A020-小説家

第16回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 今回のレクチャーは、『エッセイは他人のことばでなく、自分のことばで書く』という点を強調させてもらった。
 世のなかには、文章を書くのが苦手だという人がずいぶん多い。理由のひとつに、言葉の不足を挙げる。それは間違っている。他方で、気取った文章を書こうとするからだ。自分の言葉で、気取らずに書く。それが読者に心を打つ作品を書く原点なのだ、と。

 多くのものが子どものころから、「本を読みなさい」といわれ、それなりに読んできたはずだ。小、中学校でも、教科書以外でも読まされてきた。ときには名文を暗記させられたものだ。作文のなかで、「一蓮托生」「鵜の目、鷹の目」「百花繚乱」などを使えば、先生が利口だとほめてくれた。

 作文から踏み出し、エッセイの創作で、それらの用語を使うと、駄作になってしまう。それは他人の借物の文章、文体であるからだ。つまり、他人の軒下を借りた、創造性のうすい作品で、魅力が乏しくなってしまうのだ。

 エッセイは「私」とか、自分とかをしっかり見つめる創作活動だ。作者みずからが、文章とか、言葉とかを創りだす心意気が肝要だ。

次の4点は避けるように、極力使わないように、とを強調させてもらった。

①擬声語と擬態語はなるべく使わない。
  六月の雨がしとしと降っていた。 北風がびゅーびゅー吹いていた。
 
 これらの形容はワンパターンが多く、文章が甘くなる。類似的、非個性の文章になってしまうからだ。

②慣用句は避ける
  油を売る。 手がつけられない。 生命の洗濯

 これは先人の作ったことばだ。裏を返せば、作者の目で、ものを見る観察力の不足、あるいは観察の放棄につながってしまう。

③手垢のついた文章は書かない。
 抜けるような青空だった。 レストランの前は長蛇の列だった。

 事実を見据えた表現とはいえない。作者が実際に見聞したとおりの状態、事実で書くことが大切である。

④四字成句は使っても、最小限度に留める。

 レクチャーを30分間おこなった。そして提出作品の講評に入る。今回は人間どうしの触れあい、動物との触れあいなど、心を打つ作品が多かった。他方で、風物の情感が漂う、味のある作品も目立った。一作ずつを紹介したい。


上田 恭子  敗戦と引き揚げ


 終戦の日、「私」は女学校4年生で、京城(今のソウル)の自宅で玉音放送を聞く。雑音がおおくて余り状況把握はできなかったが、「戦争が終わったというほっとした気持ちと、負けたという悔しさがないまぜになって、わけも無く涙がこぼれた」と作者は心のなかを語る。
 
 数ヵ月後、アメリカのジープが京城の市内を走るようになった。米兵は陽気だった。「鬼畜米英と教え込まれていたけれど、アメリカ兵より、朝鮮人の暴動のほうが怖かった。毎夜、あちらこちらの家に強盗が入る。自己防衛しかない」と状況を語る。貴重な証言だ。

 10月半ば、会社の社員、家族と知人で列車を貸切った引き揚げの日が来た。「帯心を縫い合わせて作った大きなリュックを担がされた。何しろ、持てるものだけしか持って帰れない」という。汽車に乗ったけれど、私と兄は連結器のところで寝ることもならなかった。釜山について、波止場まで歩いていたら、アメリカ兵が、母のリュックを取り上げて肩にかついで、船まで持っていってくれた。アメリカ流の優しさが、思春期の「私」には強烈な思い出となっている、と結ぶ。

 戦後の厳しい引揚げ前後のようすが、女学校4年生の目で、率直に書かれている。貴重な体験記だ。


塩地 薫  埋立地から万葉の地に


「私」が生まれたのは名古屋市で熱田神宮の近く。神戸(ごおど)橋の堀川を渡った所である。この街と加藤清正の名古屋城の築城との関わり、という歴史が語られている。他方で、昭和20年5月17日には、米軍の夜間大空襲で、焼夷弾が3344トン投下された。同級生は戦災で分散し、消息が分からない。

 戦災して、戦後、九州に移り住んだ「私」は高校、大学を熊本で過ごし、大阪で就職した。広島、静岡、名古屋、東京と転勤して、還暦定年のときは、千葉県・浦安に住んでいた。「青べか」でも知られる漁業の町だ。いまはディズニーランドの誘致があり、人口が増えた。浦安が町から市になる直前、「私」は埋め立ての新浦安に移り住んだ。

 還暦の年から「地域のサークルや自治会の活動にも積極的に参加し、二十年間で、友人知人も多くなった。ここが終の棲家だと、自他共に認めるようになっていた」。残る人生の地と決めていた。

 妻は前々から山の手住まいの希望を持つ。妻は浦安に越してきてからも、あきらめていなかった。多摩ニュータウン最後の開発地である若葉台を探してきた。やがて「私」は妻に押され、多磨の若葉台への引越しを決意した。
 
 多摩に転居して数年、地域のことを知るようになった。万葉集に詠われている「多摩の横山」のなかに、「私」は溶け込んでいくのだ。
喜寿を過ぎた今、「わが生涯は、万葉の地に生まれ、万葉の地に死す」と、運命の変化に新たな興味を抱く、と生まれ故郷との結びつきをかたる。
 
 文章力の高い作者である。史実の調査では内容の正確さは群を抜いている。万葉の奥行きの深さから、作品に厚みがある。エッセイに限定すれば、裸の「私」の心をのぞく、感情を絡めた展開がほしいところだ。
 その意味では、エッセイの領域を超えた、ミニ自分史ともいえる作品である。


平田 明美   中秋の名月

 
      
 9月25日は中秋の名月で、「私」は例年になく待たれた。日中は曇っていたことから、「今夜の十五夜駄目かな。でも晴れますように」と祈った。
 夕方になって、黒い雲の上に大きな月が見えた。うれしくて「十五夜十五夜」とススキを買いにペダルも軽く自転車を走らせた、と心情を書き綴る。

 五本のススキ、百合、芋羊羹、枝豆などを皿に置いた。『何気なくNHKの花暦を見ると25日は何もなく、27日が満月となっている。私は「エッー!NHK間違っている!」と叫んでしまった』と作者は動揺する。NHKに間違っていると、電話をかけようと思った。

 帰宅した夫は、「十五夜は15日ごとに巡ってくるから、十五夜。そういえば今夜の月はまん丸くなかったみたい」と話す。
 翌日、友人と会食では、この話題が出た。「十五夜と満月は違う」と知ったのだ。NHKに電話をしないで良かったと安堵するのだ。

 日常のなかで、素朴な疑問から、新発見へと進む。夫婦とのやり取り、友人との会話が生きている。「私」の心象風景が描かれた、良品だ。


森田 多加子 私の出会った人(二) |花びらをむしる女(ひと)|

 小説にしろ、エッセイにしろ、奇異な人物を対象とした作品はふしぎと深みと魅力があるものだ。それに目をつけた作者の素材抽出は、評価される。

 コンサートの帰りに、「私」は海の見える喫茶店に立ち寄った。ヴァイオリンの音色がまだ耳にのこっている。一人の女性が、テーブルにおかれた『都わすれ』の花びらを一枚一枚ゆっくりとちぎっていた、と書き出す。
「ねえ、一度聞こうと思っていたのだけど、どうしていつもそんなかわいそうなことをするの?」「かわいそう?」女性は不思議そうな顔をしたのだ。書き出しから、日常でない、奇異な描写から入ってくる。

 彼女は職場の3歳年上である。毎朝花を2、3本持ってきて、自分の机上の花と取り替えている。勤務時間中、ぼうっとその花を眺めている。だから、いつも仕事が遅れる。

 彼女の家は、元赤線地帯。まわりの建物の造りは面影を残す。彼女の家につづく細い道はまるで迷路で、「私」が訪ねていくたびに冒険するような気になったものだという。彼女の部屋は六畳くらいで、窓には可愛いカーテンがさがる。

 「私」の目は室内を観察する。そこから、彼女は収入のすべてをレコードと本と花につぎ込んでいる、と想像できた。『その部屋でレコードを聴き、本を読み、コーヒーを飲みながら彼女と話した。社会人になって間もない私にとって、まったく贅沢な時間であった。また別世界でもあった』と心情を掘り下げていく。

 彼女は『都わすれ』をばらばらにしてしまう。「私」はかわいそうだと思う。
「かわいそう? お花は美しい時に見るものでしょう。人が美しいなあと感じた時、初めて花はその使命を果たすと思うの。こんなに萎れている姿を見られるのは、自分の意思どおりに動けない花にとっては最大の屈辱よ。だから、私が葬ってあげるの」と話す。

「私」は(花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき)を思い出す。彼女の手で葬られた命の短い花にとって、幸せか、不幸か、「私」にはわからなくなるのだ。結末で、読者にも考えさせる。

 登場人物が「私」と「彼女」で、ともに女性だから、混乱しやすいので、名前がほしいところだ。
元赤線地帯にすむ女性。奇異ともいえる会話と行動が光る。素材としては申し分なく良い作品だ。


石井 志津夫 隅田川七福神めぐり


 わが家の七福神めぐりは6人だ。浅草駅から雷門に出た。仲見世通りを牛歩のように進み、浅草寺の初詣を簡単にすませた。そして、雷門に戻り、隅田川にかかる吾妻橋を渡りきった。ここから七福神がはじまる。

「脚本家の内館牧子さんは、隅田川七福神めぐりから、人生一転明るくなったそうよ。正月にみんなで行ってみる価値はあるわね」
 妻からの提案で、実行に移されたものだ。
 ボランティアのガイドは、「江戸文化年間にはじまり、東京では谷中(やなか)七福神に次いで2番目に古い」と説明する。距離は3キロ、2時間の予定で出発する。

 七福神の社寺などの説明を受ける。その一方で、小学生の孫たちは、参拝に飽きて、狭い境内を走りはしゃいでいる様子を描写する。
 他方で、「私」は、おみくじを引いたり、手帳にスタンプを押す。妻と娘は、寺のむかいの「富士かりんとう」を買う。
 芸能と学問の女神がまつられていると、高校受験を控えて参加できなかった、ものへのお守りをいただく。有名な桜餅の店では、餅とお茶を味わう。同時に、お土産も買う。

 国指定名勝・史跡の向島百花園は、「四季百花の乱れ咲く園」という意味がある。風情があるので、ゆっくり散策鑑賞し、お休み処の甘酒を味合う。
 最後の一キロ半はけっこうきつい。門前や境内には驚くほど人が多い。寺も荘厳で美しい。無事に参拝をおえた。

 文章は濃密で、社寺の説明も丹念である。家族の行動にも観察力がある。会話に味がある。結末で、「私」が、3キロの道のりにはおいしいものが多すぎる、それが欠点だといい、ダイエット中の娘に揶揄する。娘は『太らせない神』という、もう一つの神を加えて欲しいわね、ときりかえす。全体をよく支えている。


二上 薆 ヴィノ・デ・ラ・カサ ー自分史のよすがにー

                     

 40年前の9月の朝、「私」は空気のひんやりとした、人影まばらな初春のブエノスアイレス空港に降り立った。『製鉄所現場から市場開発部に移って間もなく、技術サービス的な仕事についた初仕事のアルゼンチン出張だった。それは、輸出した大径電縫溶接鋼管用素材の厚鋼板のクレーム処理であった』という。

 羽田空港を発った日航機の機中が描写されている。当時はスチュワーデスに50セント出して、リキュール酒を買っていた。給油のアンカレッジではチップトイレに驚く。ニュヨークに着くと、『よくこんな広い国と戦争をやる気になったか、と強く思った』という。一泊後、ニュヨーク発の夜行便で南下し、七時間で、南米のパリといわれた、ブエノスアイレスの街に着いたのだ。

「私」はクレーム処理に当たる。『相手の工場現場の隅々まで見た。背広姿の小柄な東洋人が工程に流れる製品に直接手を触れて、現地工場労働者には驚きの眼を向けられた』。一週間近く、そろそろ結論を、と思っていた。

 昼食の席は工場内の粗末な小会議室だった。相手は工場長を中心とした3・4人。当方の介添えは商社マンと二人だけだ。そこで出されたものは、『大量の前菜、分厚い見事なビフテキ、どろりとした濃厚な赤ワイン』だったという。
 体躯のがっちりした工場長が、「もう召し上がらない、どうかされましたか、おいしくないのですか?」と驚くような面持ちで訊いた。
「誠に結構ながら、量が多すぎます。普段はそば・うどんなどの昼食ですから」
「そんな少し?」
 とおどろかれる。

 正午から午後3時頃までが昼食休みだ。夕飯よりも豪勢な昼食が普通なのかも知れないと、日本との風習の違いが紹介される。
 他方で、クレームの技術的な話に及ぶ。『鋼管が原油輸送ラインパイプに使われ、建設代金まで払わされる大問題に発展しては』、と「私」は心配していた。昼食会の席で、工場長の度量の大きさ、良識ある判断が救いになり、問題が一挙に決着したのだ。

 そして、一人で夜の町の気楽な食堂に出向いた。メニューには、プルポ(蛸)・カラマール(烏賊)などの料理が並ぶ。前菜、スパゲッティー料理を頼むと、主食二人前くらいの大量だった。『アルコール、奨められるままに口にしたヴィノ・デ・ラ・カサ(ぶどう酒地酒)は、赤くねっとりとした深い味わい、舌触り抜群、ワインは「ヴィノ・デ・ラ・カサ」! が深く沁みついた』と解決の開放感を表す。

 解決への道筋を振り返りながら、自社の技術マン、現地の商社マン、それに工場長の善意ある見識を賛美する。『「ヴィノ・デ・ラ・カサ」、それぞれの甘き香り、永遠なれ』と結ぶ。
 
 海外クレームの緊張感が伝わり、解決の意外性には引き込まれるものがある。作者にしても、生涯大切にしておきたい貴重な体験記だろう。


長谷川 正夫  三郎物語(その二)

 
                       
 サブ(三郎)を番犬とみるか、愛玩犬とみるか。夫婦の間で意見が違う。「私」は番犬とみなす。2話とも、ユーモラスな作品で、一気に読まされてしまう。

 妻は「家庭の防衛は男の役目。何か事件がおきたら、庭にいるサブは危ないから家の中に避難させ、代わってお父さんが家から飛び出して外へ出る」ときめてかかっているのだ。読者には、夫婦の落差が愉快で、次に何が起こるのか、と興味が深まる。

 番犬が家に逃げ込み、代わりに旦那が飛び出す。世間で聞いたことがない、と文句をいうと「お父さんは泥棒がこわいの?」とからかう。弱虫といわれては男の恥。しぶしぶ了承する。まさに夫婦の妙味だ。

 真夜中に、怪しい物音がした。異変で目をさました夫婦は息をこらし、じっと耳をすます。雨戸を小さくあける。妻は庭の犬小屋に寝ている三郎を呼び、部屋に招き入れる。「サブ 何もなかった? よかったわね」と妻はサブを抱きかかえる。他方で、妻は「私」に出番をけしかける。

『逃げ腰になるわけにいかない。小型ライトを片手に、体を低くし小手をかざして外をうかがう』と緊張感が漂う。『庭の隅には異様な物体。泥棒がうずくまり、こちらを狙っているらしい。素手ではやられそうなので箒を小脇に挟んで庭にとびおりる。
「ヤイ 出てこい」暗闇のなか、空元気をだして見得をきる。声が震えているのが我ながら情けない』と自分を見つめている。
 草むらがゆれ、黒い物体がとびだした。「私」は腰を抜かして無様な姿をさらしてしまったことから、正体をつかめなかったのだ。

 サブは時どき庭から家へ入り込む。妻が招きいれるのだ。私は犬をからかう。 サブにジャンケンしようというと、『嫌な顔をして、プイと横を向く。理由は簡単、グーしか出せないからだ』と説明する。妻は、「また、サブをからかう」と「私」をにらむ。
「よしわかった。それならパー無しジャンケンにしよう」と譲歩する。サブはグーしか出せない? 本当にそうなのか。サブの拳は丸く、外見上、人と同じ形をしている。観察すれば、指は全部のびている。

『人で言うと指が全部伸びていればパー。握っていればグー。この基準だとサブの手はパーとなる。さあ困った。グーか、パーか』と思案する。 
「くだらないことを考えていると、頭がパーになるわよ」と妻は「私」をやりこめてくるのだ。妻は嬉しそうに勝利宣言。サブも上機嫌で尻尾をふる。
 ユーモアに満ちた、完成度の高い作品だ。


中村 誠  終戦の頃 ― 昭和二十年


 62年前の「終戦の日」の記憶はぼやけている。
 戦時中の昭和18年に本郷駒込から伊豆伊東に、さらに山中湖畔にある親類の別荘に移った。
 父は大戦突入の半年後に亡くなっていた。母は、「私」たち子供ふたりを抱え、淋しい山中湖畔の生活は大変だったと思う。しかし、気丈な母の弱音を聞いた記憶はない。母の新宿目白の実家から、大学生だった二人の弟が交代で、食料をリックサック一杯にして運んでくれていた。お蔭で空腹の苦い思いは少なかったと状況を語る。

 湖畔の周りはすべて別荘地で無人。遊び相手も無く、「私」はいつも兄のあとにくっついていた。『時たま富士山を目指し飛来したB29爆撃機の編隊が、頭上で右カーブし東に向かうのが眺められた。そのような夜には必ず、東の空が明るくなった。多分、八王子方面が空襲による大火災だろう』と子どもの脳裏に焼きついたのだ。

 昭和20年8月15日は、焼け付くような太陽の下、近所の人たちと集会所の広場でラジオの前にいた。雑音ばかりで何を言っているのか聞き取れなかったという。『その晩に電灯の笠の被いが取られ家中が明るくなった。窓から望める湖の対岸に灯りが見えたのはその時が初めてだった。
「戦争が終ったの、伊東に帰れるのよ」という母の明るい声が耳に残っている』と、終戦の様子が手短に、リアルに表現されている。いい情景描写だ。

 太陽が一杯の伊豆伊東で祖母たちとの生活が始まった。小学校に通い始めた。仲間とミカン山で、好き勝手に甘いミカンを盗む。鶏小屋の卵を垣根から盗む。いまとなれば『悪がき時代を思い出し一人でそっと苦笑するが、終戦日の記憶は、焼け付く太陽、ラジオの雑音、夜に家中があかるくなったことだ』と結ぶ。

 戦争は女と子どもが最も犠牲者だ。こうした体験が子どもの目で書き残される。大切なことだ。作品とすれば、62年前の「終戦の日」の記憶が、密な文体で、しっかり書き込まれている。吸引力のつよい作品だ。


吉田 年男 Iさん宅のお婆ちゃん


 お婆ちゃんは86歳。ヘルパーとときおり散歩をしている。亡夫は電機メーカーのエンジニアだったと聞く。ここ20数年間は、独り身のお婆ちゃんは肩に力を入れずに、柔らかに生きているように見える。

「ガスレンジの具合がわるいので、みてほしい」とお婆ちゃんが、突然、ひとりで訪ねてきた。「私」が伺ってみると、ツマミが取れて、床に落ちていた。レンジには異常がない。お婆ちゃんにしてみれば、レンジは使えないし、一大事であったに違いない。

「私」が中学生のころ真空管ラジオを作った。『お婆ちゃんのご主人には、配線図を見てもらい、半田付けのやり方を、教えてもらった』という。そういう背景から、ヘルパーさんにもたよらず、お祖母ちゃんは独りで訪ねてきたのだと思う。読者はこの推量に納得できる。

 近所との連帯感が薄れ、話をする機会も少ない、味気のない世相だと作者は指摘する。『気軽にお年寄りや子供に、はなしかけると、怪しまれたりして、うかつに挨拶すらも出来ない。お年寄りとはヘルパーを介した、事務的な会話になる。せめて近所のお年寄りとは、気楽に話が出来ないものか』と提起する。
 一方で、独りで訪ねてきた、お婆ちゃんの勇気を称え、『お婆ちゃんに直接頼まれたことが、些細なことであるが、すごくうれしい』と結ぶ。ヒューマニティーがとくに結末から湧き出ている。ある種の人間性の回復を示唆している作品だ。


奥田 和美 その国の名前

                 
 オリンピックの開会式を見ると、各国の選手を引率するプラカードの国名が英語で、アナウンスは英語と開催国の言葉だ。「私」はいつもそれが気になるのだ。「日本」は「ニホン」か「ニッポン」であって「ジャパン」ではない。その国の文字で、その国の言葉でなければいけないと思うのだ。

 テレビやラジオのニュースではかつて韓国の「金大中」氏を「キンダイチュウ」氏といっていた。最近は「キムデジュン」氏。名前は本来の呼び方で言うのが当然だと「私」は思う。
 開会式のプラカードを作るとき、その国の文字で書いて、発音の仕方も教えてもらう。やがては国名はいつも同じ呼び方で呼ばれると、「私」は提案するのだ。

 オリンピックは多くの国から大勢が集まる。『私がニュースキャスターならスケッチブックとテープレコーダーを持って選手村を回ります。テレビカメラがあれば、選手に自国の名前を書いたカードを手に持って母国語ではっきりと国名を言っていただきます』と具体的に示す。

 英語が世界中で使われている。英語が一番分かりやすい。しかし、国を代表する選手が集まるオリンピックだから、その国の言葉で表してほしいと願う。

 ニュージーランド留学の折、周りの学生には自国の名前をその国の言葉で書いて発音してもらった。『よその国の名前を書くのも、言うのもとても難しいことがわかりました。テープレコーダーに録音したのだけれど、何度聞いても発音できません』。やはり英語が一番わかりやすいと納得した。
「でもいつか、世界中の国名が自国語で書かれ、呼ばれることを望みます」と結ぶ。

 国名の呼び方に対する、問題意識に絞り込んだ、吸引力のつよい作品である。切口のよさが光る。


 中澤 映子 猫の鏡・トム 「動物歳時記」その9 番外編


 今回の主人公はトムである。トムは何度か、わが小俣一家に顔を出していた。「私」たちは、井戸端近くにトム専用の籠のベッドを用意しておいた。ある秋の日、トムが黒い猫を連れてきた。黒猫はやせ細って、怪我しており歩くとビッコをひいている。

 ボクの寝床は不要だから、このびっこの黒猫をお願いします。そんな言葉(?)を残して、サーッと立ち去っていった。
 小俣一家に仲間入りした黒猫は「クロちゃん」と呼ばれた。しばらくは小俣一家に慣れるのに苦労していたようだ。足の怪我はすっかり治り、ちょいデブになった。大声で食事の催促をしたり、家内や庭を元気に走り回ったりしている。

 一方、恩猫のトムは、飼い猫として唯々諾々と暮らすことに疑問をいだくのか、「猫助け」のボランティア活動に精を出す。
 そんな立派な猫でも時には失敗する。小俣一家のかつてのボス猫のピキをいじめたことがあった。ピキは年のせいか、少しボケて、トムにイヤミを言ったのだろう。
 怒ったトムが、ピキを豪腕でやつけた。小俣一家の長老で、トムも尊敬するマックくんが飛び出してきて、調停にはいった。「ダメじゃない、ウチのボスをいじめちゃ」とお説教、「スミマセン、スミマセン」とひっくり返り、お腹を出してあやまる一幕もあった。
 この展開は妙に芝居がかって面白い。

『最近の情報によると、トムは子連れの母猫を2人まとめて、めんどうをみているらしい。人間の世界のように下心あってではない、.純粋なボランティア精神からなのだ』と続ける。人間との対比が冴えている。

『トムよ、年とって「猫助け」が出来なくなったら、小俣一家に仲間入りしなさいね。待っているよ。』と動物愛の心で、綴るのだ。

 作者は擬人法を使って、動物の心理を上手に表現する。四肢の不自由な動物を描くと、一般的には暗くなりがち。作者はつねにユーモアで明るく展開しているので、好感が持てる。
他方で、独自の文体が確立されるから、作品に安定感がある。

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