A020-小説家

第19回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 冒頭の30分間レクチャーでは、エッセイには大づかみに四つのジャンルがあると分類してみた。『エッセイの書き方は一律でなく、ジャンル別に展開のコツがある』と話した。それらを常に念頭において書くと、読者に感動を与える作品につながる、と強調した。

① 経験エッセイ
   負の経験を素材にすると、読者の共感を呼ぶ。:告白したい体験、懺悔の気持ち、醜いと感じた自分など、それらをあえて選んで書く。

② 旅エッセイ
   情景描写が豊かになる書き方をする。風月花鳥を挿入したり、擬人法を取り入れたり、・短歌、俳 句、詩などで、気の利いた言葉があれば、取り入れてみる。

③ 記録エッセイ
   対象(出来事)は絞りに絞り込む。ストーリーで書くと失敗しやすく、単なる記録文になる。ひと伝えに聞いたことは、まず失敗する。自分が体験したこと、見聞したことで書く

④ 日常生活エッセイ
    主人公(私)は前面に出す。まわりの人物(妻、子)は舞台装置にしてしまう。濃密な文体で書く。センテンスにリズム感を持たせば、読者は引き込まれてくる。

 今回の作品紹介は、前回に続いて書き出しに拘泥してみたい。教室では毎回、どの作品においも、書き出しにたいするコメントを入れている。導入文、リード文。それらの役目は重要だ。
 作品の素材や内容がよくても、書き出しで失敗すると、読者が読んでくれない。成功すると、途中で多少の破綻があっても、最後まで読んでくれるものだ。

印刷して読まれる方は、左クリックしてください

 

中澤 映子 動物歳時記 その11 天国のシッポに逢えたナッちゃん」


 

 春がまだ浅い2月の下旬、ナッちゃんのお葬式を行った。
 庭の片隅には小さな穴を掘った。早春の光の中で、ナッちゃんは安らかに眠ることになった。落ち葉のカーペットの上で、色とりどりの花に囲まれて……。

 あまりにもあっけなかった。
 ナッちゃんが息を引き取った後、2日間はお通夜をして、別れを惜しんだ。わが家のみんなで入れ替わり立ち替わり、ナッちゃんの安置してある部屋に入り、籠の中にタオルでくるまったナッちゃんにお焼香をし、チンとカネを打ち、拝んだ。そして、2日後のお葬式。顔のまわりに花を添え、みんなで土を少しずつかけ、小さな山を作り、その上に水とキャットフードをのせ、花とお線香を立てた。
 お線香の青い煙と伽羅の香りが立ち込める中、みんなで手を合わせた。愛犬アイも式に参列して、後ろで神妙に控えていた。

 ☆ここまでが書き出しだ。猫の臨終から、その後が書き込まれている作品だ。『ムーちゃん(本名、ムート)とナッちゃん(本名、ナツキ)は相思相愛だった。毎日のようにベランダのベンチに寄り添うようにして日向ぼこをし、時にはお互いに舐めあったりして、とても幸せそうだった』。こうした猫のラブロマンスが作品の広がりを見せている。
 動物愛に満ちた、読み応えのあるエッセイである。同時に、しみじみ生命の尊厳を感じる作品だ。


奥田 和美   人の縁

                       
 小林夫妻から『何とか5年続いています。昨年はメキシコに行ってきました』という年賀状が届いた。
(良かった。まだ仲良くしている)とほっとした。この二人を引き合わせたのは私なのだから。

 六年前、私はマンションのモデルルームの案内係だった。モデルルームはオープンしたときや広告を出したとき以外、ほとんど来場者がない。特に平日はとても暇だ。その日は所長が本社に行っていたので、事務所は先輩の松井さんと私の二人きりだった。

 36歳の独身男性社員のことが話題になった。
「坂下さんは、いい歳だけど、自分の娘の旦那にはしたくないわね」と松井さん。
「そうですね。なんだか、すごく遊んでいそう。私の知り合いで、小林栄一さん、という、よい人がいるんですけど、41歳なんです。娘にどうか? と言われても、歳が離れすぎているので断っているんです」と私。
「あら、小林さんって、どんな人?」
「私のテニス仲間です。ゼロックスの研究室で仕事をしています。理系の人って、女の人に出会うチャンスがないから、気がついたら四十過ぎちゃったみたい。真面目で優しくって、すごく良い人。ヨットもやるんですよ。」
「まあ、小林さんって、いいわね」

 ☆書き出しでは、女性の日常的な会話。こんなたわいない話から、「身上書」と写真を交換し、一組の夫婦が生まれる過程を描いていく。
「結婚の縁、人間のめぐり合わせ」という面白い切り口。ユーモアとリズムがあり、楽しい作品だ。


山下 昌子   大男と私

                           

 陽射しの照りつける真夏の昼下がり、いつもの坂道を自転車で上り始めた。額から汗が落ちる。ペダルが重い。うーん、残念。とうとう上りきれずに自転車を押しながら一歩一歩、坂を上がった。69歳の夏だった。

 秋風が吹き始めた頃、いつもの坂を自転車で上ってみた。なんだ、上れるではないか。あれは陽気のせいだったのかとほっとしながらも、幾つまでこの坂を上れるのかと思っている。
 立ち漕ぎをしたときのペダルにかかる私の体重は42キロ。大男だったら楽々と回転力がつけられるが、体重の少ない私にとって、坂道の自転車は不利に思える。

 ☆書き出しから、「私」という人物がしっかり描写されている。この先は、アメリカ生活に入る。「私」の3倍もある大男が、キッチンの修理にやってくる。大きな作業靴で土足のままキッチンに入ってきたり、鼻歌交じりの仕事ぶりだ。小柄の「私」は、早く修理が終わって欲しいと願う。
 アメリカの大男は大量生産、大量消費型の人間だ。『私は省エネ人間なのである。多分、大男の3分の1程度のエネルギーしか使っていない。ということは地球環境に付加を余りかけていないエコライフを実践している』と結末に導いてくる。
 書き出しから結末までの、ストーリーの運びがよい作品だ。体重、体格を地球環境に置き換える、作者の切り口には味わいがある。


吉田 年男   お別れ会


 節分の日は、朝から雪がちらつく、寒さだった。
 引越し業者の大きなトラックが2台、隣のKさん宅の前に止まった。
 Kさんは57年間、住みなれた一軒家から、東村山市のマンションへ、引越しをする。持ってゆく荷物は制限される。多くの荷物を処分しなくてはならない。母親の形見である、着物や帯などの処分は、思うようにはかどっていない。

 一週間まえに、我が家で、ささやかなお別れ会をした。
 70歳をすぎたKさんは、いつもとちがって、何となく元気がない。引越しの経験がないKさんは、半世紀も住んでいたところを離れる不安が顔に表れている。何もいわなくても、親の代から、付き合っているのでよくわかる。詳しい事情はわからないが、引越しは、かれにとって一大決心であったに、ちがいない。

 ☆書き出しでは、長年住み慣れた土地への愛着が、隣人の引越し借りて描かれている。結末では、『別れと、出会いは、乗合バスの乗客のようなものだ。乗車駅も降車駅も、それぞれ違う。Kさんとの別れも、そう考えればいい』と作者の言いたいテーマに結びついている。
 文体のしっかり作品だが、「私」よりも、Kさんの比重が高かった。その点がやや悔やまれる。


高原 眞   コトバへのこだわり


                           

 「○○会」と銘打って定期的に講演会を提供している会社の受講会員になって十数年になる。その会社から先日、封書を受け取った。封筒に「請求書在中」と朱色の大きなスタンプが押してあった。講演の実況をCDやビデオテープなどにして有料で会員に頒布もしている。だが、(それを注文した覚えはないが・・)と封を開けてみた。書類には「御請求書」と大きなポイントで標題が印刷してある。そのあとの文面には、
 拝啓 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます
 日頃は当社に格別のお引き立てをいただき、厚く御礼を申し上げます
 さて 本日は請求書をご送付しましたので、ご査収下さいますようお願い申し上げます 敬具
とあり、ついで「請求明細書」と明示した帳票形式で、来る4月からの一年分の会費の額が書いてあった。会費を納めて欲しいというものなのだ。

 ☆書き出しが説明文になっている。この点では、読者がやや身構えてしまう。文章の圧縮が欲しかったところ。この後の展開では、『会費の自動引き落としがサービス? なんだこれは。会員へのサービスなんかであるもんか。自社の都合だ』と作者の怒りが伝わってきて、共感できる。
 日常の見逃しやすい一点に、「請求」という、一つの言葉にテーマを絞り込んでいる。それだけに、強い吸引力のある作品だ。書き出しはできれば、ポストで手紙を受け取る。こうした情景描写から入って欲しかった。ストーリーの展開には円熟の妙がある。


森田 多加子   春の旅立ち


 電車内の暖かさは程よくて、乗り換え駅の上野までの四〇分、うとうとしてしまう。顔をあげると、なにやら白い小さなものが前を横切った。小人の落下傘のようなものである。目で追うと、一人おいた隣の席で、よく眠っている若者の頭の陰に隠れてしまった。

 タンポポの種子だろうか。親から離れて電車に乗って、これからどこに行って根をおろすのだろう。ふと息子のことを思った。

 もう20年も前になる3月のある日、高校時代の親友が久しぶりに訪ねてきた。話すうちに、私の心はすっかり10代に戻っていた。
「数学の佐々木先生を怒らせたことあったわよねえ」
「そうそう。怒った、怒った。時間中にまん前の席で、私たち二人が紙縒り(こより)を作っていたるんだものね」
「授業受けたくないのならやめますって、先生出ていっちゃった」

 ☆書き出しは、さりげなく電車の情景から入る。『タンポポの種子だろうか。親から離れて電車に乗って』どこかに根付く旅に出ているのだ。愉快な表現であり、隠された伏線だと後から知ることになる。それだけに、書き出しはいいリード文だ。
 高校の親友とたわいなく語り合っていた。社会人となった息子が自宅を出ていく。息子が独り立ちする、会社の寮に入る、特別な日だったのにしっかり見送ってやれなかった。母親の後悔につながっていく。
 他方で、息子が幼子だったころの回想に入る。そこからは母子の情感と愛情が伝わってくる。結末では、『電車に乗って遠くまで移動していた種子のように、次世代に引き継ぐために、順に巣立っていくのだ』とタンポポの伏線と巧く結びつく。旅立つ息子を送る、母親の寂寥感が出ている作品だ。


青山 貴文   恩 師


 昨年10月、立川で中学時代の同窓会があった。
 3年毎に開いている。私が出席始めたのは6年前で、定年退職して暇になったからである。今回で3回目になるが、中学3年の担任教師にはまだお会いできていなかった。

 この担任の先生は、社会科担当で、背丈は低いが、太っていて、青白くどこか威厳があった。髪はボサボサで、太い黒縁の眼鏡をかけ目が鋭く、怖い面相をしていた。反面、人なつこい優しい話し方であった。ひげ剃りあとがいつも薄青白く、年格好は35歳くらいで、まだ独身であった。

 年老いた母親の面倒をみているので、担任は結婚できないでいる、と噂されていた。担任はいつも大きな世界地図の巻物と、槍のような掛け軸をかついで教室にやってきた。入り口では掛け軸を大きな音をたてて、床に突きたて、目をぎょろつかせて教室に入ってきた。
 前の授業で習ったことを、数人に聞くのが常だった。生徒が返答できなかったりすると、掛け軸で威嚇し、座らせてくれなかった。

 ☆書き出しで、名物教師を描く。読者が魅力ある人物に感情移入してくれたならば、最後まで読んでくれる。時代が数十年後の「私」の立場になる。
 中学の同窓会にも、恩師は足が不自由で欠席。「私」ひとりは、高尾に住む恩師に訪ねるのだ。庭には雑草が生い茂る。呼び鈴を押すと、温厚そうな老人が小さな玄関に現れた。『現役の頃の堂々たる、人を威圧するような姿はなかった』という半世紀ぶりの再会から、ふたたび中学時代の運動会の俵かつぎリレーでの失敗談に入るのだ。担任教師の特徴を上手に捉えた作品だ。


藤田 賢吾   四代目テレビ


 冬季オリンピック大会が近づいた1年、札幌の町中にトワエモアの「虹と雪のバラード」や「世界の友よ、札幌で会いましょう」の歌が、いたるところで聞こえていた。ボクらも、それらの歌をよく歌った。
 結婚したとき、独身時代に買ったテレビをそのまま持ち込んだ。転勤したとき、まず会社の方から、テレビを買うようにいわれた。東京で放映されたCMが、確実に札幌でも見られるか、モニターするためだった。
 カメラをもって、テレビの前で待ち構えて、CMが出たらシャッターを切るという作業だ。安月給だから、四本脚の小さなテレビを買わざるをえなかった。

 冬、妻と二人でテレビを見ていたら「こちら真駒内アイスアリーナから、アイスホッケーの中継中です」と報じていた。
 急いでベランダからのぞいてみると、アイスアリーナに煌々と灯がついている。我が家から、雪道を歩いても、5分そこそこの距離だ。テレビを消して、「それっ」と会場へ急いだ。
 実はアイスホッケーなんて今まで見たこともなかった。ソ連、カナダ、チェコスロバキアという世界の強豪が集まっている。ルールなんて全く知らないながら、試合はとにかく、おもしろい。パックの行方を追っていると、リンクの端の方では双方ケンカをやっている。テレビカメラは、競技を中心に撮っているので、ケンカを放映できない。テレビには映らない痛快さである。

 あの頃は、ソ連もチェコも共産圏だから、ついカナダチームに肩入れしたくなる。思わず「イケッ!」と大声で叫んでいた。それ以来、アイスホッケーにのめりこんだ。

 書き出しでは、夫婦とTVを関連付けた、時代的な説明文となっている。それはタイトル「四代目テレビ」影響を受けているからだ。タイトルの幅が四代と広すぎた面がある。
 71年の札幌冬季オリンピックの観戦描写からは、リアリティのある、スポーツの興奮が盛り上がる。その後の展開で、東京勤務で、横浜住まい。生活が急に苦しくなった。それでも、翌年にはオリンピック 本番に、一番人気の女子フィギュア10枚を購入した。郷里・石川から母が遊びに来た。「なんだ、これは・・・白黒じゃないか」という。実家は、もう既にカラーなのだ。ポンと、お金を出して「テレビを買って来い」と言う。
 3台目は33インチのテレビだが、20年以上となると、ブラウン管も衰えたのう、『ボクらが年をとると同じように』、次第に見るに忍びないものになってしまった。今や、デジタル時代だとつづいてくる。生活実感が伝わってくる作品だ。


中村 誠   庭の様(さま)変(が)わり

 

 今年の節分は2月3日の日曜だった。
 いつもとは違い、鳥たちの鳴き声が聞こえず、静かな朝だ。寒さを蹴とばすように思い切って寝床をはなれた。前の晩から降り出した雪で、庭一面は真っ白。まだ音も無く降っていた。

「雪の上にばら撒いたが、鳥たちは判るかな」
 私は日課となった、残飯とパンくずのえさ撒きをしてから、食卓に戻った。案ずるまでもなく20数羽の雀たちは集まった。みんな寒さでふくらんでいる。めずらしく尾長鳥もやってきて、雀が邪魔しない限り仲よく残飯をつつくのに夢中だ。だが、雀が近寄りすぎると、さすがの尾長も嘴で追いはらう。見ていて飽きない。
 翌日の立春は、陽の光が射してきた。
「リンゴを切ってあげたわ」
 家内が置いた四つ切のリンゴに、めじろのつがいが監視役と、食べる番と交代で突ついている。実に仲が良く、窓ガラス越しに私の姿を見ても逃げようとはしない。果物に目の無い尾長は、何処からか飛んできてめじろを追い払い独り占めする。だが、私に気がつくとさっと逃げる。その間、めじろは木陰にひそみ、尾長がいなくなるとリンゴに戻る。人なつこい身のこなしで、実に愛嬌がある。

 書き出しの庭の情景描写が良い。鳥たちの観察力がよいので、作品全体から、情感が快く伝わってくる。「私」夫婦と、メジロのつがいが上手に重なっている。
 この先、『悪がきのカラスと同じように悪さをする輩(やから)と、思えてならない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の心境だ』と心理描写が書き込まれている。『立春も過ぎやっと暖かい陽の光が射して、庭木や、屋根から雪がすっかり消えた。この先は明るい春の舞台が期待できそうだ』と結末に結びついてくる。鳥たちの舞台が展開された、日常エッセイの深い味わいがある。
 

塩地 薫   最後の寮歌誕生

                  
 
 敗戦後の学制改革で、全国に38校あった旧制高校は、廃止されることになった。昭和23年、私は熊本の五高に入学したが、高校生活はたった1年間、1学年修了で終った。それだけに、私たちの同期生は、この一年に対する想いが単なる通過点と思う者と、3年分を熱く凝縮させる者に二分される。

 旧制高校は本来全寮制で、自由と自治の寮生活を中心に、寮生が自ら作詞作曲した寮歌を歌っていた。私にとって、五高の思い出は寮歌であり、青春だった。その五高の習学寮には戦後作られた寮歌がない、そう思っていた。

 同期の会は、平成10年秋に、五高入学50周年の記念大会を、初めて東京で開いた。熊本では数十名しか集らないが、東京では百名あまりが集った。大半は50年ぶりの再会だった。その中の一人が、習学寮にいたとき、当選寮歌が発表されたことを覚えていた。同期の杉野君の作詞だったという。
 本人に確かめてみたが、照れて応じようとはしなかったらしい。杉野君はテレビ東京の会長なので、同期の一人から東京代表幹事役の私に「プッシュしてほしい」と、年の暮れに依頼状が届いた。
 それを見て驚いた私は、これは埋もれた快挙であり、その公表は、これから作る記念文集の特種だと感じて、すぐ動いた。

 書き出しは、旧制(五高)と新制(熊本大学)の学制改革の境目にいた、学生たちの立場の説明や想いから入っている。旧制高校とか、その寮歌を知ると知らないでは、この作品の味わいが極度にちがう。寮歌を発掘し、それに曲をつけていく。まさしく、書き残す作品、記録としても価値あるものだ。その面からは高い評価を得られるだろう。

『五高開校120周年を記念して作られたCDの寮歌集にも、最後の寮歌として急遽追加され、記念大会で歌った時、私は生みの親、育ての親として紹介された。この最後の寮歌「黎明の鐘」が、後世まで、より多くの人に愛唱されることを祈っている』と作者の願いで結ばれている。(敬意を表し、原文を記す)

 一、黎明の鐘野に響き 紅(くれない)染むる武夫原(ぶふげん)に
   仰ぎて集う若人の 胸に溢るる白金(しろがね)の
   高き理想(おもい)を君知るや

 二、阿蘇の噴煙やすみなく 六十路(むそじ)の色の移り来て
   平和(やわらぎ)の歌満つる時 饗宴(うたげ)の空の遥けきに
   懐旧(かいきゅう)しばし息(や)みがたし


上田 恭子   あれなあに?

   

「どうしてそこにいるの?」と私。
 夕食時に息子が我が家にいることは、今までなかったことだ。
「いや、どっちが正気なのかなと思って見にきた」
 その時、私には意味が全く分からなかった。
「恭子がおかしいんだ、ちょっと来てくれ」
 という主人の内線電話で、息子が我が家に、それを確かめに来た、ということがあとで分かった。
 (中略)
 食事をしながら「あれ、なあに?」と私は指した。
「さっき愛のために持ってきたビデオだろ」と主人が怪訝な顔をした。
「ふ~ん・・・」
 しばらくしてまた「あれ、なあに?」と私はおなじように指した。
 さすがに主人も異変と思ったらしく、それで息子に連絡をしたようだ。

 その頃から少しずつ主人の変調に家族間で気がついていた。そのおかしいという人から「おかしいんだ」と連絡があって、どっちがおかしいのかと、息子は思ったらしい。

 ☆人間はだれしも、ある年齢に達すると、「老い」と向かい合うことになる。脳細胞の梗塞、萎縮などに現れる。
 書き出しは、異変、変調がじわじわと「私」に忍び込んできた、という顕在化から展開される。息子が訪ねてきた。「私」の異変の確認だと知るまで、不可解に、不気味に展開されていく。得体の知れない「老い」の恐怖が、作者が距離を置いて書いている。それだけに、「私」の立場が、強い吸引力になっている作品だ。


二上 薆   ある読書子の感想 ートラ・トラ・トラー


 曇なく 千年にすめる水のおもに やどれる月の かげものどけし
               紫式部 (新古今集巻第七)

 新しい年明けである。世界に誇る古典、紫式部の源氏物語は千年の年という。戦乱の20世紀は終わって、かりそめの平和が続くかに見える世界に、地球温暖化が押しよせる。澄める水がいつまでもつか。この地球上に人類が生き残れるか、どうかのおそれが内在している。一方、過ぎし戦いの世代、心に残った傷跡は癒されたのだろうか。

 年賀状を頂いた。「『…の回想』を読み太平洋戦争の知識の整理が出来て新年を迎えました」と。お国のためにと軍人となり、勇躍満洲へ、不幸にも若くして戦陣に斃れた長兄に深い思いを捧げ、自身もやがて軍人に、国のためにとの強い思いは、国民学校半ばで敗戦となった。
 教科書は墨で塗りたくられ、『忠君愛国、君に忠、親に孝』、今までの教えが180度変換をさせられた。一体、長兄の死は何だったのだろうか。人の生き方として何を思うべきか。60余年の歳月は経った今、心優しく誠実そのもの友の想いが、「整理できて」という短い一句には、こもっているように思える。

 ☆書き出しは、紫式部・源氏物語の万葉調の、奥行きがあるリード文から入っていく。太平洋戦争で、時空を止めて、作者の想い、考え方が述べられていく。他方で、「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」という書物から、戦争未経験者にはなじみがない人物を掘り起こす。

 淵田美津雄さんは39歳、当時中佐として、ハワイ真珠湾攻撃に参加した。攻撃成功の信号、「トラ・トラ・トラ」を発信した、海軍航空隊の総指揮官だった。敗戦。重傷を負いながらも、幸い生き延びて大佐で敗戦。ミズリー号上の降伏調印の立会った。昭和25年には、キリスト教徒として回心、洗礼を受けた。かつての敵・米国をはじめとする世界伝導の旅に出た。
 作者は、大和武士とクリスチャンとの段差を示しながら、「世の批判を意に介せず、深く学び研究するし、これは、と思ったら徹底的にやりとおす、見事な像の表現かもしれない」と導く。
 そのうえで、『戦いの実態、歴史的事実と、一人の人間の目的に向かっての徹底的な生き方を見せてくれる。知友、これにより心の整理も出来たのではないかと思う』と最後の一行に結びつくのだ。
作者の考え方と人生観。その視点から、淵田美津雄さんの回想と自叙伝を掘り下げていく。「人間とは何か」というテーマに結びつく、重厚な読み応えある作品だ。

黒田 謙治  九月十日に清涼に侍すって ほんと? 
                       漢詩 「九月十日」を考える


 天下の大学者である、菅原道真公は9月10日の朝筑紫国大宰府にて「去年の今夜清涼に侍す 愁思の詩篇独り断腸」と苦しい胸の内を漢詩で表現されました。
でも、少々変ですね。
「六日の菖蒲」「十日の菊」と言えば時期を逸して少々間の抜けたことを揶揄する言葉です。道真公もこの間抜けの仲間なのでしょうか。そんな筈はありませんね。結論を先に申しましょう。この詩の「去年の今夜」とは九月九日の夜のことなのです。
 この詩が書付けられたのは、本人が「重陽後一日」(「後朝に記す」と書かれたものもあり)と注記していますので、10日の朝であることは確かなことなのです。
 本人が10日の朝に「今夜」と言っているのだから、10日の夜に違いないと、ほとんどの人が解釈しています。それはまさに「十日の菊」のような間の抜けた解釈なのです。

 正しい解釈をして見ましょう。
 当時の一日は前日の宵(夕べ)から始まり、翌日の日暮れに終わる、と考えられていたのです。たぶん、その始まりは縄文時代へ遡るのではないかとさえ考えられるほど、日本人の心に長く刻まれていた生活習慣だったのです。◎
 証拠を挙げてみましょう。
 昔のは重要な行事は、特に「まつりごと」は全て夜間に行われておりました。結婚式も華燭の典と言われるように、夜に執り行われました。宮中での神への祈り、民間での神事なども、全て夜にしか行われませんでした。

 ☆書き出しは、『菅原道真公は間抜けの仲間なのでしょうか』という疑問から、読者を巧く引き込む。ミステリアスな導入で、学術的な推理が随所で展開される。文体がしっかりして、論旨も明瞭だから、強い説得力がある。現代の学説かと信じ込んでしまう。テーマが絞り込まれた、深みのある作品だ。


 

「小説家」トップへ戻る