A020-小説家

第20回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 エッセイ教室は今回で、20回を迎えた。芸術や文化など創作活動は、くり返しの連続で上達するものだ。文章は苦手だ、下手だと思い込んでいる人でも、創作活動を継続すれば、まちがいなくレベルが上がってくる。 


 スポーツにおいて毎回の勝利はない。エッセイも良品ばかりではない。失敗作の連続とか、スランプとかがある。感動作品だったり、ときには平板で冗漫な作品だったりする。
「書けない」と妙に気取ったり、格好つけたりして、書かないひとがいる。これは創作活動で最悪だ。絵でも、彫刻でも、文学でも中断せず、一心に続けることだ。
 やがて、「良い作品ですね」、「文章が上手ですね」といわれるようになる。いつしか、文章力の高いレベルに達した自分を知ることになるのだ。

 受講生は20回にわたり、エッセイを創ってきた。1行、1文字にもシビアな添削とか、大勢の講評を受けてきた。それに耐えてきたこと自体が貴重な財産だと想う。

 今回の講座冒頭のレクチャーでは「文体とリズム」について説明した。エッセイの領域を超えた、小説講座に近い内容だ、という認識の下で。

 文章には大きく分けて、文体とリズムの2本柱がある。

 文体はつきつめれば、作家の体質、性格、個性などによって、作家の特徴(文体)が生み出されてくる。
 人間の顔が一人ひとり違うように、文体は作者によって違う。同一の素材で、おなじ内容でも、作品はそれぞれに違う。それは文体の違いにも寄る。
 自分の文体は、書き続けることのみで確立されてくる。

文章のリズムは作品の感動や感銘にかかわる。文章のリズムとはなにか? 音楽に置き換えると、わかりやすい。音楽には強弱(動と静)が必要である。強さばかりではだめ、弱さがなければ、曲は単調になる。エッセイも同様で、緩と急が大切。ラストに向けた、起伏や盛上がりがないと、一本調子になる。
           
 文章のリズムも書きつづけることで、会得できるものだ。作曲家が一夜にして生まれないのとおなじである。

 20回目の記念。その意識もあって、作者たちは執筆に熱が入っている。良品が多かった。作品を個々に紹介したい。

中村 誠   ある紳士との出会い


 1968年は20歳代の最後の年だった。商社マンの「私」はシカゴに駐在して日も浅く、まだ家族を呼び寄せる前の単身赴任だったと、書き出す。
 商社の駐在員としての日常の仕事。ほかには、シカゴにきた取引先のお客さんのアテンド(接客)だった。

 ある日、ニューヨーク店から突然の電話があった。「日清製粉の正田社長が、これからシカゴに向かわれます。宿泊されます。空港の出迎えと、食事をご一緒してください。ご出発の日は空港まで送って頂きたいのです」という内容だった。タイトルの、ある紳士とは正田社長だ(美智子妃殿下の実父)。ウルトラ級のお客さまだった。

 ニューヨーク支店からも、領事館員も付き添わない、とわかった。
「支店長も上司も、みな出張中なので、ご勘弁願いたい」
 と断ったが、押し切られたのだ。
 新参の商社マンの「私」だが、意地で、正田さんのアテンド(接客)をするのだ。空港の送迎から、食事も一緒だった。

 会食は顔馴染みの中国料理店だった。
「駐在生活はご苦労が多いでしょう。こちらの食事は慣れましたか」
 正田さんから聞かれて、単身赴任を話す。
「温かいご飯に、醤油と生卵を混ぜて掛けたものが最高です」
 正田さんは耳を疑われたのか、
「え、ご飯に生卵ですか?」
 ご飯に生卵の美味さをご存知無いようだった、とエピソードが披露されていく。
 見送りの空港では、搭乗時間が迫り、大切なお客様である、正田さんを走らせてしまうのだ。

 作品の舞台がよくて、終始、緊張感が伝わってくる。貴重な体験であり、とくにご飯に生卵のエピソードは光る。結果として、著名人の知られざる点をあぶりだした、価値の高い作品となっている。


藤田 賢吾   タヌキの唄


『ボクは、食べ物の好き嫌いがあまりない。それは戦後の食糧難で、何でも食べる事情もあるが、母のお陰でもあった』と書き出す。
「私」 子どものころ、ニンジンが嫌いだった。すると、母は「お前は兎年だ。ウサギはニンジンが大好物だから、お前もニンジンが好きになるはずだ」という。理解不明だが、母のセリフを信じ、ニンジンを食べるようになった。

 わが家は兄弟7人、一家9人だ。母は安い肉しか買えなかった。初めて肉が食卓に出た。硬くて食いきれない。吐き出そうとしたら、母が「そのまま飲み込め。胃には《胃酸》があって、肉を消化してくれる」と諭す。《胃酸》なんて言葉は初めて聞いた。母のことばに従って飲み込んだ。
 こうした母親の諭しがつづく。
 
《大根おろし》が食卓に出ると、「ジアスターゼという、とても消化にいいものが入っている。日本の高峰博士がそれを見つけたのだから」と口にした。母親は難解な用語を持ち出し、家族みんなに食べさせようと工夫したようだ。小さいボクには、母の言葉が魔法の力に思え、何ら疑念を覚えなかったという。

 4軒長屋を移築するため、家を借りる交渉に出た。「担保はあるか」と聞かれ、連れていった小さい5人の子どもたちを指して、「この子どもが担保だ。5人いるから、1年で5歳大きくなる」と、母が説得して長屋の移築に成功した、という。
 非論理的な話で、展開していくほどに、母親が立ち上がっていく。狸の歌を知っているかと問い、「♪春が来、春が来、どこに来、山に来、里に来、・・・」と《「た」抜き》の歌を歌う。
『理にかなった話が多かった母に、茶目っ気の一面もあった』と導いてくる。

 素材はシンプルだが、テーマが明瞭で、膨らまし方がよい。とくに、『昭和の母親の子育て』として、母親の知恵の冴え方、子どもを成育させる、その情愛がしっかり貫かれ、読者を引き込んで放さない。読後感の良い作品だ。


二上 薆   よそゆきの話


 昭和一桁時代、遊び盛りの小学生のころだった。「私」は比較的、低学年から、大久保から信濃町まで省線電車で通学していた。学校から帰って、気に入った服に着替え、外へと思ったときだった。「よそゆきだから駄目よ」
 と母がさとした。 
 箪笥の引き出しには、子供たちの着衣が別々になっていた。普段のものと、よそ行きと仕分けされて収められていた。 

 当時の男子は胴まわりにゴムが入った、半袖の上着、制服のきまりはなくとも、通学時と家では服を換え、よそゆきは行く先によって服を選ぶ。こうした、昭和の家庭内が風物詩のように語られていく。

 40年前に、「私」ははじめて米国のニューヨークに出張した。オフィスビルのエレベーターの中で、若い女性がドッグを片手にもぐもぐやっていた。それに驚いていると、米国では当たり前の光景だと言われたのだ。

 羽成幸子著の『介護の達人』を紹介する。そこには『人生は山、死は頂上で誕生は裾野である。頂上に至る近くに、かならず介護を要する非常線がある』という内容が記されている。
「生まれた者は必ず死ぬ」となると、非常線に至る前には、だれもが自由な行動をとりやすい。電車の中や人前で食べようと、化粧をしようと、床に座ろうと勝手ではないか。夏はノースリーブ当然、臍だしルックという「恥も外聞もない?」という、ふるまいがなされる。かつて見た、アメリカの姿と、現代のわが国の世相とを重ね合わせている。

 越川禮子著の『野暮な人、イキな人』の紹介が続く。江戸の美意識として、他人への対応、文化に応じた礼節態度が自然体となれば、それが『イキ』だと述べている。

 自由を謳歌し自然を重んずる人間は、たった一人では生きられない。他人との共生が必要。「よそゆき」の意味は、共生社会のよきありかただと、作者は展開する。
 そして、「よそゆき」という、失われかけた言葉の余韻が心に沁みる、と結論に導いている。

 作者が書きたいこと、書き残しておきたい世界とが克明に描かれている。昭和初期の日常用語『よそゆき』から、文化論まで結びつけていく。そのロジックと飛躍的な発想や切口が面白い作品だ。


奥田 和美   箱根合宿

                    

 パソコン教室で箱根合宿をした。名前は合宿だが、楽しい仲間との一泊旅行である、と書きだす。
 小田急ロマンスカーの最後尾の展望席を陣取り、記念撮影をする。ビール、つまみ、和菓子までも用意した良い男性がいて大助かり。女五人、男二人が向かい合って盛り上がっていた。座席のちょっとしたトラブルが発生する。それら車中の情景が愉快に描かれている。

 箱根湯本では、東海道線できた男性2と合流して合計9人となる。箱根フリーパスで登山電車、ケーブルカー、ロープウエイと乗り継いでいく。スピード感のある展開だ。
 ロープウエイのゴンドラは新型で、パノラマの景色が楽しめる。雨上がりの靄のなかから対向のゴンドラが現れると、ぶつかりそうで恐くなる。大涌谷が真下に見え、硫黄の煙がアチコチから出ていたと、情景を描写する。

 ホテルに着いて温泉に入る。女湯の露天風呂からは富士山が見えるうえ、酒が用意されている。男湯には酒が置いていない。男は飲みすぎて危ないからだという。「女だって危ないわよねー」という切り口の良い会話が展開される。

 夕食は創作料理コース。夜は修学旅行のようにはしゃぐ。そして、翌朝はすごくよい天気。芦ノ湖で海賊船に乗った。成川美術館で絵と景色を鑑賞。そして、小田原城にむかう。

 コミカルなタッチで、読者が楽しめる作品である。旅立つところから、リズム感があり、勢いで読ませる。楽しい雰囲気が伝わってくる旅エッセイだ。


中澤 映子   エリザベス・アイ   動物歳時記その12


「アイちゃんが、クイーンになった」と書きだす。アイちゃんとは3本脚の犬の名前だ。クイーンとは何か、という疑問が起きる。思わず引き込まれる。

『栄光のクイーン、エリザベス一世(1533~1603)は、彼女の数々の豪華な衣装を特徴つけたのが、ドーナツ型の立ち襟だった。彼女の名前をとって、ペット用の治療に使われるエリザベスカラーはここからきた』と、犬の装備具が紹介される。

 アイちゃんが「耳血腫」となり、手術を受けた。直後から、首まわりには硬いプラスティックのエリザベスカラーがあてがわれた。完治までの約6週間は1時間たとりも外されることない。食事、散歩、寝るときも身に付けている。動くたびに、あっちこっちにぶつかり、ガサゴサ音をたてる。アイちゃんの視野が狭くなり、調子が狂っていたようだ。

 ブルーの大きなカラーをつけたアイちゃんの、手術後が語られていく。エリザベス・アイの奮闘の日々が続いた。節分の時は、一緒に豆まきをしたが、いつもはパックと食べる好物の豆を、苦労して食べていた。
 2、3回手術の経過をチェックするために通院したが、エリザベスとの縁はなかなか切れなかった。6週間が過ぎて、やっとエリザベスから解放された。、そして、軽やかなアイに戻った。走る時も、食べる時も、うっとうしさがなくなり、夜もゆっくり眠れるようだ。

 テーマが「エリザベス」に絞り込まれているので、強い求心力がある。動物愛がしっかり伝わってくる良品だ。観察力が優れているので、説得力がある。シリーズものとして、次回が楽しみとなる、ファン、読者をつかんできているはずだ。


上田 恭子  夫との別れ

       

『病院の朝は早い。窓から、大きな真っ赤な朝日が昇る。夫の病状は変わらず、血圧の上下、息の強弱、心拍数の上下はあっても、おおむね平穏。昨夜から息子と泊り込んでいたので八時頃、外に食事に出る』と、看病する妻の立場から書かれている。

 コンビニでおにぎりやサンドイッチを買ってきて、「私」は車の中で食べる、という生活だ。兄嫁が来てくれた。何となく心細い時に、案じて来てくれる人の温かさが身に沁みる。

「(病人は)、最後まで耳は聞こえるので、呼びかけをしてください」、と看護士さんに言われていた。孫たちは呼びかけが面白いらしい。祖父(夫)の頭をなぜると、心電図が即反応する。わいわいと遊ぶ。子供は無邪気でいいなと思う。そして、臨終の場へと展開するのだ。

 昨日は1日付き添ったので疲労もあり、風呂に入って元気になって戻ろうと、看護婦さんに断ってから帰宅する。家に着いてほっとする。病院から電話がきた。危険な状態に陥った。急いで車でむかう途中で、夫の死の連絡が来たのだ。
 そして、10分後、安らかな顔をした夫に会う。まだ温かいぬくもりを残していた。 
「さようなら、いままでありがとうございました」
 その一言から、夫婦の情感がジーンと伝わってくる。

 夫の死期を扱う作品だが、大げさな言葉がない。作者が自分自身を突放して書いているから、距離感が保てている。それだけに、読者の心にひびくものがある。

黒田 謙治   三木先生


『私の小学校は、兵庫県揖保郡石海村の村立学校であった。手延べ素麺の里村にあった。凍てつくような寒い朝、農家の庭先で主婦が作業をするのを登校時よく見かけた。両手に棒を摘まみ、細い素麺を丁寧に延ばすのである』と出生地の情景が述べられている。

 2年生の始業式が始まる前に、クラス編成と担任の先生が発表された。初めて見る女の先生で、名まえは三木先生という。背が高く、側で話かけるには、首を後ろに大きく反らすほどだった。お産で長期休暇を取った先生の代用として、その春に新規採用されてきていたのだ。

『三木先生になってから、「私」は毎日の登校が楽しくなった。教室で手を上げる回数が増えた。成績も随分と良くなった。休み時間中も、いつも三木先生の視野の中に居るように努めていた』と小学生の淡い心を語る。

 二学期が始まった。これから毎日、授業を始める前に、みんなの前で、それぞれに好きな歌を歌ってもらう、と三木先生はいうのだ。
「なんてことだ。私は音痴なんだ。恥ずかしいところなんか、この先生に見られたくない」
 皆は童謡や唱歌を歌ったが、私には歌えない。
 音痴は父譲りだったのだろう。父が口ずさんでいたのは、次の歌だけだっだ。

「デコ坊や もうそろそろ帰ろうか。 家(うち)ではチャメ公が待ち構えている ダンベハ。」

「こんな歌どこで覚えたの?」と三木先生は手を叩いて大喜びだった。

 その後、先生は授業参観に来た母にも「ケンちゃんは面白い子ですね」と伝えたらしい。先生は私を褒めてくれたのだろうか。

 3年生のときも、私の担任であった。音楽の成績だけは2年間とも、5段階評価の最低点であった。
 私が石海中学へ進んだ頃、三木先生は同じ小学校の先生と結婚された。私には父の転勤により、その地を早く離れたので、中学同窓会の案内がこない。

 三木先生は八十路ながら元気のようだ。「私」は最近習い始めた「高砂や、、、」の謡を聞いていただきたいと思っている。
 小学生の視点で、巧くまとめている。憧れの新任先生と、音痴という劣等感と並列させていることから、深みのある作品だ。


山下 昌子   牝牛の悲しみ


「ぬめっとして、手に吸い付く肌触りがなんとも気持ちがよい。マドリッドを訪れたとき、ロエベの本店に入って商品を眺めた。素敵なデザインのバッグがたくさん並んでいたが、びっくりするほど高価だった。 
 それでも記念に何か欲しくて小さな小銭入れを選んだ」と書きだす。ロエベのマークが型押しされた、何の飾りもないシンプルなものだ。「私」はとても気に入って愛用していた。

 あるとき、革職人に小銭入れを見せたら、「これは腹仔(はらこ)だ」といった。それは牝牛のおなかの赤ちゃんだと聞かされた。きめが細かくて、しっとりと肌触りが柔らかいのはそのためだったという。
『人間は、なんと残酷なことをするのだろう。知らないということは、恐ろしいことだ。身ごもったことのある女性なら、一層その残酷さに怖くなると思う』と、人間の残忍さへと進んでいく。

 ホルスタインは乳牛だと習った。牛乳を搾るための牛から、乳を搾るのは当然のことだと、長い間、そう思っていた。妊娠していなければ乳が出ないと氣がついた。常に妊娠させられては、乳を搾られ続けて、一生を終えるのだ。
『牝牛のことを思うと、人間の勝手さに震えた』と作者は述べる。他方で、『人間が生きていくためには、動物や植物の命を貰っているのだから、感謝して頂き無駄にしてはいけない、と心がけてきた。それでも、氣がつかずに突然、足をすくわれる思いがする』と得体の知れない、「私」の心情を掘り下げていくのだ。

 人間は本当に残酷で、身勝手で、愚かなものだと思う。まだまだ知らないことがいっぱいあって、残酷なことをし続けているに違いない』と結末に導かれていく。

「動物のいのち」鋭く、深く掘り下げた作品だ。他方で、人間のおぞましさが読者の胸を突く。作者がなぜ書きたいか、それが作品全体から伝わってくる。


高原 真   賽の河原の石積み

 妻が、日曜ぐらいは食事を担当してほしい、と常日頃こぼしていた。「私」は黙って笑って返す。心では拒絶だった。気まぐれに料理を作ることもあったが、不定期便の料理だから、家内は内心不満だ。特定の曜日は恒常的に炊事から解放されたいという願望が見え隠れしていた。

 妻は「賽の河原の石積み」のように、結婚してから50年以上も家事を担当し、これからも永劫となると苦痛だろう。

 妻が寝込んだいま、家内のこの欲求は、「私」が介護している今となると、100パーセント充たされている。炊事ばかりではない。掃除や洗濯、ごみ捨ての一切から解放されているのだ。

「私」には書斎という自分の城がある。雑然と見えるが、自分流の環境に整え、必要なものはすぐとりだせる。家内の指には触れさせない。
 炊事・洗濯・掃除のやり方は、妻とは意見が合わず、時たま衝突してきた。『その家内の城が改易でわが所領に、と下知されたようなものだ。いたしかたなく、用具などはワタシ流にすぐに位置を変え、都合のいい作業環境に直した』という。

 妻はシンクの右手にある三段の食器乾燥機が立っている。洗った食器を電気で乾燥させるものだ。新築時は洗浄器を見送り、乾燥機だけにした。だが、私は「乾燥機能」は使わない。その理由が述べられていく。

『料理は化学の実験と同じだ』と考えるのだ。その展開とロジックにはうならせられる。読み手によっては、小理屈に思えるだろうが。

 電子レンジの料理方法で、を正しくすれば短時間で処理できて、うまいという。冷凍方法の工夫では、素材の冷凍化も試みた。細片にしたニンニク・ユズ・ネギ・根ショウガのたぐいは瞬時に解凍できる。ほとんど味は変わらない。料理や漬け物の副素材として便利に使っている。

 洗濯物を乾す方法も、複数ハンガー式から洗濯ピンチの連なった式のものに代えた。洗濯物の着脱がはるかに短時間ですむ。料理は家事のなかでは、きわめて創造的な作業だ、と導いてくる。
 他方で、「家事は、手をかければ無限に範囲と作業がひろがって、まさしく「石積み」のように際限なく続く」と結ぶ。そこには作者の再発見がある。

 家事を男性の視点から、従来にない切口で読者に提供している作品だ。構成がよく綿密に組み立てられているので、奥行きと深みがある。やや盛りだくさん過ぎているが、ロジックが愉快なので、読み進むことができる。結末「わが賽の河原」までの導き方は巧い。


吉田 年男   姉の思い出


『3月9日の穏やかな朝だった。姉の一周忌法要が、筑波山が見える、曹洞宗のお寺であった』と静かな書き出しで、随筆、ということばが似合う。

『八歳年上の姉は、疎開をしないで東京にのこった。仕事をしながら家事を手伝い、母を助けていた。長女という意識が強い姉だった。母が二人いるようで、頼もしく思っていた』と生前の姉を簡素に描いている。

 小学二年生のときに、疎開先から東京に戻り、姉と再会をした。銭湯の焼け跡と判る広場が、子供たちの格好な遊び場だった。「コンドル」と言う名前の野球チームに入った。学校から帰宅後、夕方まで、三角ベースに夢中であった。

 姉が日米野球の招待券で、後楽園球場へ連れて行ってくれた。デンプシー投手の超速球、川上の赤バット、大下の青バット。選手の一挙手一動を、いまでも鮮明に覚えている。それらの興奮は忘れられないと、述べていく。と同時に、生前の姉と結びつくのだ。

 姉は勉強もよく見てくれた。また、口癖のように、「あんたをよくおんぶした、どっしりとして重かった」と、よく言っていた。そこには母親とは違った、やさしさと温かさを感じさせられた。

『死別の辛さは、頭では理解していた。一周忌を終えて、今、それを実感として受け止めている』と結んでいる。

 素材がテーマ「姉と、幼い私」に絞り込まれているので、求心力の強い作品になっている。『母が二人いるようで、頼もしく思っていた』という1点から、弟の目から見た、姉の全体像が浮かび上がる。姉の一面を的確にあらわした表現だ。さらに付け加えると、構成のしっかり作品である。


青山 貴文   住み込み店員時代 (1) コップ酒

 
 
 浪人一年目の春にまたも大學受験に失敗した。「私」は2年目の4月から遠縁の酒店に住み込んだ。麻布十番唯一の酒店で、仙台坂の途中にあった。午前中は勉強させてもらい、午後昼食から、夜食まで店番や配達をしていた。

 当時の仙台坂近辺や酒屋の店内が描かれている。「私」は店頭机の前に鉢巻と前掛けして、壁を背にして店主気取りで活き洋々であった。

『夕方になると、ニコヨン(日雇い労働者)の群れが、コップ酒を飲みに立ち寄った。机の周りを囲んだニコヨンたちの人数分の小皿をならべその上にコップをのせる。次に、私の前の専用皿に、この酒店専用の朱塗りの一合枡(マス)を両手で静かに平らにのせる。彼等の求めに応じて、枡いっぱいに酒を注ぐ』と、浪人生とニコヨンの息遣いが伝わってくる。

「私」は一升瓶を両手で持って、枡一杯になみなみとつぐ。『膨らんだ酒は持ちこたえられず、ついに枡の一端からあふれ出る。そして平皿にしたたり落ちる。このしたたり落ちる量が多いほどお客は喜ぶのである』という体験による描写だけに、リアルに富んでいる。

「小僧さん気前がいいね」といい、ニコヨンは口をコップに近づけて飲む。最後には、受け皿にこぼれた酒を一気に飲んだ。

 店番が暇になったり、ニコヨンが帰ったあと、「私」はふと我に返るのだ。「自分の行く末をかれらに感じ、こんな生活していてよいのかと心細くなった。しかし、受験に落ちたのだから仕方なかった」と、浪人生の苦しい胸のうちを露にするのだ。

 店内描写はやや書きすぎだが、作品の舞台がわかりやすく、若いころの体験や心情がよく表現されている。鉢巻と前掛けした、住込み浪人生の酒屋の日常と、夕方現れるニコヨンたちに、将来の自分を重ねる。不安定な青年の心を描く。それだけに、青年の心情には共感を覚える作品だ。


森田 多加子   白いソックスの人  私の出会った人 (3)

                     

「軽いウエーヴのある髪が額に少しかかって、真っ白いソックスが目立っていた」。彼は高校の入学式で、ちょっと大人びて見える、目立つ生徒だった。「私」は、彼がどこから来たのだろうか? とその日から気になった。書き出しから、青春の恋心が伝わってくる。

 彼が広島からこの門司に来た、クラブ活動は英語だとわかってきた。「私」は一番不得手は英語だったが、テニス部をやめて、英語部に移った。それからの勉強は英語ばかり。単語は必死でおぼえた。英語の成績が張り出されると、彼が1位。そのうち10位以内に「私」の名前も出るようになってきた。恋心からくる、熱烈な努力が描かれている

 2年生の学園祭では英語劇「ヴェニスの商人」だった。主役の高利貸しシャイロックが彼、ポーシャ姫が私。決定した瞬間、うれしくて誰もいない裏庭に行ってしゃがみこみ、両膝の中に顔を埋め込み、歓喜を味わったのだ。

 次の日から長いセリフを必死で丸暗記した。舞台装置やコスチュームなども、出演者が中心になって作った。関係者全員が仲良くなった。4、5人で、よく裏山に登った。みんなで、映画の内容や将来のことを語り合った。
 シャイロックの彼はウイーンに行きたいという。ポーシャの「私」は小説家になりたかった。

 彼が大学を卒業して、朝日新聞社に入ったことは知っていた。
 30年後、友人の話では、彼は身体を壊して郷里で療養していると知った。門司の母を訪ねた「私」は思い切って電話をかけてみた。『彼の妻から、彼があと数日の命である、と聞いた時は一瞬声が出なかった』。
 一人では会う勇気がない「私」は友人を誘って病院に出かけた。『彼は少し小さくなった顔の、深い淋しげな目でじっと私を見た。こみ上げそうになる涙をこらえて笑いかける。「わ・た・し、わかる?」と訊くと、彼は黙ってうなずいた』。

 ベッドの側の花びんには梅の花が活けてあった。彼は穏やかな笑顔で、教子という「ヴェニスの商人」の英語劇の仲間が見舞ったものだと教えるのだ。教子は彼のことが好きだったのだ。「私」と同じように。
 病室から廊下に出たとたんに、「私」の目からは涙があふれ出た。そして、東京に帰ってきて数日後、訃報が届いたのだ。

 青春の恋心がしっかり描かれた作品だ。結末では、彼の死因の一端が広島の原爆病が影響しているのだろうか? と読者に疑問を投げかけている。それが全体を受け止めている。好感度の高い、読後に余韻がしっかり残る作品だ。


塩地 薫   最後の寮歌録音

「ダッダッダッダッダッダッダッ」と騒音が響く。
 
 8月末の土曜日の午後だった。都庁に近い「地域センター」の会議室に、五高・昭和24年修了の有志16名が集っていた。一時間半ほど経つ。窓から建設工事の雑音が飛び込んでくる。それはとてつもない響きだった。
「こんな状態で録音できるかな?」
「やってみるしかない。何とかなるさ」
 「私」は強行する態度を貫いた。

 先輩が私に電話してきたところに、場面がさかのぼる。東京五高会の会報に投稿した私の「50年ぶりの寮歌」がきっかけになり、思わぬ、良き展開となっていくのだ。
 それは五高開校120周年記念行事の一つとして、寮歌集のCDを作る、それに加えてもらえることになったのだ。
 当初の計画は85周年に作製したレコードの復刻のみだった。「君たちが作った最後の寮歌『黎明(しののめ)の鐘』の評判がよいから、それだけを急遽、追加することにした」と、ありがたい誘いが舞い込んできた。その録音作業の風景が克明に描かれているのだ。

 録音に先立つこと、友人の音楽家が、「100万円あれば、スタジオを2時間借り切って、オーケストラの生伴奏で録音できるよ」とアドバイスしてくれた。寮歌「黎明(しののめ)の鐘」にたいして、そんな大金を提供する者はいない。オーケストラは似合わない。似合うのは大太鼓だけだ。

 紆余曲折の末、新宿センターの会議室で、無伴奏で録音することになった。録音機の選定にも、あれこれあった。
 寮歌は歌う前に、リーダーが即興の巻頭言や歌詞の1行目を吟じて、「アイン、ツバイ、ドライサー」と、歌い出しをリードする。「黎明の鐘、野に響き」はしぶい、しわがれ声と吟じ方がぴったり。その観点から、寮歌の歌い手が人選されていた。

 部屋を借りて1時間半ほど過ぎても、録音には工事の雑音が入っている。2時間では、満足できる合唱の録音はできないのか、と案じた。時間切れ寸前の録音が、雑音もあまりなく、一番まとまっていた。これを完成版とすることに決めたのだ。そして、新宿の飲み屋街で打ち上げ会が行われた。

 1年後には、五高開校120周年記念の「龍南寮歌集」が、東京五高会から発行された。CDを聴くと、「黎明の鐘」は、かつての寮歌と遜色なく、寮歌らしい寮歌に仕上がっていた。気になっていた工事の雑音も、全く消えていた、と結ぶ。

 『寮歌』を知るもの、知らないもの。世代によって、この作品の価値観は違ってくる。まったく理解できない世代でも、新しい「寮歌」を残そうとする、努力は伝わってくる。同時に、録音環境の悪い条件の下で、収録に努めていく人間像と、その熱意が読み取れる作品だ。
 作者「私」の功績が鼻につかず、目障りにもならない。それは押さえの利いた文体で、淡々と描き進んだ成果だろう。同時に、作者の人柄だろう。

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