A020-小説家

第10回 「元気100エッセイ教室」の作品紹介

 エッセイ教室は10回目を数えた。提出された作品はいつもながら、個性豊かで、バラエティーに富んでいる。あえて作品に差を付けるとすれば、文章力と表現力だろう。

 しかし、エッセイは素材が勝負だ。となると、人生経験豊かな作者ばかりで、優劣はつけがたい。エピソードが面白く、楽しませるものから、人間の本質を深く追求している作品まで、幅が広い。

 女学生のとき、自殺を予告する青年に逢いにいった。かれのマントに、双肩から包まれた、翌日、かれは死んだ。強烈な恋の想い出。
 観たい展覧会があれば、さっとニューヨークに飛び立てるシニア・女性の国際感覚。
 戦前戦後の教育の違いを語り、作者が書き残しておきたい世界で、論理を展開していく作品。
 こうした素材に差をつけても無意味だし、ナンセンスだと思う。

 講座のスタートはいつも30分間レクチャーを行う。今回は初稿を書き終えたあとの【チェック・ポイント】についてアドバイスをした。初稿はやや多めに書く。推敲で削っていく。これがコツで、削るほどに文章は磨かれる、と具体的に示した。

         上田恭子  愛とは

              

 倉田百三の「愛と認識の出発」を愛読する、女学校の4年生の多感な時代に敗戦となった。「私」たち家族は京城(いまのソウル)から金沢の伯父の寺に引き揚げてきた。「私」はもう一度4年生をやり直す。兄は四高に編入した。
 兄は敗れた帽子にマントを纏い、半分ちぎれたわら草履に、汚れた手ぬぐいを腰にさげ、「人生とは」、「なんのために生きるのか」とか4、5人集まっては議論していた。「私」は密かに、その中のひとり、愁いをふくんだ、ある文学青年に憧れていた。

 金沢の繁華街で、その文学青年を見た。「私」の心は震えた。俯き加減に歩く彼だったが、その後、生きることに疲れたといい、自殺を図るのだ。

 実兄が「私」を連れて、密かに自殺を予告する文学青年に別れを言いに行った。寒い日だった。青年は「私」をマントの中に入れてくれた。
 暖かな彼の腕のなかで、「わたし」は震えていた。一方で、死を覚悟した彼の想いを変えさせるのが愛なのか、希むように死なせてあげるのが愛なのか、と考えていた。結論の出ない自問のままで終わった。それは彼の死の前日の出来事だった。

 何十年か経って、彼の遺体が樹海で見つかったと聞いた。所帯の苦労を背負う私には、もはや遠い昔の懐かしい思い出になっていた。

 女学生時代に体験した、青春の恋。というには悲惨な結末である。四高の青年が死の前日に、「私」やさしくマントで包んでくれた。この一点に恋が濃密に凝縮されている。
 極限の愛が無駄なことばなど、一切なく描かれている。事実の重みに勝るものはない。歳月が経たなければ、とても書けないエッセイだろう。


          中村 誠   教 会 で

 

 学友の葬儀が、田園調布の高級住宅地の、ある教会で行われると案内がきた。3月の薄日の北風が肌を刺す日だった。
「私」と同じように教会を目指す4、5人が街角で道を確かめながら前方を行く。たどり着いたところは、外国の街なかの教会を思わせた。

 入口付近では、仲間同士がかれを偲ぶ立ち話をしている。顔見知りもいたが、目礼し受付で記帳した。渡された栞には賛美歌の楽譜、Y君の記録、式次第がある。見慣れない専門用語で、前奏(黙祷)、招詞からの式の流れがこまかく書かれていた。

 300名は座れる礼拝堂には、まだ早いためか、二十数名が着席するのみだった。「私」はこの葬儀まで、亡き学友がクリスチャンだとは知らなかった。隣席の信者仲間に、栞のなかの疑問を尋ねてみた。
「昇天でなく召天? 字が違うな」
「キリストは昇天。信者は召天、即ち、天に召された」
 と説明を受けた。
 亡き学友はこの教会で洗礼を受け、結婚式もここで挙げたと教えてくれた。隣席の信者はそのときの司会者で、なおかつ二人をつきあわせたのは自分だったという。
 亡き彼とは生前に信仰について話した記憶がない。それだけに、亡くなってからの学友の新たな発見だった。

 牧師が式次第に沿って式をすすめた。賛美歌を皆で歌うのも良く、佛式の葬儀にはない心の落ち着きを感じた。
 祭壇の笑顔あふれる彼の写真に献花をし、奥さんと二人の娘に挨拶をし、礼拝堂を出た。ふしぎと暗い雰囲気はなにも感じなかった。生前の彼の人柄がにじみ出ており、さっぱりした記念式だった。

 仲間5人と鰻屋でいわゆるお清めをやった。
「2年前に喉頭がんとわかり、昨年は闘病に打ち勝っていた様だが、やはり駄目だったなぁ」
「彼の希望を奥さん、娘さんがかなえたよい記念式だった」
 気配りの上手い亡き学友だった。我われは落ち着いて彼を見送ることが出来た、と語り合っていた。

 ストーリーの運びが巧く、抑えが利いた作品だ。葬儀に向かう田園調布の情景描写は、心象風景とうまく重なり合っている。結末のウナギ屋のお清めが、重い素材をしっかり支える。
 作者が、学友の死に感傷的にならず、対象を突き放し、距離をもって教会の葬儀を描いている。それだけに作品には奥行きと深みがある。


          森田 多加子   さくら


 毎年桜の時期になると、梶井基次郎作品の冒頭の一行、『櫻の樹の下には屍體が埋まってゐる!』という強烈な言葉が浮かんでくるという。
 昔は、無縁仏は枝垂れ桜の木の下に埋めていたという。寺院に枝垂れが多いのはそのせいだろうか。
 数年前に、「私」は福島県三春町の滝桜を見に行った。一万本の桜のうち、二千本が枝垂れ桜だという。枝垂れ桜が咲く寺院をまわってみた。この樹の下には、ほんとうに屍体が埋められているのか。『そう考えると、何かを怨みながら死んでいった人々の魂が、浮遊しているようにも見える。それを見守るように、薄桃色の花が覆いかぶさるように咲いていた』と、作者は描写している。

 1000年以上も経つという枝垂れ桜には、つっかい棒に支えられ、けなげに咲いていた。それを鑑賞する「私」は、病院のベッドでいろんな装置をつけられ、無理に生かされている自分の姿を連想してしまったのだ。医者が懸命に、「私」の命を支えてくれても、巨木の桜のように美しい花を咲かせられないだろう、と予測するのだ。
 
 上野公園にはソメイヨシノが多い。今年も花見客があふれていた。『桜の下で、食べて飲んで楽しく過ごす。華やかな桜は人を幸せにする力があるのかもしれない』。突然風が吹いてきて、花びらがいっせいに舞う。花吹雪だ。散る桜を通して、人間の生命を考える、暗示的なものがある。

 死後の屍と、繚乱の桜との関連。陽と陰との濃密な関係が書き込まれている。いずれ来るだろう、自分の死を見つめるベッドの情景を挿入することで、作品に奥行きの深さを持たせている。ここは作者の上手さだろう。


        二上 薆    四 大 節    自分史のよすがに


 戦前の小学校で行われた、厳粛な行事から書き出す。歌う式歌こそ違え、いつも同じような厳粛な式だった。

   4月29日は天皇御誕生を祝う天長節
   2月11日は建国を祝う紀元節
   11月3日は明治大帝の御遺徳を偲ぶ明治節

 荘重な教育勅語の朗読がおわると、白手袋で礼服姿の校長先生が御勅語の巻物をたたむ。そして、ピアノ伴奏で、「今日のよき日は大君の生まれ給いし……」と児童たちは歌う。
 式典が終わると、子供たちは小さな紙包みに入った、紅白の干菓子を頂いて帰る。家々の門口には日章旗がはためいている。

 家で祝う四方拝を含めた、四つの国定の式典を四大節という。敗戦とともに四大節はなくなり、形と名称を替えた。日本は世界一祝祭日、休日の多いという国になった。

 他方で、家々にはためく日の丸が消えてきた。家々の鮮やかな赤と白の旗、紅白の祝い菓子の儀式は、国家という集団社会にも、心の支えとしても必至ではないか、と作者は訴えるのだ。

 中西輝政氏の近著には、戦争末期、国際スパイのゾルゲ事件が触れられている。尾崎秀実は事件の主役で、死刑宣告された。獄中からの上申書では日本の風土、民族の誇りと日本の国体に深い畏敬の念を述べているのだ。
 戦後間もなく発刊された書物からは、獄中から愛嬢への切々たる思いを述べた、人間尾崎が髣髴と現れる。
 秀才の尾崎が理論、理想に走る前に、人間の共生や美しい山野の恵みなど、国家の意味を深く考えて欲しかったと、作者は強く思うのだ。
 同様に、いまの時代においても、日本の未来を背負う優れた若者に、このことを特に望みたい、と述べている。

 仏教、キリスト教、イスラム教、その他、いずれの宗教も心のあり方を訴え、厳粛な儀式は当然のものとして存在する。しかしながら、わが国では人間の共生ルール、祭り、儀式というと、国家主義と決め付ける風潮がある。何かというと自由第一と声高にいう。
 愛国心という言葉がタブー視されている。作者はそこに強い疑問と、現代の行事批判を投げかけている。

 作品はまず書き出しで、作者の目で、厳粛な小学校の行事がしっかり描かれている。戦前の記録として、史実的な価値ある作品だ。
 近代史のひとコマのゾルゲ事件から、国家を考える。この展開への運びはうまい。同時に、死刑囚の尾崎秀実の世界革命の思想と、人間として愛嬢への想い、二つを重ね合わさせる。そのうえで、美しい山河の国家をうたい、四大節の意義とその精神の現代社会への導入を主張する。

 作者が導く論理や思想信条は、読み手それぞれによって違うにしろ、骨太の文体が内容と合致した、深みがある作品だ。


           山下 昌子  「かっこいい」のかな

 
          
 1994年秋、友人からの誘いで、「私」はニューヨーク五番街の高島屋で開かれる、星野富弘詩画展を観にいくことになった。10年ほど前に、夫のニューヨーク赴任で連れ添い、三年余り生活した経験がある。
「私」はその引越しの準備に忙しかった頃、心が落ち着かず、なかなか寝付けない夜が続いた。「私」の様子をみた母が「明日のことを思い煩うなと、聖書にも書かれているでしょう」とそれを読むように薦めてくれた。同時に手渡されたのが、星野富弘詩画集だった。

 アメリカ人の友人にも、同展に来てもらい会う約束ができた。ケネディ空港に降り立ったとき「ああ、この空気、この風、この匂い、ニューヨークだわ」と叫びそうになった。その夜は7、8人の仲間とマンハッタンのイタリアン・レストランに出かけた。
 太った中年のウェイターがカンツォーネをうたってくれた。「私」が口ずさんでいたら、一緒に歌おうと立つように腕をつかまれた。イタリア語で「オーソレミオ」を歌った。それはかつて高校のころ、母と一緒に原語で歌ったことがある。

 いまや93歳となった母だが、歌が好きで、昔の歌はよく覚えている。86歳の叔母と一緒にたくさんの歌をうたう。叔母からのメールによると、母がドイツ語で「リンデンバーム(菩提樹)」、フランス語で「野ばら」歌ったとある。

 かつてソウルでも原語で「アリラン」を歌って韓国人のおばさんに喜ばれたことがある。原語で歌えば、現地人との交流には役に立つ。『93歳と86歳が外国の歌を原語で歌うのはやっぱり「かっこいい」のかなと思ったと結ぶ。

 ニューヨークの絵画展でも、電話の誘いひとつで手軽に観にいく。現代女性の躍進の一面に、スポットが当てられた作品だ。現地に着けば、イタリア・レストランで、原語で歌う。
 他方で、実母93歳、叔母86歳がいまなお外国の歌を原語で歌う、と紹介する。国際感覚が豊かなエッセイだ。同時に、語学力アップへの啓蒙的な作品だ。
 欲をいえば、米国の友人との詩画展の鑑賞風景が書き込まれていたら、さらに奥行きのある作品となった。


       石井 志津夫(しずお)   梅え話    I氏の自給ごっこ②


 6月半ば梅雨の合間、3夫婦で梅がりに出かけた。長靴、収穫用のバケツやふくろ、軍手を持ち現地に入る。親友から3年前、Sさん所有の鈴なりの梅を全部とっていいと、『梅え話』をもらってから、毎年続いている。
 Sさんの梅林には大小取り混ぜて7、8本が林立している。樹齢40年以上はたつ。それら大木は高さ7メートル、枝の幅は10メートルある。

 梅の採取は全員で、木に登ったり、キャタツを使ったり、手を伸ばせば穫れたり。話し合い、笑いながら行う。一時間もたつと、バケツが次々に満杯になってゆく。1本の木から、バケツ8杯、30キロ以上は穫れる。持ち帰って、3家族で三等分する。

 各家庭では思い思いの加工に入る。「梅仕事」といわれるように、下ごしらえが結構大変だ。わが家では梅酒、梅シロップ、梅干しを造ることになった。
 青梅を丁寧に水洗いし、汚れを落とす。次はなり口のホシを竹串や千枚通しなどで、丁寧に取り除く。たっぷり半日くらい水につけてアク抜きをし、ザルで水を切り、しっかり拭く。ここまでは必須である。

 梅シロップは、フォークで穴を数箇所にあけていく。一人では辟易(へきえき)となるので、二人で気長に取り組むしかない。

 梅酒やシロップを飲んだり、梅干しを食べたり、それは楽しく、梅え話に違いない。他方で、加工を楽しんだり、漬けるのを楽しんだり、眺めて楽しむゆとりを持たないと、この自給ごっこは長続きしない。

 作品は『自給ごっこ』というタイトル通り、リタイア後の楽しい生き方のひとつを示唆する。素人の梅狩りだから、収穫の情景が細かく書ける面があるし、その喜びが伝わってくるのだ。
 そして、梅の加工。生活提供の情報と、「私」の生き様の心境とがうまく重なっている。「梅え話」という洒落がはたして成功か否かは問わず、読み手が楽しくなる作品だ。
 観察力のよい、きめ細かな描写力を持つ作者で、素材が明るく処理されている。


    塩地 薫   中国人の男の料理  はじめての中国旅行(その五)


 初体験の中国旅行シリーズだ。今回は中国人の料理の腕前に焦点を絞り込んでいる。

「私」の家族がマイクロバスを借り切り、杭州の西湖や霊隠寺などを日帰り観光した。西湖ではしだれ柳の堤を散歩し、遊覧船にも乗り、公園で放し飼いの孔雀に餌をやり楽しんだ。そして、湖州に帰り着いた。

 許(シュ)の知人で、40代の愛想のよい男性が料理を作って待っていてくれた。会食が始まった。食べている最中にも知人は、野菜料理、魚料理、肉料理を次から次へと作り、テーブルに運んできた。
 女性のほうはだれも加勢しないで、おしゃべりに夢中である。
『料理ごとに赤黄緑茶黒、色とりどりで、味もおいしい。日常の家庭料理だというが、器用なものだ』と感銘する。「私」が料理の名前を書いてくれと頼んだら、快く引き受けて、スラスラと書いた。十数品目に及ぶ。

 翌朝、知人の案内で市場に行った。豊富な食文化を育てる中国だけに、どの肉屋も肉の塊りや臓器を丸ごと置いている。魚屋、野菜屋でも豊富な食材を売る。それらボリュームの大きさと量に驚きを覚えながらも、細かく描かれている。

 中国最後の日には、許がスッポン料理を作ってくれた。『生きたスッポンの解体作業も見せてもらった。首を切り落とし、甲羅を鋏で切り離す。力仕事である。甲羅を開けると、黄色い卵状のものがいくつかある。脂肪のかたまりで特有の臭いがあって、人により好き嫌いの差がはげしいという』。この日は、それを取り除いて料理してくれた。

「男の料理は、思いっきりがよくて、おいしいわね。あなたも、男の料理教室に行きなさいよ」という妻の言葉で、結末を上手に決めている。

 作者は体験に基づいた、リアリティーたっぷりの観察力だ。とくに観光地、食品市場、調理方法と一つずつがこまかな描写力で、しっかりまとめ上げてられている。
 料理メニューの羅列はやや冗漫に思える。しかし、中国通のひと、中国料理好きなひとには、それが作品の深みと味わいになるだろう。
 作品とは読み手によって評価が分かれるものだから。


          奥田和美  チャミちゃん


 台湾人女性『イフ』のシリーズものだ。苦労人のイフさんには、ふたりの美人姉妹がいる。今回は姉・チャミの生きざまに焦点が当たっている。いつもながらテンポよく、楽しませてくれる。

 4年生の女子大に通うチャミは、バイトで歯科医院の受付、甘味処、旅行会社、高級レストランなどに勤める。彼女の性格は何でもよく気がつくことで、仕事をテキパキとこなす。一度アルバイトをすると、必ず「また来て」といわれるらしい。

 母親のイフさんが台湾料理店をはじめた。長女のチャミはその店を手伝っていた。料理の運び方、出し方、お客様への配慮、会計と、すべてをこなす。チャミに任せておけば安心だった。

 4年生の彼女はAIU保険会社に就職が内定していた。
 バイトに明け暮れるチャミは、前の晩遅くまで仕事をしているのでどうしても朝寝坊してしまうのだ。スペイン語の授業は月曜日の一次限目。卒業前にして、そのスペイン語の単位がとれなかった。スペイン語の先生はスペイン人でとても頑固な人だ。卒業ができなかったのだ。

 AIUは一年だけ就職内定を延ばしてくれた。彼女は授業料稼ぎに、アルバイトをしながらも、一年間スペイン語の授業だけ受けた。土日はイフさんの台湾料理店を手伝った。また同じことが起きた。卒業できなかったのだ。AIUは二年も待ってくれなかった。

 母親は「あんな大学、何年かけて卒業するの」と嘆く。チャミは6年かけて女子大を卒業した。そして政治家の秘書となった。やがて他の代議士の秘書と結婚した。

 婚約式、結納、台湾での親族顔合わせ会、さらに結婚式はハワイで行われた。「良いことは何度してもいいのよ」というチャミ。ハワイから帰っても、東京で結婚パーティと五回もお祝いをした。これらはすべてチャミの手配によるものだった。
 
「私」はそのハワイの結婚式に参列した。海辺の小高い丘に祭壇が設けられていた、白人の神父の前で、新郎新婦は誓いのサインをした。チャミはぼろぼろ涙するので、「私」ももらい泣きした。

 夕日の海辺では、生演奏の歌と音楽が流れる。チャミは幸せいっぱいで輝いていた。陽が沈むころ、浜辺のレストランで、20人ぐらいの個室パーティが行われた。フダンサー一人、ウクレレ奏者一人のフラダンスがあった。「私」は間近でフラダンスを見るのは初めてだった。アットホームなすてきなパ―ティだった。

 チャミ夫婦は最近、都心のマンションを買ったという。新居に引っ越したら、「私」はぜひお呼ばれしたいものだ、と結ぶ。

 作品はチャミの女子大4年生から結婚後までを紹介している。人生の距離が長いと、エッセイは上滑りになりやすい。だが、テンポのよさで突ききっている
 女子大学で卒業できず留年続きとなると、暗く失望の出来事だ。それすらも、明るさで吹き飛ばしてしまう。作者の感性とリズム感は、他には真似できないものがある。


          吉田 年男    表 現 力

 

「鬼平の舞台を歩く」というイベントに、参加した。都営地下鉄「菊川町駅」に集合してから、歴史研究家の引率で、本所深川界隈を歩いた。
 清洲橋通りと、首都高速7号線が交差している二之橋から、南へ下り、小名木川に至る。ここが江戸の地誌書である「御府内備考」に万治2年(1659)に本所奉行の徳山五兵衛と山崎四郎左衛門によって掘られた「六間堀」の場所だった。

 そこに立ち止まって、しばらく目をとじていると、池波正太郎の代表作の一つ、鬼平犯科帖の「寒月六間堀」の一場面が浮かんできた。

『昨夜の雪はどこにも残っていず、鏡のように冷たく晴れわたった空の下を、いつものように着流しに編み笠の浪人姿で、長谷川平蔵は林町の通りをぬけ、弥勒寺の門前へさしかかった』

 東京の街は、大きな道、起伏などは400年経ったいまでも変わっていない。現地は緩やかなカーブと坂道だ。そこに、着流しに編み笠姿の侍が、ゆっくり歩いている様子がくっきりと眼に浮かぶ。
 池波正太郎は、江戸の切絵図を広げながら、小説を書かれたといわれている。江戸の町や庶民の暮らしがリアリティーたっぷりに、生き生きと描かれている、と作者は紹介する。

 時代小説のファンには、味わい深い作品だろう。コラムニストが、『鬼平の舞台を歩く』という一日の体験を書いたように、そつなく纏め上げている。
 現代から江戸時代をリアルに書き切れる、池波正太郎の筆力へのおどろきが率直に描かれている。 他方で、名筆の池波正太郎の表現力を学ぼうとする、作者の想いと熱意が伝わってくる作品だ。

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