40年前のシカゴで、駐在員の単身赴任の「私」が、紳士のSさんに会い、《温かいご飯と生卵》というエピソードをもった。「ある紳士との出会い」という題名でエッセイを綴った。その一部が引用されている。
「駐在生活はご苦労が多いでしょう。こちらの食事は慣れましたか」
 Sさんが思いやりあることばを向けてくれた。
「やはり温かいご飯に、醤油と生卵を混ぜて掛けたものが、最高です」
「え、ご飯に生卵ですか?」
 大会社の社長のSさんが驚いた。

 このエッセイを提出した翌週に、天声人語が生卵の食の話が出ていた。天声人語の記者は、『熱いご飯に卵をのせ、しょうゆをたらす。簡単でうまい《卵かけご飯》だが、生卵が危ないと聞いたから、米国在勤中は食べなかった』と記す。《生卵が危ない》は真実であろうか、と「私」は疑問を持った。
 同記者は何年ごろに米国に在勤していたのか。メールで、朝日新聞に気になった点を問合せてみた。

 2日後の同社の広報部よりメールがあった。
『……筆者は2002年から3年間米国で勤務しましたが、日本人社会では生卵を食べないことが「常識」として流布していました。理由は、サルモネラ菌などの問題だと思います。州によっては州法などで、生卵を飲食店で提供することなどを、禁じているところがあると聞いています』
「私」には、5年前の米国の正確な状況はよく判らない。ただ、40年前は、生卵が危ないと聞いた記憶はない。
『当時は、さほど感染症の問題も起こらず、日本人社会では伝統の日本食を楽しんでいたと思う。例えば、すき焼き、これには生卵が欠かせなかった』と述べる。

《温かいご飯に生卵》という一つの素材から、別の切口の作品に仕上げている。
 大手新聞のコラムを鵜呑みにしないで、メールで問合せて行動する。この姿勢が読者を引き込む。つまり、取材のよく利いた、読み応えのある作品だ。


青山貴文  『水浴の女』 住み込み店員時代(3)

                     
 大学受験に失敗した浪人生活のシリーズものである。

 ある夏の昼下がり、女の客から電話で、ビールを1ダースの注文が来た。配達する「私」は小さな路地を入った先で、表札を見つけた。そして、勝手口に回った。暗い土間になっている裏木戸から、「ビールを持ってきました」と声をかける。
「土間に置いておいて」
 女の声がもどってくる。と同時に、水の音がする。目を見張ると、五右衛門風呂で、30歳前後の女性が水浴をしていたのだ。
 彼女は小麦色の日焼け顔だった。「お世話さま」と心持ち上半身を持ち上げ、微笑んだ。その胸もとは豊かだった。盗み見た「私」は慌てぎみに、土間から飛び出した。魅力的な怪しげな女体と微笑から、身体の芯がほてるのを押えきれなかった。

 配達先で、女の裸体をみたのは初めてだ。『店員仲間には話さず、その夜はあやしげな余韻に慕って眠りについた』と、青年の心のトキメキを描いている。

 住み込み店員は「私」を含めて3人いた。盆や暮は忙しく、「通いの従業員」も含めて5人くらいになる。仕事が終えるのは夜8時ころで、9時ころには夜食。そして、順番に風呂に入った。店主の家族よりも、店員が優先だった。店主は働き手を大切にする人だった、と懐古する。

『寝るのは毎夜10時か10時半ころで、店員仲間と八畳間に枕を並べて寝た。1日の出来事を、みんなで話しあえる唯一楽しいひと時である』という。さらなる、エピソードとして、
『歌手水原弘が近くのアパートに住んでいて、内妻がすごく魅力的であった。寝床で仕入れた情報を知って、水原家から注文あると、だれもが我先に行こうとした。店員仲間で、じゃんけんで決めた』
 と青年の心情とか、機微が丹念に描かれている。

 昭和時代の住込みの体験が丁寧に書かれている。現代ではもはや廃れた、雇用制度だけに貴重なものだ。連載だけに、次が楽しみだ。


上田恭子 高・紅一点 (松本への旅)

   

 松本の老人保健施設を見学して、安曇野で遊ぶ、という旅行企画の誘いがあった。夫の痴呆が進み、暗澹とした時だけに、「私」は出かけることに決めた。安曇野は初めていくところだった。待合わせ場所は池上駅で、9時49分発の先頭車両。さらに一番前のドアだった。

 誘ってくれた「大山」さんの上司が、同駅から乗り込む。顔は知らない人だ。「私」は早めに家を出た。電車を2台ほどやりすごし、ホームの椅子に座っていた。『あの方が大山さんの上司かな? この方かな? とソレらしい方を目で探す』。リュックを背負った人がいる。確信はないし、気後れがして声がかけられなかった。

 指定された電車に乗り込んでも、該当する上司が特定できなかった。微妙な心理が描かれている。
その上司と「私」には偶然、同一の知人がいて驚くのだ。

 新宿の「あずさ号」のホームに着いた。駅アナウンスが、中央線の国立変電所が故障で工事中だ。参加者を見ると、『男性8人、紅一点の私、何か異物が迷い込んだ気分』と女性一人の心情が描かれている。
 やがて、「今日は1日不通となります」と無情のアナウンスが流れた。団長の決断から長野新幹線で行くことに決定した。弁当は食べかけで仕舞って東京駅へむかう。こうした忙しなさが描かれている。
 夕方5時にやっと目的地に着いた。男性9人におばあさん一人、という夕食の情景に進むのだ。男性からは年齢に関係なく、紅一点への気配りがなされる。

 作品は、待合人とのすれ違いとか、変電所事故とか、ハプニングの旅行が面白く捉えられている。前半をすこし削り、安曇野の自然を膨らませてほしかった。


黒田謙治   音痴治療中 その1


 還暦の翌年のことだった。TVで、ある大学の教授が音痴矯正法を語っていた。耳音痴と、喉音痴の二種類がある。耳音痴は聴覚の異常で治らないが、滅多にない。ほとんどが喉音痴で、治るという。
 2人の婦人を2時間特訓した結果をみせる。「春を愛する人は……」の「四季の歌」だが、確かに音程が良い方に変わっていた。

『喉音痴は喉の筋肉が弱いため、声帯の張りを一定に保てないことが原因している。声帯の筋肉さえ鍛えれば、音痴は直る』と、その教授は力説した。テクニカルな面では、『地声と裏声を連続して切り替えることだ』といい、それが声帯を鍛える方法だという。
「アー」を地声で発声し、次に「ホー」と裏声で発声する。つまり、「あーほー」とくり返す。ちょっと愉快な感じだ。

「私」は半信半疑であったが、さっそく習志野海岸で独り特訓を開始した。人の目が気になったから、筑波山に場所を移した。「アーホー」、「ホーアー」と大声を出しながら、急斜面を登る。突然、岩陰から人が現れ、ばつの悪いこともある。
「二度と会うことはない人だ。どう思われようが構わない」と訓練を続けた。

 こんどは声帯の訓練も兼ねた、秩父三十四札所巡りだった。26番の岩井堂を目指した。石段の参道は避け、険しい山道の方を選んだ。登りきると頭上には、懸崖造りの観音堂が迫っていた。般若心経を読誦した。一人の女性が近づいてきた。40歳前後のOL風で、彼女から話しかけてきた。先週の木曜日も出会ったというのだ。この女性に、「あーほー」の声帯訓練が2度も見られたのだ、と「私」は戸惑うのだ。
 30番札所まで一緒に歩いた。彼女は西武秩父駅から特急に乗った。「私」は蕎麦屋に向かった。

 半年後、彼女から34ヶ寺すべてを廻り終えた、と電話があった。たがいに足の速さを語った。その後の音信はない。
『教授の治療法の正しいことは、いずれ立証できそうだ。私の治療は今も続いている』と、結末では希望を自分に与えている。音痴と向かい合い、努力する姿には好感が持てる作品だ。


二上 薆 人間社会の倫理と進化論  ―ある読書子の感想よりー

                                   

 ミヤンマーの大形ハリケーン、中国四川大地震と相次ぐ災害がつづいている。TVでは連日のように殺人事件を面白おかしく報じている。こうした現代の世相を冒頭に示してから、書評を推し進めている。

「私」は数年前の、長谷川真理子講師の話を思いだした。彼女は生物学を専攻している。JICAの仕事で、チンパンジーの生態研究なども行う。『リスクを冒す心理、冒さない心理 戦後日本の若者の変遷』という表題だった。その内容は性別、年齢別、地域別の殺人を犯す率の統計などである。

『殺人を犯す率は男性が女性よりも多く、20歳代は他の年代よりも断然多い。地域差も大きい。戦後の日本は徐々に減少している。2000年では10人/100万人である。しかし、シカゴは900人/100万人の殺人だ』という数字を示す。
 都市間の違いが数字で語られると、説得力がある。他方で、殺人の動機は異性を争い、意地を張り合い、資源を奪うためだという。

『殺戮に至るまでの争いは人間だけだ。それはもはや過去の説で、霊長類は計画的集団の殺戮を行う』という説を、長谷川真理子さんは発表している。

「私」はそこに興味を覚え、彼女の解説的な著書『オスとメス 性の不思議』を読んだ。種の保存と雌、雄の選択の争い、その遺伝子の伝達と進化の過程などが簡潔に記述されていた。DNAや進化の考え方、ヒト社会への解釈や適用などが、極めて分かりやすく述べられた。『それは手頃の入門書』だと、書評として紹介している。

 他にも、佐倉統著「進化論の挑戦」を紹介する。長谷川真理子さんの著書と表裏一体となる良書だ。その認識の下で、事例を挙げて対比させている。

『殺した、棄てた、殺伐たる世相。古い引き出しの埃を払って取り出した読書子の感想を述べた』として、特に未来を背負う若者に訴えたいと結ぶ。

 長谷川さんの論旨から、『最近の日本の若者は、リスクを冒さず、思春期無気力症候群、対人関係の希薄化、幼稚化を挙げる。これも(殺人)率減少の原因か』という紹介もあった。なるほどな、と思わせた。
 作者には、現代の世相の本質を突く、姿勢が一貫している。それだけに、切り口の良い書評だ。


中澤映子  「クロの失踪」 動物歳時記 その13


「桜満開、花冷えの日、クロが失踪した。命の恩猫、トム兄貴(前出、「猫の鏡」)を探していなくなったのか? 最期の余力をふりしぼって」
 トムは猫でありながらも、猫助けの面倒みが良い。そのトムが6年前、1匹の黒猫を連れてきた。その脚はケガで、びっこを引いていて、やせ細っていた。クロと名づけた。小俣一家の一員になった経緯が述べられる。

 クロの脚のケガは治り、精神は安定し、ちょいデブになった。好奇心が強いクロは、わが家が耐震改修工事の現場に立ち入っていた。セメントの上を堂々と歩き、梅の花模様を点々と作る。職人を困らせたものだ、というエピソードが紹介される。

 クロが、昨秋から病気に陥る。獣医が「猫エイズ」と診断した。そこから病気が深刻化していく。推移と状況とが丹念に描かれている。作者の動物愛もさることながら、観察力は素晴らしい。

 体力の弱ったクロは専用の籠に丸くなって眠る。長老で同じ黒猫のマックが添い寝する。『一般に猫は、病気の猫を本能的に避けるが、マックは以前トムに「クロを頼む」といわれていたことを忠実に守っているのか、マックの猫徳がなせるのか、嫌がらず一緒にいた。2人の黒猫がくっついて、一つの丸いクッ ションのようになっていた』と、情愛のあるエピソードが擬人法で描かれている。死期を前にした、クロがある春の日、突然いなくなった。

『飼い主や猫仲間に、自分の屍をさらさない猫もいる。小俣一家にもかつて数例あった。放浪生活を経験した猫に、それがみられるようだ』と「私」は過去の例から解析するのだ。

『クロが失踪してから40日位過ぎた頃、トムが6年ぶりに、わが家に忽然と現れた。やはりクロは、最期は命の恩猫トムの所に行ったのか。クロを看取ったことを、敬愛するマックや、私たちに告げるために現れたのか』と生命の神秘すら感じる結末に導いている。完成度の高い作品だ。

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