A020-小説家

第11回『元気100エッセイ教室』作品紹介

 教室が始まる冒頭、受講生の賀田恭弘さん(松戸市)の死去が伝えられた。悲しみの暗い気持ちになった。
 ソニーの黄金時代に同僚だった河西和彦さんが、12回の提出作品で、追悼エッセイを書いてくださった。穂高健一ワールド、トップ参照 葛西さんの作品を読みながら、冥福を祈った。

 新しく濱崎洋光さんがメンバーに加わった。提出されたのは「散歩道」で、情景描写のすぐれた作品だ。人は視点、見る角度によって、情景の感じ方がちがう。物事の見方も、同様に捉える角度によってちがってくる、という内容だ。

 今回の教室のレクチャーでは、喜怒哀楽の感情表現について述べた。人間の複雑な感情をいかに巧く言い表せるか。それが優劣を決める一つになる。
 月並みなことばで、……うれしかった、悲しかった、泣いた、腹が立った、なさけない、等とストーレートに書くと、思いのほか読者には、作者の心情が伝わらないものだ。激怒とか、慟哭とか、ことばが大袈裟になれば、作品がしらけてくる。

 それを解決するには、平たい感情のことばに、反対の言葉をちょっと添えてみることだ。『ことばは料理と同じ。甘いものには、少量の塩味が利く」というコツを述べた。

 

         中村 誠  五月と云う月


 45年前に会社員になって、月給で一人前の生活が出来はじめたころのエピソード。浦和の家で、母子の生活だった。
 日曜日で、浅草の学友と会った。友は浅草田原町の老舗の米屋を継いでいた。根っからの下町育ち。「し」と「ひ」の発音がおぼつか無い。
『会社の仲間とは話題がちがうし、たまに会う彼とは話が弾む』。
 上野広小路の精養軒から、浅草の馴染みの寿司屋に場を変え、その後はスタンドバーに落ち着くのだ。学生時代の延長で、帰宅は深夜だった。
「今日は13日、お袋の誕生日、おまけに母の日だった」と気付いた。翌朝、母の顔を満足に見られず、こそこそと勤務先に向かった。

 いまなお『45年ほど前の大失敗』として心に残るのだ。ストーリーはそこから、血縁の奇遇を説明する。
「私」の妻の名前が母親と同じ。つまり、嫁姑が同姓同名だ。生まれた子どもが母親(祖母になる)と誕生日が同じ。
 そのうえ、「13日の日曜日『母の日』は、うるう年より、チャンスが少ない。過去に四度しかない」。この限られたチャンスに祝福して上げられなかった四十五年前を思い出すと残念でならない、と結ぶ。

 独身時代に、浅草の学友と飲む。短い文章で、はしごする情景が描かれている。「し」と「ひ」の発音がおぼつか無い、下町っ子の特徴などもうまく捉えている。
 作者は父親が戦死し、母親の手で育てられただけに、母の誕生日に対する思い入れが強いようだ。妻と母親とが同姓同名とならば、どのように呼び分けているのか、と想像してしまう。


     二上 薆  大山登山 忘れかけた思い


 大形連休の初日で、「昭和の日」というネーミングの初めての日だ。恒例の仲間との大山登りである。
小田急秦野駅前から、乗った混雑したバスには日の丸の小旗をかかげられていた。車窓に真白の富士を見ながら、丹沢のヤビツ峠に着く。
「山登りはマイペースが大切」といいながらも、あえぎながら登った大山山頂だ。広場は人の群れ。先行の四人は早くも昼食をすませていた。
 昼食後、予定通り日向薬師に向かう。『山頂近く遅い山の春に、桜が今を盛りとささやかな花をつけ、緑の森に映えて誠に鮮やかである。九十九(つづら)折(おり)の整備された丸木の階段を少し下ると、急に右膝が痛みを覚えた』と静かな情景と体調と対比させる。

「私」は50余年前の手術で、肺活量が大幅に減じた。ささやかな低山歩きで、人に迷惑をかけないように単独行をきめこんでいる。過去の5月恒例登山は、二歳年長の親友のペースに合わせた、さりげなくゆっくりと登るものだった。『過ぐる年、友は世を去り、遅いペースメーカーは自分となってしまった』と認識するのだ。下りは頑張ろうと思ったが、思いもかけず古傷の右膝の痛みに襲われてしまったのだ。

 数十年前、東京都の最高峰の雲取山に一人登った折、下りは一気加勢に奥多摩駅に下りたために右膝を痛めたものだ。それからはつねに山登りには右膝のサポーターをつけていた。それを忘れたことも、大山下りで激痛が起こった原因だった。
『伝説にあるヤビツ峠の亡霊の祟りかも知れない』と結び付けている。

 作者は文語調、美文調を書ける。現代の読み手は口語調に慣れ親しんでいるから、それが受け入れられない面がある。最近の作者は文体を口語調に変えてきた。
 美文調が書けるひとは素地として、筆力が高く、文章の濃密さを持つ。それが底流にあるだけに、山の情景文となると光ってくる。


       山下 昌子  女の生き方を求めて (一)


 1977年に、『女の生き方を考え記録する会』と出会った。入会してから30年だが、今でも、会の人たちとの交流が続いている。
「私」が40歳で、夫の赴任先ソウルでの4年間の滞在から帰国した頃だった。娘の小学校のPTA共催の、地域の家庭教育学級の講演会に参加した。そこで、この会を知ったのだ。当時の「私」は、『女の生き方』について、悩んだり、友達と議論したりするのは青春時代のものだと思っていた。しかも、子育てに夢中の「私」の生き方は、もはや決まってしまったものだと思っていた。

 出身の女子大は封建的で、阿部知二の「女の園」を地で行く屈辱的なものだった。『大学お仕着せのカリキュラムや大学祭に、若い乙女たちは抵抗した。その結果が、停学と卒業延期だった。自ら学びたいものを選択して、自由なキャンパスで青春を過ごせるものと思っていたのが裏切られた』というものだった。
 それからの「私」は、機会があれば、他の大学でもう一度学びなおしたいと思い続けてきたのだ。40歳で自分に決意を求めたが、子供がまだ小学生だったので、決めかねていたのだ。

 ところが、『女の生き方を考え記録する会』に出会ってから、考えが変わったのだ。『学びの場は大学だけではない。こんなに素晴らしい仲間と学びの場がここにあったと思った』というふうに。それから10年後に、夢がちょっぴり実現することになったのだ。

 作品は、女性の自立と生き方について、述べていく連載ものだ。男性の目から見ても、続きを読んでみたくなる。期待が高まる。


        上田 恭子  シルバーシート


 シルバーシートは昭和48年の『敬老の日』からスタートした。「私」はそれをパソコンの検索で知った。当時は40代前半で、関心も薄く、思いやることもなく過ごしていた。
 5年ほど前、高校1年の孫の宿題につきあった。学校討論の課題が、シルバーシートに関係したものだった。孫は「私」に、坐るか否か、と聞いてきた。
『空いていれば座るけど、余りすわり心地よくない』と答えた。そこから幾つかの事例のやり取りが続いた。席を譲っても、拒否する年寄りがいる。このときの心情の変化なども語られる。
 中高年どうしの譲り合いの場合、『えっ? もしかして、私より若いのかも?』と思いながら席を立つ。こうした心理描写が、揺れの大きなバスなどでも展開されている。
『昔、シルバーシートはなかったけれど、お年の方、不自由な方、赤ちゃんを抱いている方を見たら、心ある人は席をゆずったものだった』。

 シルバーシートが生まれた背景には、人間のゆずる心、優しい心が欠如してきたのだ、と気付くのだ。学校では生徒に、シルバーシート問題にからんで、老人への譲り合いを考えさせる。『とても実践的でいい教育だと思った。家庭でこんな話題で花を咲かせて欲しい』と、作者のオピニオン(意見)を取り込んだ作品だ。
『思いやりがなくなったから、特別な椅子(シルバーシート)が必要になったのか。敬老の精神がなくなったから「敬老の日」などができたのか』と、結末ではエスプリをしっかり利かせている作品だ。

 作者はつねに素材の処理と切り口がシャープだ。とくに世の中に蔓延する矛盾、あやしげな風潮、問題点などは、「なるほど」と考えさせられてしまう。今回も、その一つ。敬老の精神があれば、シルバーシートなど不要なのだから。


         濱崎 洋光  散 歩 道


「私」は決まったルートの散歩道がある、と書き出す。自家を出てループ状の道を右回り。翌日には左回りで、全行程は約5キロメートル。交互に歩くのが日課の一つである。
 小川沿いの道は、冬場になると、鴨が来て泳ぎ目を楽しませる。春はレンギョウ、梅、桃の花、百本を越す桜並木で賑わう。ハナミズキの街路樹、タイサンボクが咲き誇る道、そして紅葉に輝く錦秋、と四季折々の心に安らぎを与えてくれる花の紹介がある。
 辺鄙な地にも、宅地開発が及んで来た。『アカシアが姿を消し、冬の霜柱に足跡を残して遊ぶ渡り鳥の遊び場も失われしまった。淋しい限りだ』と心情を綴る。他方で、に新しい家が建ち、若い世代の社会が築かれ、いま流行のガーデニングが盛んとなり、これらが自然に変わり、散歩の目を楽しませてくれるようになったのだ、
 冬の好天時に良く見える遠景の富士山は、見る向きを変えると、同じ道筋でもかなり変わった景観となる。
 
「私」がマレーシアに滞在中したときの記憶に及ぶ。初めてこの地を訪ねてきた友人を、当時世界一であったツインタワーに案内した。歩く角度によって、重なって一つに見える。「ツインタワーなのに、一つになってしまう」、と友人との軽口のエピソードを紹介する。

 形のない思想、政治等の表現になると、この視点が曲者だ。正しいことなのかどうかを判別するのが、すこぶる難しくなる。日本の平和は現憲法のお陰とする意見。一国の防衛は自ら行うべきで、憲法改正が必要とする意見などがある「国民はいまや日本の未来を見据えた、憲法に対する正しい判断を問われているとする。

 情景描写の上手な作者だ。憲法に対する考え方、見方はさまざまだ。『憲法への視点が変われば、思想も違ってくる』。このテーマに向かって、散歩道の導入から、一つひとつを丁寧に構築している。論理的な計算がなされた作品だともいえる。


       森田 多加子  メイ・ストーム


『五月、樹木の緑や花々も、当然のように自分を主張している。気持ちのよい時期である』。それなのに1991年の5月は好季節を感じる暇がなかったと、書き出す。
 前年の春には、息子の結婚相手がお見合いで、決まった。問題は結婚式の日取りだった。相手の女性が私立小の教師で、休暇が取れず、新学期に入ってすぐでは休みづらいといい、GWに決まった。結納も一応すませた。
 他方で、実娘が恋愛結婚を決めた。親の「私」の出る幕はない。彼と二人で全てをやると言っている。娘も5月に式を挙げたいという。「私」は困った。
 実の娘ならば、少しは自由が利くのではないか? 兄が五月の挙式だから「あなたたちは11月頃では駄目かしら?」と問うた。娘は自分たちのほうが早く婚約した、教会にもお願いしている、会社にも伝えている、と拒否した。
 折合いがつかず、兄が5月3日、妹が11日に決まった。

『さあ、大変。招待客は、九州、広島、神戸など遠くに住んでいる。息子と娘のことなので、親戚の人たちには、両方に出席してほしい。しかし、九州の人は、3日に1泊して帰ると、次は11日の前日に来なければならない』。それを親戚に伝える緊迫のなかに投げ込まれたのだ。
「そのままこっちにいて、東京見物でもしていたらどう?」と言ってみたが、殆どが勤人の現役だ。「1週間もぶらぶらできない、休めない、なんと迷惑なことと少々怒っている」と記す。
 二人の結婚式はなんとか済ませた。わが家のメイ・ストームは通り過ぎた。気づくと、家族は夫婦二人きり。『嵐が通り抜けて、空気が薄くなった広い我が家で、残された二人はTVを見ていた』と結ぶ。
 
 全体を通して緊迫感のある構成力で、一気に読ませていく。いい素材であり、文章には傷も破綻もない。親戚筋の怒りが読者まで伝わってくる。とくに、結末では良い響き余韻がある作品だ。


  塩地 薫  中国の交通事情  はじめての中国旅行(その六)


 今の中国には、交通マナーがない、と書き出す。上海の名園、豫園一帯はいつもにぎわう。小籠包(ショウロンポウ)の名店、南翔饅頭店の店頭売りには、1時間ほどの順番待ち行列が延びている。
 しかし、タクシー乗り場に行列はない。乗るのは早い者勝ちである。誰より早く乗るために路上にまで人があふれている。係員が制止しても、効き目はない。
「私」たち夫婦と息子の嫁が乗ったタクシーに、息子が慌てて飛び乗ってきた。『前の車に乗ったのではないのか』『乗ろうとしたら、急に走り出して、乗れなかった』と説明する。タクシーに乗るのも、日本ほど楽ではない。
 いま北京ではオリンピックを前に、並んで順番待ちする「文明乗車」運動を推し進めているらしい。

 上海の軌道交通(地下鉄)は五路線あるが、市民にとって市バスの方が便利らしい。バス路線が網の目のように走る。外国旅行客にとっては、乗り場を探すだけでも大変だ。バスに「私」が乗ると、座っている客が必ず席を立って、「どうぞ」という仕草をする。遠慮すると、隣に座っている客が「遠慮なく座れ」という。中国の若者は敬老心がよく浸透しているようだ。

 中国の交差点の光景だ。信号がなくても、歩行者は車の行きかう車道を悠然と渡る。なれたものだ。『車は右側通行で、右折車は人を待たずに横断歩道に突っ込んでくる。一歩先へ出た方に優先権があるようだ。それでも事故は起きそうで起きていないらしい。
 バス停の前に、リヤカーをつけた自転車を置いて、乗っていた人はどこかに行ってしまう。聞いていた以上の無法ぶりだと、驚く。バスの女性運転手は、自転車を巧みに避けて、バスを発進させる。

 上海からは朝早く、格安チケットのノースウエスト航空で帰路に着く計画だった。初顔合わせの自動車修理工場の経営者が、夜も明けないうちから、湖州から空港まで車で送ってくれた。
『中国人は敬老心や隣人愛など思いやりの心がよく身についているのに、なぜか交通マナーの欠けているのが不思議である。礼を重んじる中国は、交通の発達とともに交通マナーもその気になって指導すれば、早期普及も夢ではないだろう』と結ぶ。結末のオピニオンはなるほどと思う。

 これから初めて上海旅行するひとには役立つほど、交通事情の悪い面がしっかり書かれている。他方で、バスのなかで席を譲る中国人の親切心が胸を打つ。両極の中国を対比法で浮かび上がらせている作品だ。


       河西 和彦  しのびよる老化現象


 昨年12月の忘年会は11回もあった。古希を過ぎた身で良く続いたものだと思う。他方で、最近になって老化現象が気になりだしていた。
 今年になって、すぐ疲れる、動作が鈍いなどの現象が出はじめた。『何か起こらねばよいが』と思っているうちに、やはり異変が起きてしまったのだ。

 信州諏訪の菩提寺で、母の3回忌法要を行い、料理屋で一族の会食の直後に激痛に襲われたのだ。特急で船橋の自宅に戻り、主治医に見てもらった。2度目は確定申告の日に腹痛を起こした。3回目は彼岸入りの日で、激痛に襲われた。クリニックの外科医はヘルニアだと診断された。そして、手術に及んだ。
 12日間の入院生活で、日ごろの機能をあまり使わなかったために、一挙に老化が進んでしまった。足腰の筋力の低下が著しく、愕然とした。退院後には自宅でリハビリに励むが、思うに任せず、ストレスが溜まるばかり。視力も、記憶力までも低下したようだ。
『歳をとってからの、入院後の恐ろしさを目の当たりに実感した』という。二ヶ月ぶりに諏訪の実家に帰省してみると、気力と体力が弱体化しており、がっかりしてしまった。

『持病の一つが変形性膝間接症で、膝に水が溜まりやすく、膝への負担を減らすのに自転車がよいと勧められ、早朝散歩はこれに乗って舟橋駅や西舟橋駅方面まで行くようにした』と、肉体的な負担へと話題が進む。
『予定表にある毎日のごとくイベントが記されているが、外出する気がない』と心理を描写いていく。放っておくとますます老化が進んでしまう。

「私」は外出を一日置き、月例会は隔月参加、と負担を軽減する工夫を考えはじめる。『過度にならない程度の刺激は、ぜったい必要だと思うので継続はしたい』と意欲の継続を図るのだ。
 老化をくい止めるには、自分なりに工夫し、生活に張りを持たせて活性化するしか方法がない。それらに気が付いた「私」は遅ればせながら、老化防止に自分流に行動してみることにした、と結ぶ。
高齢者の入院の怖さもしっかり書き込まれている。同時に、病魔に襲われた自己観察が、客観的にしっかりできている作品だ。
 
 老化は人間、動物の宿命。『老化現象』に逆らってみる努力と、意気込みは読者に好感を与えるものだ。この作者はつねに人柄とか、真摯な姿が作中に漂う。坦々と日常を書きながら、人間の奥行きを感じさせるものがある。


       長谷川 正夫    左手の敬礼


 海軍の同期生からハガキが届いた。『鹿島港で護衛艦の体験航海が行なわれるから、一緒に参加しないかという誘いだ。もちろん二つ返事で承諾した』。平成元年4月のことである。簡素で、明瞭な書き出しである。
 東京駅前から直通長距離バスで鹿島に出向いた。
「長谷川、よくきたな。これから埠頭に案内するよ」
「やあ どうも」
 港には『はたかぜ』『あさかぜ』の二隻の護衛艦が停泊していた。これに一般市民が搭乗して、鹿島周辺の体験航海が実施される。
『出港にさきだち、埠頭で隊司令(隊の指揮官)、艦長の下で式典が行われた。『一日艦長』に任命されたのは、2人の若いお嬢さん。「背が高く、真っ白な制服と帽子がよく似合う」数百名の市民の視線を一身に浴びてかなり緊張の面持ちであった。
 隊司令は任命書を読み上げた。
「敬礼ッ」
 2人並んだ『一日艦長』のお嬢さんは、隊司令の顔をキッと凝視し、気合をこめて叫んだ。
 ドッと爆笑の渦がわいた。
 一日艦長のうちの一人が左手で、挙手の敬礼をしたのだ。予期しない状況に「私」もふきだした。
彼女たちはなぜ皆が爆笑したのか、とっさに理解できなかったに違いない。『隊司令も、まさか左手で敬礼されるとは夢にも思わなかっただろう』と想像する。

 艦が鹿島灘に出ると、うねりが押し寄せてきた。ローリング(横揺れ)を繰り返ス。足元がふらついて、まっすぐに歩けない。
 艦橋に行くと視界は抜群で、海原のかなたに水平線が大きな弧をえがいて広がっている。艦橋には左手敬礼の女性がいた。彼女は、いや「一日艦長」は、何事もなかったかのように悠然と、「本物艦長」の傍らで水平線をながめていた。
 船舶や軍艦にくわしい作者だけに、ことばに無駄がないし、濃密な作品だ。と同時に、艦船や海の情景描写が的確で、美しく感じる。

 女性の思わぬ左手の敬礼。前代未聞のエピソードだが、彼女たちには人間味を感じさせる。それを上手に作品化している。難をいえば、タイトルで、作品の核が見えてしまうことだろう。『鹿島灘』『護衛艦』などの題名でカムフラージュすれば、さらなる意外性が出る。ここを工夫すれば、最上の作品になる。
   

     高原 眞   かつての平均的な母親像


 良妻賢母ということばは、いまは廃れてしまった。実母が子供を虐待したり、殺したりする世の中である。ニュース事件は、ごくマレな出来事かもしれない。だが、最近の母親の姿は、昭和初め生まれの「私」の世代からみた、「平均的な母親像」とは、ずいぶん様変わりしている。
 戦後の教育は男女を問わず、個性の高揚と伸長、多彩な才能の発掘と発揮においてめざましいものがある。「私」どもの世代からみれば、羨ましいほどの「知育」だ。
 反面、「徳育」にはほとんど力が入らなかった。政府は「徳育」を重視する方向を示したが、どういう結末になるのか、案じられる。いまさら、儒教や教育勅語ではないけれど、捨て難い「人間の生き方の道理や真理」がそこにはある。
 全部捨て去るのは、賛成できない。よいところは残すべきだ。「科学は西洋に学べ。宗教は東洋に学べ」と上野陽一先生のことばだ。

 家父長制度を基準とした「良妻賢母」の「三従四徳」では、現代の女性からは猛反撃を食うのは必定である。作者はあえて、「三従」とは「四徳」とは、と説明していく。それらは「女らしい所作、女らしい容姿、女らしい言葉使い、女としてのワザ[料理・裁縫・掃除など](婦徳・婦容・婦言・婦工)」のことらしい。
現代女性から見れば、「なんで女が料理・裁縫・掃除なの」と言われかねない、と作者は認識しているのだ。これらは、かっての『平均的母親像』だった。

『むかしの母親は、子供の排泄物のついたオシメを嫌がらずに洗濯する』。常に愛情のこもった言葉で育み慈しむ。苦労して生育に必要な品を調達し入念に調理して食べさせていた。
 夫に対しても子供同様に接していた。どこの家庭にもいる平均的な母親の姿だ。
 常に耐え忍び、努め励み、貪欲な心を抑えて、全生命を打ち込む努力をするのが「菩薩の行」だ。平均的母親達は夫・義父・姑・小姑のシガラミの中で、この行を毎日黙考・難行していた。

 戦争が終わって、「かっての平均的母親像」の大樹は急速に枯れ果ててしまった。いまの母親は『、汚れた紙オシメは捨てるだけ。対話できる食事時間は共にしない。食事は調理済みの冷凍物。食べ物も好き勝手にさせる。子の「願い求める仕事」は知らない。家事を手伝わせず一人部屋に引きこもらせる、などと現代の様相は変わった』と見なす。
 こういう環境で育った子供はどうなるのかな、などと憂える。作者は、現代の子を持つ若い夫婦に問題を投げかけるのだ。

 作者の思想が鮮明に打ち出され、一本のせんでしっかり結ばれている。作風としては、自問をくり返しながら、骨格の太い論理を構築していく。最後におよんで、読者の倫理、道徳を問うもの。思想の好き嫌いは別にすれば、奥行きの深い、現代に警鐘を鳴らす作品だ。


        中澤映子    動物歳時記・その6 「ドッグ・パーティ」

                            エッセイ教室・動物歳時記その6


  “犬達のパーティ”が、日吉にある邸宅の庭園で開かれた。パーティのヒロインは“アイとその娘たち”だった。「アイ」が産んだ4匹の仔犬たちは貰われていった。この日は藤澤市、国分寺市、恵比寿、そして地元の日吉から、やってきて、母娘はほぼ4ヶ月ぶりの再会だった。
「アイ」は、少し緊張していた。おチチを一緒に飲んだり転げまわっていた頃の事を思い出したのか、互いに挨拶(お互いにお尻のニオイをかぐ)を交わした後、わが娘だと確認したのか、ナメたり、一緒に走ったり。そこには久しぶりに逢った母娘の愛情があふれていた。

       秋の陽に母娘犬たち再会す

 里親の方々からは前々から、写真付きの手紙を貰っていた。夏休みには一緒のドライブ。行儀がよく近所の人気者だとか。『アイの飼い主としてはちょっと鼻が高くなる報告でしたが、やはり娘達を目前に見ると感慨もひとしお』と真情を述べるのだ。さらには、『アイに代わって人間の親心が顔を出してしまいました』と心情を打ち明けるのだ。
 犬、人間共にワンダフルな時を過ごして、秋の陽が陰り始めた頃、“アイとその娘たち”の再会を約束し、記念撮影のあと、帰っていく娘達を惜しみながら見送った。

 人間にしろ、動物にしろ、親子の対面はあたたかい感動を覚える。人間の大切な情感を満たしてくれる作品だ。作者は一つの文体を持っており、擬人法も取り入れた、心暖かい心情を綴る。それだけに、読後感にはとてもいいものがある。

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