A020-小説家

第21回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 こんかいの冒頭の講義は『結末の書き方について』だった。作品の結末は最も重要なもので、作品の成否がここにある、といっても過言ではない。
 結末が弱いと、5分の4がどんなに素晴らしくても、失敗作とみなされる場合がある。成功作品といわれるものは、まちがいなく結末がぴたっと着地している。体操競技で着地が決まったように。


 展開がラストに近づくほど盛り上がり、最後の数行で頂点に達する。そして、「なるほど、作者はこれを言いたかったのか」という、テーマと結実する。それが読者の感動であり、良い読後感となる。

「上手な結末」の書き方について、技術的には5項目述べた。
 そのひとつが、『作品はやや多く書いておく。そして、どこか手前で、すぱっと切る。(トカゲの尻尾切りのように)』というものだ。そうすれば、読後に余韻が残る、と強調した。

 今回のレクチャーは「結末」だったが、作品紹介はこんかいも「書き出し」にこだわってみた。

二上 薆   どぜうの訓(おしえ) ―自分史のよすがに―


 艶っぽい書き出しだ。場所は東京の下町、清澄白河駅かいわい。まずは紹介してみたい。

「どこかでお昼を」
「どじょうなど どうでしょうか、今時の御夫人には向かないかな」
「面白い、行ってみましょう」
 熟年の男女二人づれの、ささやかな懇親の宴である。

 お目当ての鰌屋(どじょうや)の『伊せ喜』は、江戸時代に舟運の便に浴した、小名木川の高橋(たかはし)にある。駅から歩いて十分くらいのところだ。こうした情緒ある描写が描かれてから、男女の会話が進んでいく。

『銀座線は昭和2年の浅草・上野間開通と聞く。昭和8年には日本橋三越への延長された。幼いころは母親に手をひかれて、見に行くのが楽しみの一つであった』と語られる。昭和2年からの生い立ちと、地下鉄の歴史を重ねていく。妙味ある展開だ。

 どじょうは何を、柳川か、丸鍋か、骨ありか骨抜きか。「さあ、どれにしますか?」。それよりは、先ずはビールと日本酒を。肴より人、よき顔ぶれに、あっという間の酔い心地となった。

 明治から昭和の文豪が書いた作品か、と思ってしまう。どじょうの形態についても、作者の目が細かく届いている。『小さい身に口ひげをピンと生やした、田圃・湿地にはうようよとおり、庶民の楽しい栄養源とされていた鰌(どじょう)が、今やここでは最大のご馳走とされる鰻・鯉と肩を並べている』と変遷が述べられている。
 さらには川魚の思い出の展開へと、ストーリーが運ばれていく。
『鯉はかつて田舎から叔父が藁づとに入れて持ってきてくれた。わが家のまな板の上で、はねながらの刺身、あらいにされるのを何回も見ている』と紹介している。

 どじょう宴の後は、男女して清澄公園に足を運ぶ。『水と緑と、石と、けばけばしい飾りもない山水の庭』として描かれている。
「どじょう」という素材を巧みに使った、東京下町の情感に満ちた、読み応えのある作品だ。


上田 恭子   壊れていく

           


 作品のタイトルは、重要だ。なにが起こり、なにが壊れていくのかと、読者の好奇心が高まる。
「私」は一昨年の4月、4人で韓国へ旅をした。その時に買った「うなぎの皮」のお財布が気に入っている。使えば使うほどに、柔らかくつやがでる。こうした書き出しだ。
『黄色の小銭入れ』は知人にあげたいと思ったが、どこに仕舞ったのか、思い出せなくなるのだ。

 他方で、物忘れは別のところでもでてくる。『女学校の同期会の幹事として、会計報告をした。残金5040円とある。仕舞ってある箱を開けてみたら、40円はあるが、五千円札がなかったのだ。なにかに借用したのかと、家計簿を調べるが、それらしい記録がない』と展開されていく。

 銀行預金通帳の備考欄には、『50万円、息子に貸す』と鉛筆の書き込みがあった。『調べてみたけれど、入金になっていない』と五千円札から、50万円の探索へと展開していく。ちょっとしたミステリータッチだ。

 黄色の小銭入れは発見。五千円札はまだ見つからない。朝から一日探し物ばかりだ。疲れて座り込んでしまった。
『これからの「私」の人生は、こうやって探し物をして暮らすのか、と思ったら暗澹としてしまった』と心理描写が描かれる。

 忘れっぽい「私」が、母子のメールを通して、息子の未払いを突き止めるのだ。すべての作品とは言わないが、この作者にはいい素材を見つけ出し、掘り起こし、人間の機微と結びつける、天性のものがある。


中 村 誠   迷 惑 な 人

                   

 書き出しは、『山菜泥棒』という興味ある内容だ。「私」の家の向かい側は空地だ。所有地が菜園として楽しく活用している、と立地が描かれている。そして、ストーリーが展開されていく。

 ある日、シャベルを手にした中年(男?)が、一つの敷地の垣根を越えて菜園に入っていった。動作が落ち着いているので、おおかた隣家の知り合いだろうと、気にも留めずにいた。
 数日の後、垣根の針金にポリシートでカバーされた、短冊の様な札がぶら下がっていた。
《・・最近ここより私有地に侵入し、栽培している山菜をとっていく人がいます。これは泥棒行為です、発見したらそれ相当の罰をあたえます。・・》
 
 小事件が描かれている。山菜はさほど高価でないから、盗った人間は軽い気持ちだろう。しかし、都会人が定年後に、心をこめて作物だ。その腹だたしさが短冊の文面に表れている。

 分譲地内の垣根の針金には、《愛犬のフンは飼い主がきちんと始末しましょう》という札が目に付く。作者の目が、始末しないエセ愛犬家へと向けられる。

 一応それらしくシャベルと袋を持っているが、始末しないで平気でいってしまう輩(やから)もいる。なかには夜間にリードもつけず散歩させ、これまた、始末をしない飼い主だ。犬を飼う資格もない、愛犬家の風上にも置けない。

 2本の枇杷の実が、黄橙色に成熟してきた。カラスと人間がともに狙う。『好からぬ人の対策は、われわれ近所の目しかない』と、「私」の気持ちが住民の連帯感へと進んでいく。

 分譲地は30年以上が経ち、世代の交代、居住者の出入りがある。団塊の世代が移り住んできており、活気を感じる。しかし、住人の品格が問題だと述べる。作者の義憤がしっかり伝わってくる。

 日常の些事なできごと。緻密な観察力が作品のレベルの高さとなり、エッセイの味となっている。


塩地 薫   真向法(まっこうほう)の事始め

 


「お前、姿勢が悪くなったな」
 4年前に友人から言われた。
「もっと胸を張れ。背筋を伸ばせ。上を向いて歩け。人からは、威張っているなと思われるくらいにして、ちょうどいいんだぞ」
 常日ごろ、妻からも同じことを言われていた。

 この書き出しから、「私」が真向法体操を知り、取り組んでいく過程が描かれている。ある会合の後、
「近ごろ、妻からも、友人からも、姿勢が悪いって言われましてね」
という話題を向けたところ真向法を薦められた。47歳で真向法を始め、85歳で10段になった人の体験を聞く機会に巡りあったのだ。

「私」は都内の真向法協会本部で、妻と一緒に初心者講習会を受講したのだ。若い男女が数名いて、高齢者は私たち夫婦だけだった。
「真向とは《真っすぐを向く》、正しい姿勢という意味です。その正しい姿勢をつくる体操が《真向法体操》なのです」
 と講師が説明する。さらに続けて「何歳になっても、この体操を続けると、体がもっと柔軟になり、姿勢もよくなります。体のどこが柔らかくなると思いますか。関節の筋肉です」 関節は機械と同じで、動かしすぎても、あまり動かさなくても、動きが悪くなる。人間にとって大切なのは、腰の関節と股関節の調整をうまくすることである。

 それから半年後に、「私」は段級審査を受けた。ずいぶん体が柔らかくなっていた。手の指先で足のつま先をつかめ、脚を百度くらいに開けるようになった。「私」の自覚としては、「相変わらず体は硬いまま」だが、五級の免状が届いたのだ。

 エッセイ作品で、体操など四肢の動きの説明は、その表現が難しいものだ。作者は「真向法」技法を細かくわかりやすく、丁寧に紹介している。そこにはムリした表現がない。同時に、70歳代の仲の良い夫婦を描く。快い上級エッセイだ。


森田 多加子   古いものが捨てられない


 わが家の目のまえで、連日、下水道工事が行われていた。工事人が玄関チャイムを鳴らす。小型発電機の調子が悪いので、庭のコンセントから、電気を貸して欲しいのだという。作品はこの描写から書き出されている。

「一時間二十五円という決まりですが、それで使わせていただけますか?」
 瞬間、は頭の中でいじましく計算したが、4時間使っても100円? バカみたいな値段だ。それでもにっこりとして
「ええ、どうぞお使いください」
 買い物に出かけた。帰ってくると、工事人が駆け寄ってきた。
「すみません、電源を入れるとすぐ切れてしまいました。ブレーカーが落ちたのだと思います。ご迷惑をおかけしました。今度は発電機でやりますので…」
(なーんだ、発電機使えるんじゃない)
 家に入ってブレーカーを入れると、あちこちの電気製品の時計がピカピカままたいている。

「私」の悪戦苦闘がはじまるのだ。古い電気製品はひとたび停電になると、タイマーが狂う。一つずつ直していく。他方で、電子レンジの時間表示が不明瞭だったが、停電で鮮明に見えるようになった。

 工事とは無関係だが、結婚祝いに貰った壁掛時計が停止した。もう30年になる。電池を取り替えても動かない。とうとう寿命がきたのか。思入れある時計だけに、修理に出してみるか、と夫はいう。
「修理代は高いと思うわよ。最近、時計は安く買えるから新品を買う方がいいんじゃない?」
 とはいっても、家のなかは時計だらけだ。あえて買うこともない。
 未練ある結婚祝い時計だけに、夫はまだ時計を拭いたり、電池を入れ直したりしている。
「ねえ、昔よく動かないものを、叩いて直していたでしょ、ちょっとやってみたら?」
 私は半分冗談で言った。夫はバンバンと叩いた。
「もう少し力を入れて、本気で叩かなきゃあ」
 叩かれた時計は驚いたのか、見事に動き出して、古巣に戻っていった。

 夫婦の会話をのせた、軽妙なタッチの作品だ。作中の出来事が日常的であるだけに、読者をつよく引きつける。吸引力のある良品だ。


黒田 謙治   ヘボ碁も楽しい  タケガタさんのこと


 駅前の公民館の碁会所には、総勢五十人のサークルがある。「私」は会長、という状況の設定が描かれている。
 杖を突いた、小柄な老婦人(タケガタさん)が遠慮勝ちに碁会所を覗いていた。作品はここからスタートする。

「あのう、わたし、碁を打ったことがないのですが、それでも、この会に入れてもらえますか」
 このサークルは、囲碁の対局を楽しむためのもの。初心者は断っている。それを伝えようとしたとき、
「本は沢山読んだのですよ。でも碁盤の上で、石を並べたことがないのです。主人の看護のために、付き添いで、長いこと病院で寝泊りしていました。主人が寝た後は、することがないので、近くにあった本を手にしたら、それが碁の本でした」
 年齢は八十を越えていそうだ。ご主人は、もう亡くなられたのだろうか。
「本は何回も読んでも、よく分かりませんの。実際に碁石を並べてみたくなりました。それでお願いに来たのです」
 老婦人の声が大きくなってきた。「私」は入会を断りきれず、
「今日は私がお相手いたしましょう」
 と碁石を並べ合うことにしたのだ。
 1時間ぐらい指導碁を打ってみたが、やはり碁はまったくの初心者であった。
「来週お越しになったときに、入会手続きをしましょう」
 もう来ないことを予想していた。

 翌週になって一番に現れたのは、この老婦人だった。素直な性格で、「もう一度お願いします」と、熱心に並べ替えを繰り返していた。
 居酒屋で囲碁談義をするのが、囲碁以上の楽しみ。誘ってみたら、行くと言う。お猪口に、二、三杯だけだったが、とても楽しそうだった。何回か続いたあとで、老婦人の住まいが有料施設だったことから、
「係りの人が、夜遊びは駄目だ、と言うのです」
と寂しそうに、独りバス停に向かって歩き出した。

 老婦人の出会いから、やがて白石を握るほど腕が上がってくるまで、悲喜を織り込んだ良品である。


青山貴文   『前掛け』 住み込み店員時代(二)


 大学浪人の時代は、あとから振り返れば、人生の一つの通過点に過ぎない。そのときは自身に失望し、楽しげな大学生との間には大きなギャップを感じたり、挫折感をおぼえたりしたものだ。

 作品は、父親が失業し、勉学だけの二浪はできず、酒屋に働きに出た日々を克明に描いた、連作だ。酒屋時代ほど、世は服装によって人を判断するものだと痛感したことはない、と述べている。その書き出しから紹介してみる。

 多くの友が、真新しい学生服で通学していた頃、前掛けと鉢巻が私の制服であった。その前掛けは、紺色の地に白字で『升本酒店』と大書されていた。店頭に立つが、ときには自転車の荷台に注文品を積んで、住宅街を配達した。多くは味噌、醤油、缶詰、酒、ビール、サイダーなど生活必需品である。仙台坂の酒店を中心に、半径約200mを走りまわった。

 当時、麻布の街は、十番の商店街を少し離れると閑静な住宅街であった。緑豊な神社やみごとな桜が咲く公園が散在していた。
 その住宅街には、女学生やOLや魅力的な有閑マダムらしき女性が住む。これは楽しい生活になるぞと、受験に失敗したことなどはどうでも良かった。

 ここからエピソードが展開していくのだ。現実は厳しく、御用聞きにでかけても、「私」は店員としてしかみてくれない。お嬢さんなど滅多に出てこない。たまに出てきても、升本の店員さんか、という顔をされるのがおちであった。
 今に見ていろと、いきまいても、所詮は宙ぶらりんの浪人ものであった。

 明けても暮れても、毎日、プラスチックの赤い箱を自転車の荷台に縛り付け、配達していた。強烈な日照りだろうが、雨が降ろうが仙台坂を押し登った。帰路は軽くなった空箱で、猛スピードで帰ってくる。
こうした生活に慣れてきて、前掛けの似合う真っ黒に日焼けした肉体労働者に変っていった。
 反面、頭の中は空っぽになってきて、受験勉強から遠ざかっていった。ただ、好きな数学だけは朝早く起きて難問を解いていた。

 余韻のある結末へとつながっている。勤労浪人生の精神的苦境と働く心理とが、読者に伝わってくる、読みごたえのある作品である。


高原 眞   医は忍術か

 
 妻の付き添いで、病院の精神内科を訪れた。支払をすませて「診療費領収書」を見たならば、「前回未払い残」として1010円が載っていたのだ。先回はすべて完納している。疑問を感じた「私」は、受付に申し出た。
「診察の後、ケアマネジャーへの連絡指示の電話をした分です」という答えだった。

 ここから「私」は、1010円の電話代から、通話料ならそんなに高くないはずだ、と疑問を深めていくのだ。
 ディサービスやディケアは「私」の妻が介護保険の適用になって、初めて知ったことばだった。そこは日帰りであるが、認知症の機能訓練や入浴などの介護をしてくれる。送り迎えもしてくれてくれる。家庭内では重荷である老人を、一日そこで面倒を見てくれる。家族としては安心で手が抜ける。本格的な機能訓練を専門的にはやっていないから、「老人の幼稚園」なのだ、という。

 妻は膵臓半分、二指腸・胆嚢を切除し、大根だった脚がゴボウのようになった身体である。大切なのは認知でなく体力の回復だった。
 主治医は、ケアマネジャーに「電話連絡」をしてくれたようだ。医療担当機関がたがいに密にして、介護医療が運営されている。結構なことであると思う。一方で、「私」は1010円の拘泥するのだ。

 作者の目が、法制化された介護保険制度から、医療全般に及んでいく。出来高払いの医療報酬点数制度」は、ここ半世紀で、点数割り増しの不正の発覚や、薬剤の過剰投与などの問題が起きたという。

 妻が診察を受ける医院の領収書にもどってくる。医院で説明を受けたが、内容が理解不足できず、いまだに分からない項目があるという。通常の物品売買ならば、消費者は品名ですぐ分かる。医療は難解だ、という批判の語りと、他方で、『赤ひげ診療譚』の「仁術」とはほど遠くなってしまった、と歎くのだ。

 作品は、どこまでも、「前回未払い残の1010円」に拘泥する。それが作品の求心力となっている。ただ、国家の医療制度の展開となると、やや書き過ぎの面がある。


吉田 年男   夫婦の絆


 書き出しは、説明文でなく、情景描写から入る。それをもって読者の脳裡のスクリーンには、まず情景を描いてもらう。そして、話を展開させながら、読者の感情移入を高める。この作品はセオリーだ。

 4月の良く晴れた日、いつものように朝のストレッチ体操で近くの公園にでかけた。西側の高台に着いてから、体操を始めた。
 前方の草むらから、ジージージーとゼンマイがほどけるような、奇妙な音が聞こえる。目を凝らすと、草むらで何かが動いている。それはカーキー色をした全長30cm位のラジコン戦車であった。

 どこで操縦をしているのか。草むらの少し低くなったところで、30歳くらい男性がリモコンをいじっている。顔の表情は童心そのもので、目は少年のように耀く。
そばには妻と幼児が座っている。女性は優しい笑顔を絶やさず、幼児と向かい合い、なにか話をしていた。男性はどこまでもラジコン操作に夢中だ。
 突然、戦車が女性に近寄ってきた。彼女はおどろいた様子もなく、幼児との会話を続けている。

『夫婦であっても、お互いに自分の世界をもっていて、干渉しない。実にすがすがしい光景であった』と作者は、微笑ましくて、夫婦を見つめている。

 テレビ、新聞では夫婦間の争いごとが報道されている。これら夫婦は、いらぬところに気を使い、ささいなことで喧嘩をしたりして、気まずくなって、別れる夫婦を見かける。『夫婦の間でも、お互いに迷惑をかけない範囲で、自分の我儘を通すくらいで、ちょうどいい』と夫婦の絆におよぶ。
 夫婦の味を上手に捉えた、良質のエッセイである。


藤田 賢吾 1万5千円


 オーストラリアでドライブしていたとき、カンガルーと正面衝突する寸前だった。左から突然、大きな図体をしたカンガルーがこちらに向かってくる。急いでハンドルを右に切った。反対車線に入り、難を逃れた。もし対向車が来ていたら、と考えるとゾッとする。

 オーストラリアの砂漠に似た地形の国道となると、いくら走っても、車が見えない。30分も走ると、ようやく対向車がくる。向こうの運転手が手を振る。誰だか知らない。こちらも手を振って通り過ぎていく。お互いに退屈なのだ。

 国道は110キロだが、町に入ると70キロ、そして、街なかは40キロにスピードを落とすルールだ。「私」はそこで、スピード違反で捕まった。スローダウンさせていたつもりだったが、制限速度を超えていたらしい。
「免許証を見せろ」と言われて、冊子になっている国際免許証を出した。「オーストラリアへ観光に来たのだ、広い国ですね」というと、「注意して走るように」と言って無罪放免となった。

 こうした書き出しから、ドライバーの体験談が、国際色豊かに述べられていくのだ。  
 ドイツの国道は100キロだ。左ハンドルの国で、運転する「私」の左側を、対向車がピァーと猛スピードで通り過ぎて行く。カーブとか、樹木が多い国道とかでは、とてもそん制限速度では走れない。怖い。いつの間にか右の方へ寄っている。助手席の妻が「また白線を踏んでるよ」と注意する。ついつい路肩の白線を走っているのだ。

 ノルウェーはもっと怖い。70キロだが、山坂が多くて、対向車が見えず、カーブが多く、山に沿っているから前方がわからない。とても70キロでは走れない。道路は突然フィヨルドで分断され、道路がなくなっている。しばらく待っていると、フェリーがやってきて、それで渡ることになる。

 作者は、つづいてアイルランド、アメリカ西部のハイウェーを紹介する。運転を変わった妻は「いま180キロで運転したよ。こんなにまっすぐな道路は、ライセンスなんか要らないくらい」と言い放ったという。

 08年1月、歌舞伎座の観劇をみた帰り、横浜・環状2号線に入った。前の車がずいぶん遅いな、と思って追い越した。覆面パトカーに捕まった。観劇のいい気分はすっかり興醒めである。制限速度の60キロに疑問を持った。だが、違反キップがきられた。『悔しいけど、翌日、罰金1万5千円を振り込んだ』と結ぶ。
 海外でドライブする人たちには、体験に基づく各国の道路事情の紹介エッセイだけに、興味深い作品だろう。


山下 昌子  牡牛も悲しい

 
                        
 前作は『牝牛の悲しみ』を書いた。二次会の席で、「牡牛はもっと悲しいんだよ。乳を出さない、乳牛の牡は生まれると、直ぐ殺される」と言われた。どっちもつらく悲しい。
 生活クラブ発行の「生活と自治」4月号には、「乳牛の一生」というタイトルで、酪農の日の浅い若夫婦の記事があった。
  
 乳牛の出産はほとんど、人工授精が取り入れられている。雌牛の妊娠日数は約三〇〇日。牛の一生を全うするのは雌だけ。雄牛は、一ヶ月ほど育成された後、肉用牛として肥育農家に引き取られていく。(略)
 約三〇〇日間は乳を出す。その後また、種付け→妊娠→搾乳というサイクルを三~四回繰り返していく。乳の出が少なくなった雌牛は「廃用牛」と呼ばれ、最終的には食肉などになる。

「私」は残酷な人間に生まれてきたことを感謝すべきなのか。感謝して命を頂こうと改めて思った。

 テレビで、ひよこを鑑別人をみた。白色レグホンに卵を産ませる。そのためには、多くの雌が必要だ。ひよこの雌雄鑑別の技術は、人の目と手で行われる。雄のひよことなると、縁日で売られるか、豚の餌になる。末路のわびしい。

 自然の雌鶏は1年間に10数個の卵しか産まない。そして15年から20年は生きる。採卵用の雌鶏は、1年間に250個の卵を産まされ、寿命は1年半程度だ。雌鶏も悲しいが、ひよこの雄も悲しい、と作者は重層した感情を述べる。

 人間の男と女はどうだろうか。「私」の若い頃は、女性がほとんどの場面で不利な時代だった。常に差別される側だった。今度生まれ変わるなら「絶対に男に」と思っていたが、今ではどっちが良いのか迷う。その背景説明が語られている。
 オスとメス。男と女。2つの視点で追求しながら、読者には『いのち』を考えさせる。殺傷事件が多い現代では、青少年にも読んでもらいたい作品の一つだろう。


奥田 和美   大人になった

                    

 書き出しは、亡き母親の末期の病状から入る。5年前に脳内出血で倒れて左半身不随で病院に入ったきりだった。半年前からは医者に「覚悟しておいて下さい」といわれていた。身体には管がたくさん付いて、医療の力で、無理やり生かされている状態だった。「私」は母に早くお迎えがきて、楽にさせたい気持ちもあった。

 母が亡くなった。この日の「私」は外出していた。わが家から電車とバスを使って2時間かかるところだ。
 実娘と実兄のふたりが、母の死の直前まで見舞っていたらしい。酸素マスクをした母はとても息が苦しそうだったという。
 母の死は覚悟できていたが、葬式の事は考えていなかった。病院側は、遺体は霊安室に一晩しか置くことができないという。何をどうすればよいのか分からない。すべて葬儀屋の言うなりだった。なるべくお金をかけないようにと決めたが、プラスαがどんどん加算されていく。

 娘が冷静に「それは必要ないと思う」といってくれた。いつまでも「子供」だと思っていた娘が、通夜、告別式と気が利いて動いていてくれた。お茶を出したり、弁当を片付けたり、受付をしたり。そのうえ、父の墓の掃除までしてくれた。
 
 息子の次男は広告会社に勤めて丸三年が経つ。日々が、残業と休日出勤だ。上司からは「身内の葬儀は最優先しなさい」といわれて休みを貰ってきた。
「何でもお手伝いします」
 と営業マンらしいことを言う。その次男が、駅の道案内の看板が必要か、と訊いた。
「大会社じゃないんだから。うちは家族葬にするのよ」
 質素な葬儀だと教えた。それでも列する3人分の泊まるホテルの手配があった。次男が奔走した。四月初めの金曜日だ。入学、入社、人事異動など、新しいことの始まる時期からして、予約がうまく取れない。
 次男は後輩に連絡したり、インターネットでさがしたりして、どうにか部屋を取った。
 長男は友人から6人乗りの車を譲り受けていた。母の告別式が初乗り。大いに役に立った。

『まだまだ半人前だと思っていた私の子供たちが、ちゃんと一人前に役に立っているのを見て、くすぐったい気がした』と、葬儀を通して、母親の心情が素朴にを語られている作品だ。

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