A020-小説家

第17回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

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 30分間の冒頭レクチャーは、「題名」について取上げてみた。
 

 本を買うか否か、作品を読むか否か。読者は「題名」自体で決めたり、書き出しの数行と合わせて判断したりする。読者が作品の最初に出会う「題名」が悪ければ、手に取らず、作品を読まずになったりする。

 過去からプロ作家による、「エッセイ作法」「小説作法」の書籍は多く出されている。『題名』となると、どれも決定打がない。
 この「題名」はクセモノで、定石はない。作品の内容がよくて感動すれば、「題名」は光ってくるものだ。

 そこで、タイトルのチェック・ポイントタイトルを決めるまでサブタイトルの3点つについて、講義をした。

 今回のエッセイ作品には、良い題名が多かった。それらも事例研究とした。

山下 昌子   ちろり

                          
 この題名「ちろり」は優れている。日本伝統から消えかけた、酒文化の用品が光ってみえた。
 サロンの二次会の居酒屋で、「私」はアルミ製「ちろり」に入ったお酒に接した。燗酒を飲む父と、錫製「ちろり」燗をする母を思い出すのだ。

 当時の「私」は未成年、錫のちろりの燗酒の味は知るよしもなかったのだ。大人になり、電子レンジで温めたお酒は美味しくないと判り、お燗は湯煎だと思った。『今になれば、錫のちろりでお燗したお酒を飲んでみたい』と思うのだ。

 お酒を温める器は錫製が最高で、酒をまろやかに美味しくする。手ごろなものは五千円くらい。手作りのものは二十万円近くもする、と作者は紹介する。
『昔、我が家にあったちろりは、一合用の小さなもので、ピカピカ光らず、つや消しのような色合いで、取っ手には細い竹がくるくると巻かれていた』という。

 晩年の父はウイスキーのオンザロックを飲むことが多かった。『冷蔵庫の製氷室から氷を持ってくる。父が氷をグラスに入れる。その上にウイスキーを注ぐトクトクという音色。マドラーで静かに混ぜると氷がゆっくりぶつかり合う。グラスの中で氷が自然に融けるかすかなひびき』という緻密な描写が光る。
 酒を通した、親子の情愛が伝わる作品だ。


中村 誠   飛来する鳥たち

                          

 小春日の12月初旬。二階の各部屋のシャッターを開けると、その音を聞きつけた、すずめたちが餌を催促して賑やかにさえずるのだ。
 妻は毎朝、鳥たちにパンくずと米を用意している。「私」はその餌をもって庭先に出る。一、二羽はハナミズキの枝に残り、ほかの十羽以上は隣家の屋根にさーと散る。決まって同じ団体行動をとる。
「私」が撒き終わり、居間に戻ると、一斉に庭に下りてくる。ガラス越しに眺めると気分が落ち着く、と「私」の心情が描写されている。

 大きなパンくずを撒くと、トビが電信柱の先端から、すずめたちを追い払い、さーと来て持っていく。「私」が、トビと目が合い、パンを上に放り投げると、器用に掴んでいく。他方で、仲間のトビ二、三羽が頭上を飛び交う。

 椿の白い花が二、三輪と咲き始めると、めじろがつがいがやって来る。めじろは器用に花の蜜を吸う。つがいの相手は何処かで安全の監視をしているようだ。そして、歓迎しないカラスに展開が変わる。

 野鳥の習性をつぶさに観察し、「私」とのふれあいが描かれている。情景のなかで、季節感が上手にとらえている。夫婦の結びつきがわずかな会話の中からにじみ出ている。
 読後感の良い作品である。


青山 貴文   笠の雪


 76歳の母が、胃カメラ検査のときに痙攣を起こし、脳梗塞から左半身不随となった。退院後の半年は、廃人のように押し黙って一言も発しなかった。ここから家族の看病がはじまる。家族全員だが、主として妻がやってくれた。

 数週間後、リハビリの先生が週一回はやってきた。硬く変形し動かなくなった手の平や指先を揉むと、脳細胞を刺激して、脳細胞が活性化してくるのだという。テレビを観るとき、食事の際の茶碗のもち方などが、細かく観察されている。

 母は小柄で身体を動かすより、静かにしている方が好き。立ち座るリハビリはできなかった。右脳を患った母は、幸い左脳が司る言語障害はなく、日増しにいろいろ会話ができた。機嫌が良いときは昔の女学校唱歌を歌う。

 他方で、医者から処方された痙攣止め薬の分量が多すぎた、という。『看病する者は、医者の処方箋を鵜呑みにせず、その患者に適する薬・分量など決めるべく、早めに医者と相談することが肝要と思う』と現代の医者信奉にたいする警鐘もある。

 福山市の旧家に生まれ育った母は、気丈夫だったという回顧がある。それがいまや半身不随になり、妻にオシメの取替えをされる状態。自分の意見を貫くこともなく、「私」を実弟と勘違いする。
 ある日、トイレに連れて行って、用たしをさせた。腹水がたまり大きく膨れたお腹を軽く手の平で叩いて、こんなに大きいと重いでしょう、と「私」は軽口を叩いた。すると、こともなげに
『我が物と 思えば軽し、笠の雪』
 と私を諭すような声で詠んだ。

 84歳で亡くなるまで、病身の母親を見つめる、温かい心が伝わってくる。母親の状態や過去の回顧はよく掘り下げられている。その分「私」が前面に出ていない作品となっている。作者には「私自身」を中核にした執筆態度がもとめられる。


二上 薆   凧揚げ、羽根突き、歌留多取り ―自分史のよすがに-―


 紅白歌合戦が終わり、除夜の鐘の音を耳にしたも、近頃はなぜか遠ざかったように思われる。ここから昭和一桁の時代に入っていく。祖父母、親子の三代の家族団欒の情景が語られる。
 
 赤々と輝く炭火の火鉢に暖をとる。正月遊びの3つの定番は凧揚げ・羽根突き・歌留多取りであった。見事な武者絵の四角い凧は一向に揚がらず、近くの雑貨屋で買った何銭かの安いやっこ凧が見事に揚がった、という体験談が紹介されている。

 羽根突きとなると、わが家の横丁で、羽根を突く音が耳に残る。十五歳年長の長姉の誕生を祝った贈り物である、羽二重の人形(ひとがた)付きの羽子板が十数個、奥の間の長押(なげし)に差し込まれ、飾られていたという。家庭内のいい風物詩が描かれている。

 歌留多取りは、百人一首ではなく、昭和初期の自動車、鉄道など近代風俗を描いた現代的な絵札だった。『字が読めなくても、絵を見ただけで真っ先にパット手が出た。その素早さを褒められた』という思い出がある。

 双六。絵姿は年ごとに変わる少年少女雑誌の付録のもの。

 こうした賑やかな正月風景は遠くになった。最近の正月となると、『親族一家は、お遊びの楽しみはそこそこに、祝膳を囲んでの歓談のみに終わる。日本の家族制度の崩壊、核家族への変化だ』と作者の考えを述べて、対比させている。

 武者絵・名優の飾り羽子板、現代風俗カルタ札も60余年前の空襲の灰とあえなく消えた。疎開先で残されていた、旧い錦絵の百人一首と、「いの・しか・ちょう」の絵柄の古い花札とが、静かに本箱の隅に鎮座している。

 昭和初期の正月風景が、終始、能動的に描かれた良品である。記録としても、価値がある作品だ。


奥田和美   真珠の耳飾り


 階段を駆けおりて電車に飛び乗った。友人の母親の告別式に向かっていた。この瞬間、電車とホームの間に、何の飾りもない一粒の真珠の耳飾りが落ちてしまったのだ。

 この体験は二度目だった。一度目はスーパーマーケットで、店員に事情を説明し、発見したら電話を欲しいと頼んでおいた。後日、見つかったと連絡が入った。『店を掃除していた人が拾ってくれたそうだ。こんなことがあるんだ、と嬉しくて、菓子折りを持って御礼にいった』。

 二度目の今回は、告別式からの帰り、諦められなくて駅ホームに出むいてみたのだ。数時間が経つ。何本も電車が通っている。耳飾りは落下地点から吹き飛んでいるかもしれない。
 ホーム下は敷石の小石がごろごろしているし、ゴミも落ちている。目を凝らして探すと、白い小さな粒が光っていた。

 二十歳ぐらいの女の駅員が長いつかみ棒を持ってきて、真珠の耳飾りをつかもうとしてくれる。『あんなに小さなものをつかめるはずがない』と思う。その上、小石が邪魔をしている。駅員は「危険ですので、絶対に下に降りないで下さい」というやり取りがある。

 この間にも、電車が通る。中年の男性客が、「無理だね。見つかるはずがない」といって去っていく。ホーム下は1.5メートルくらい。女性駅員は慎重に真珠の耳飾を拾い上げた。真珠の耳飾りは、いま「私」の宝石箱に入っている。 

 緊張感のある、読み応えがある作品だ。「真珠の耳飾り」が生きている。作者の持ち前・リズム感の良さが全体を貫いている。


吉田 年男   いとこの失踪


 筑波山のよく見える、関東平野の中心に近い町で、いとこのS君は生まれ育った。地元高校を卒業後、東京の印刷会社に就職をしていた。十年ほどは頑張っていた。その後、実家の跡を継ぐつもりで、一旦は田舎に戻った。そのさき、いとこは行方がわからなくなったのだ。

「私」たち家族は、食料のない終戦間近、筑波山のよく見える町に疎開をしていた。いとこのS君とは一緒に小学校に入学した。『いつも仲良く遊んだ。秋祭りには、手つくりの俵神輿を一緒に担いだ。夏には用水路で一日中泳いでいた。西瓜畑で西瓜を丸ごと二人で食べた』と、楽しい思い出の情景が語られる。

 S君の父親には、「私」は可愛がられていた。一緒に映画を観に連れていってもらったことがあった。『大人になってからも、いとこ同士、仲良くするように言われた。そのひとことが、今でも記憶に鮮明に残っている』。理由は判らないが、S君は失踪してしまったのだ。『実家を継いで、農業をやる話がうまくいかなかったのか』と推量するのだ。

『こころを開いて話がしたかった。S君は何をしているのか。寂しい思いをしてはいないか。幸せに暮らしていればいいのだが。それを考えると辛い』と結末に導く。

 いとこの音信不通に対する、寂寞感が漂う。同時に、郷愁となる。心温かい、普遍性がある作品だ。


森田 多加子   正月


 子どものころの正月風景が紹介された作品だ。家中のすべての物、歯ブラシ、タオルなども真新しくなる。食事は床の間のある座敷で、食卓には祝い箸が置いている。「私」はおのずと姿勢がぴんとする。
 全員が席につくと、朱塗りの杯で屠蘇を頂く。『こどもたちにも回ってくる。なんだか大人になったような気分がして背筋がぴんと伸びる』と心境を述べる。

「あけましておめでとうございます」
 家族全員で和してから、楽しみのお年玉。『父の手が着物の懐にはいると、わくわくする』。四人の子どもに一人ずつ手渡される。重箱に詰められた『おせち』などはそこそこにお年玉の封筒を開けてみる。

「イシばあさま」が別にお年玉をくださる。父より多い金額。『うれしくなって、ばあさまの顔を見ると「ナイショ」と口元が動いた』。お年玉の喜びに対する、幼心が伝わってくる描写が展開されている。

 正月は大きなすり鉢をつかった、銅貨の賭け事。花札もさせてもらえる。『イノシカチョウ』『月見で一杯』『梅松桜』などの役も覚える。一人前になった気分だ。『正月の三が日は、これらの遊びで、あっというまに過ぎてしまう。三が日しかできない大人の遊び。だからこそ、次の正月を楽しみに待つのである』。
 子どもの視点から、正月風景を鮮明に描く。そういう時代を体験した人には、思い出深い作品だ。


上田 恭子   思い出したくない思い出

     


 父親は京城にある石油会社の重役だった。敗戦後、父は、GHQにより公職追放になった。甥が研磨剤の仕事をしていた関係から、その加工をする小さな工場を興して経営していた。
『昭和39年に父の糖尿病が悪化して、あと一年と言われた。職人の生活がかかっていて、止めるわけにいかなかった』。

 運転免許取立ての「私」が、父を同乗させて納品の手伝いをした。父が寝込んでからは、「私」一人が店を回る。『売り上げを報告すると、目を細めて嬉しそうにするのが何ともいとおしかった』と、親子の情感が伝わる。翌40年には父が亡くなった。

 昭和43年頃のある日、フジテレビ『小川宏ショーで初恋談義』に出演依頼が来た。梶山季之とは小学校が一緒。かれから指名されたのだ。『えっ、晴天の霹靂。私、何も覚えていないのに、お話することないし』といった。作品の知識もない。断りきれずに出演した。

『放送されてから、逢う人ごとに「見たわよ!」と言われるのがいやで、思い出したくない思い出となった』という。
 梶山季之は現在にも通用する作家だけに、良い素材である。テレビ局での「私」の心の揺れ動き、かれとの対面などもっと書き込んで欲しい作品だ。


藤田 賢吾   5枚目の子年版画年賀状


「私」の引き出しには、50点以上の版木(中にはゴム版も)が入っている。年賀状に版画を用いたのは、中学生からで、50年以上も前になる。
 毎年500枚ほど出していた。12月は大変な思いをした。版画のデザインを考え、彫って刷って、宛名を書いてという作業が、会社や忘年会からの帰ると、明け方まで続く。それは暮れのギリギリまで、毎年かかった。

 こんな手間隙のかかる年賀状を、続けていこうと思った出来事がある。札幌転勤から戻った13年後、得意先の道庁で世話になった方が副知事に昇格された。札幌へ電話をかけたが、不在だった。
 後日、同社の支社長からの電話で、「君はなんで副知事を知っているのか」という。副知事がまだ課長だったころを語る。支社長はテープカットで並んだ副知事はから、「御社に藤田賢吾という男がいるだろう。長い間会ってはいないが、年賀状だけは毎年届いている。しかも印象に残るものだ」という。

『50円で、一年に一度のご挨拶だが、楽しみにしている方もいることを知った。これからも版画の年賀状は、ずっと続けていこう』と決断したのだ、

 たかが年賀状、されど年賀状である。『宛名を書く瞬間、ふっとその方の表情、声、思い出が湧き出てきて、「どうしているかな」と思うものだ。しかし、宛名印刷だけでは、そういった思いは、まったくないだろう』。肉筆がない賀状には出さず、最近は300枚に減らした。

■60年 〈考え込むミッキーマウス〉
   子年は、ちょうど60年安保。『学生運動について、どう関わっていったらいいか、日本の将来はどうなるか、などと考え込んでいる自分を表している』。

■72年 〈スケートをする二人〉
   『札幌冬季オリンピックが開催された年。その前年、札幌転勤から東京へ戻ってきて、オリンピック本番は見ることができなかった。札幌での6年間の生活、特に、その地で結婚式を挙げたこともあり、多くの思いが残っていて、スケートをはいたネズミにした』とアイデアは絶妙だ。

■84年〈ハーメルンの笛吹きネズミ〉
   「1984年」といえば、ジョージ・オーウェルの小説を思い出す。学生の頃、おもしろいと思って読んだ記憶がある。一方、ネズミとなれば、グリム兄弟の
「ハーメルンの笛吹き男」がある。そのパロディを描いてみた。

■96年〈マウスを操るマウス〉
   90年からパソコンを使い始め、5年後に電子メールのアドレスを取得した。『アドレスを持っている方が殆どいなくて、なかなか発信できない状態だった。通信手段が、携帯電話やファクシミリも次第に一般化してきて、「メディア=媒介物とは何か」を問いたいと思った』。

■08年〈俳句を詠むネズミ〉
   12年前と文章のタッチが変わっていて、年とともに、しみじみ心境の変化を感じる。                   
 60年から今年まで、同一の干支で並べる。同時に、自分史の一面と、時代と、世相とを紹介する。力でねじ伏せたような、見事なエッセイである。


※エッセイには版画が紹介されていますが、著作権の関係上、割愛しています。

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