A020-小説家

小さな生命の旅 (1)  【掌編・私小説】

 八ヶ岳・硫黄岳の登山で、4月4日、迂闊にもアイスバーンで足を滑らせ、滑落事故に遭ってしまった。岩盤に当たれば即死。『死』の境地のなかで、滑落しながらも、身体を停止できた。思いのほか長い距離を落ちた。約200メートルだった。


 裂傷は一ヶ所もなかったが、身体を点検すれば、かなり傷ついていた。雪上制動の最中には、顔面は雪で擦ることから(基本)、試合後のボクサーのように腫れ上がっていた。左足の膝は転倒のときに捻ったので、じん帯を痛め、膝間接が曲がらない。右足は打撲で腫れている。制動の摩擦から、右腕は二の腕の皮膚が全体に擦り剥けている。このていどは、生命の代償とすれば、あり得る状態だと自分では納得している。

 4日後の8日には、夫婦で四万温泉の一泊旅行の予定が入っていた。全身打撲の身体だから、自家で安静にしていたほうがいい、と妻がホテルのキャンセル料を調べはじめていた。私は取り消しに応じなかった。

 温泉旅行はさほど好きではない。これまでは交通費と宿泊費をかけた温泉旅行などは乗り気しないし、夫婦づきあいで年に1、2度応じるていどだった。その理由は温泉など登山の下山後に手軽に入れる、という意識からだ。

 高所の登山は休火山が多い。山麓の温泉地に立ち寄り、公営の安い温泉で汗を流し、帰路に着く。それを常としている。年間にすれば、温泉に入る回数は多い方だろう。だから、なにもわざわざ交通費をかけて温泉に行く気がしないのだ。
 今回の私は違っていた。

「そんなにも怪我して、満足に歩けないのに、旅行など止めたほうがよい」と妻は執拗にいう。一泊ていどの温泉では治療効果などない。外傷に対する効能など、もとより微塵も期待していない。それでも、私はかつて一度も行ったことがない四万温泉の旅行にこだわった。

 今回のアクシデントは妻に、凍った石の上で転んだ。顔面から倒れた、というていどの説明に終始していた。気の弱い妻には不必要な不安を与えない。それよりも今後、登山するたびに山を怖がられると、山に行きにくい、その都度、どんなに安全な山かと釈明も煩わしい、という打算があったからだ。

 結婚の条件は山行きを反対しない。婚前の彼女は応じてくれた。それも、子どもが生まれるまでだった。それ以降は、「万が一何か遭ったらどうするの」、とつねに不安を口にする妻が目の前にいた。手軽な山だ、遭難などしないといつも言い包めていた。それが数十年つづいてきた。これ以上、釈明の煩わしさを付加する気になれなかったのだ。

 東京駅八重洲口発の直通バスは12時15分に四万温泉に着いた。終着の停留所が宿泊所のホテルだった。チェックインは3時。フロントに荷を預けてから、山間の温泉街に出た。坂道の両側には、黄色い連翹(れんぎょう)、水仙、サンシュウの木などが咲く。梅は満開だった。桜の開花にはほど遠い。


 雲間からは雪峰が光ってみえた。前方は三国連山で、右隣りにつづくのは谷川連峰だった。私は大学時代から登山をはじめた。登山歴は長い。その間に、谷川岳でのアクシデントは一度もなかった。他方で、死に直面するような滑落は今回で三度目だった。

 どんな山岳専門誌でも、『雪山で滑落したら、ベテランでも止められない。転ばないことだ』と書いている。それを3度も体験したことになる。

 八ヶ岳・硫黄岳のアクシデントを省みた。断崖を落ちているとき、逃げたピッケルをバンド(紐)で引き寄せていた。同時に、雪上制動のピッケル・ワークに全知全能で対応していた。自分に冷静になれと、つねに呼びかけていた。

 一瞬だが、『この加速度で、突起した岩盤に身体が当たれば、死ぬ。どんな屍になるのかな』、という思いが脳裏を横切った。それは冷静さを失うと頭のなかから排除した。岩盤にも、樹林帯に突入後には大樹にも当たらず、停止できた。

 四万温泉の一泊旅行の理由が、死からの生還にあった。『生きて帰れたからこそ、初めてみる四万温泉の風景もみられるのだ』という素朴な『生の実感』をつかみたかったのだ。生命が継続できる喜び。身体が傷むからといい、自家で悶々と横たわっていたならば、それがつかみ難いと四万温泉にやってきたのだ。

 左足を引きずりながら、昼食の店を探した。『小松屋』という慶応元(1865)年の創業の蕎麦屋があった。五代目の店主がつくる手打ちソバは美味しそうだ。二段重ねのそばを食べた。一本150円の『田楽』がことのほか美味しかった。

 四万グランドホテルは、旅館「たむら」と連携しており、どちらの温泉も入れるという。夫婦はそちらにむかって坂道を登っていった。眼下の四万川の河岸には、野生のサルが5、6匹ほど群れていた。山の樹木はまだ裸木だから餌がなく、里に降りてきているのだろう。サルの群れに、冬の名残りがあった。

『たむら』は旅館とは思えない、豪華な作りで、内部は一流ホテルだった。ロビーの一角は座敷風の展示場だった。享保雛などが数多く飾られていた。現代のひな人形も飾られているので、どれが江戸時代の物かわからなかった。細かな説明はわからないまでも、一つひとつの表情は違うし、見飽きないものがあった。

 温泉は地下三階だった。それは四万川の河岸と目線が一致する高さだった。湯のなかでストレッチしたり、マッサージしたり、あるいは湯船に身体を沈めたり、それらをくり返した。大学四年生のときに滑落事故に遭った光景がよみがえったきた。

 前穂高の山頂直下だった。私は単独行で急斜面の雪渓を登っていた。頭上の岩場ではハーケンを打つ音が響いていた。ロッククライマーが足元の岩を落としたのだ。落石は雪崩と同じ、ガラガラ激しい音ともに拡大してくる。

 目の錯覚で垂直に思える雪渓のうえだ。落石に直撃されると思っても、かんたんに逃げられない。突如として、人間の頭部くらいの石が、私を目がけてストレートに飛んできた。私はとっさに横飛びで身を伏した。同時に滑落がはじまった。落下していくような、猛烈な滑落速度となった。『死ぬって、こういうことか。さびしいな』という想いが脳裏を横切った。

 他方で、からだはピッケルを使った滑落停止の訓練通り、しっかり反応をしてくれた。数十メートル下で、ピッケルが利いて止まった。立ち上がると、精神的な動揺からすぐに転倒した。また、雪渓の急斜面を滑りはじめた。こんどはピッケルで容易に止められた。

 落石の原因を作ったロッククライマーふたりが岩場から降りてきた。『登山者を殺した、と青ざめました』と非を認め、ひたすら謝っていた。別に怒りは感じなかった。これが登山だと思ったからだ。
 登山はなにが起こるかわからない。『死を意識する』そうした体験は次に生かされる面がある。いい経験だと自分に言い聞かせていたのだ。

 旅館『たむら』の湯上がりの私たち夫婦は、グランドホテルに入った。翌日は散策に出向いた。国宝・薬師堂では、妊婦の姿といたわる男性がいた。シャッターを押してあげると、喜んでいた。

 私の妻がひとり目の娘を出産した後だった。20代半ば。真冬の奥日光連山で、滑落のアクシデントに遭ったのだ。

 仲間と2人パーティーだった。その点では八ヶ岳・硫黄岳の状況によく似ている。違う点は傷が深く、深夜の捜索隊騒ぎに巻き込まれてしまったことだった。

 登山基地の湯元は前夜まで雪が降っていた。湯元から金精峠を越え、根名草山の山頂へとむかう。新雪のラッセルで苦しめられていた。他方で、雪山経験の浅い同行者には登山技術を教えていた。山頂はすでに昼を過ぎていた。行動食をとった後、山頂から大嵐山(2304メートル)へ向かう。

 仲間の足もとを指図するために振り向いた。バランスを崩し、頭から転倒した。まっ逆さまに急斜面を滑落していった。ピッケルで上半身の向きを変え、制動姿勢に入った。 

 深い新雪があまりにも柔らか過ぎて、ピッケルによるブレーキがまったく利かなかった。どこまでも流されつづけた。からだは樹林帯へと突入し、大樹の幹に叩きつけられた。ピッケルで腹部まで傷つき、防寒着まで血で染まったのだ。

 
                 『3回連載』として、来週にも掲載

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