A020-小説家

第9回 「元気100エッセイ教室」の作品紹介

 小説やエッセイをよく読む人は、『自分でも、このくらい書ける』と思ったり、口にしたりする人がいる。実際にペンを持たせると、まず書けない。一作くらいはまぐれで書けても、後にはつづかないものだ。

 プロ野球のテレビ観戦で、ピッチャーの癖、打撃のフォーム、打球の処理など、ベテラン評論家なみに語るひとがいる。実際にグランドに立たせてみると、球はまったく打てない、走れば足がもつれてベース前で倒れてしまう。ある意味で、読書家はそれに似ている。読む目は肥えているが、書くことはダメなのだ。

 創作はつねに書き続けることにある。当教室では、毎月かならず一本はエッセイを書く。良い打球もあれば、凡打もある。打ち疲れもある。それでも書き続けることで、他人が読んでくれて、なおかつ感動する作品が効率よく書けるものだ。

吉田 年男   タバコの香り


 大学病院の待合室で、隣の老紳士の上着からタバコの香りがした。「私」は禁煙をしてから三十年は経つ。タバコを覚えた当時のことが思い起こされたのだ。

 映画三昧の日々のころ、『西部劇で、カウボーイがウエスタンブーツの底で、さりげなくマッチを摺り、くわえタバコに火をつけるシーンが、たまらなく格好よかった』。邦画では、石原裕次郎がくわえタバコでアクションシーン。この格好よさに憧れ、「私」はタバコを吸うようになった。同時に、タバコとコーヒーの相性のよさを実感したのだ。

 作品は今日的な、タバコの医学的な害に及ぶ。喫煙者は肩身の狭い思いをしているが、ゆらゆらと揺れる煙と、漂う香りにロマンを感じているのだという。
 あらゆる商品がデジタル化された時代に、タバコの香りはオーディオアンプの真空管の温もりにも似た、アナログ的な人の心の温もりを感じる、と結んでいる。タバコの情感を過去から現在へうまく取りまとめている。テーマがしっかりしたブレのない仕上がりになっている。


塩地薫   アヤとロンロン  はじめての中国旅行


 五歳の孫娘アヤ、六歳のロンロンは国籍の違う従兄妹どうしだ。ともに一人っ子どうしでもある。
「私」が上海を訪ねた。日中の家族が集まった席で、孫娘のアヤが中国のアニメ「西遊記」の孫悟空のテーマソングを歌う。ロンロンも歌に加わった。ふたりは身ぶり手ぶりよろしく、歌い続ける。

 こうした子どものエピソードから入り、日中の教育の違いまで掘り下げていく。

 アヤはゼロ歳の時から、毎年三か月、母親に連れられて里帰りしていた。言葉を覚え始めると、最初の一週間は日本語しか話さないが、ロンロンと中国語で遊んでいるうち、日常会話も何となく理解できるようになっている。

 上海に来て四日目、湖州市に移動した。バスターミナルに着くと、息子の嫁の実家(許さんの家)がある河畔居まで、輪タクに乗った。タクシーが通れない人込みの商店街を「ライライ」とか何とか声をかけながら巧みに通りぬけていく。河畔居に着いた。
「おばあちゃん、このおじさんが『お金を払って』と言っているよ」と妻に教えたという。五歳の孫娘アヤは通訳のみならず、許さんの家までも道案内した。五歳でも結構役に立ったという。

 アヤが4月から小学生になる。中国は九月から新学期だ。ロンロンはすでに小学生になっていた。「私」は中国の教科書などを見て、二つ感心した。一つは数学で、一桁の足し算、引き算の問題。もう一つは国語だったという。
 ロンロンが白居易が江南を詠んだ五行詩をすらすらと暗唱してみせた。地元の詩人が地元の風景を詠んだ古詩を小学生に暗記させる、それはよいことだと思う。「私」は日本の古典、俳句や短歌や詩などを選んで、アヤに暗記させようと決めた。

 ロンロンは勉学に一歩先んじているが、アヤは別の特技を見せた。ベッドの端に立って、空中回転したのだ。アヤがバレエ教室で両手を使って側回転できるのは知っていた。それを超えて、上海雑技を見て、空中回転をやり始めたのだろうか。ロンロンはできないと断った。アヤは得意になって、二三度くりかえしたという。

 二人のいとこの血筋の相違点を考える「私」は、それぞれの成長を見守りながら、長生きしよう、と心に決めるのだ。

 作品は国際結婚による、孫たちの相違点をしっかり捉えている。初訪問となった上海の風俗や習慣など、作者は貪欲に見て、描写している。家族構成が三世代に及ぶだけに、作中の人物関係の説明がやや複雑だ。他方で、教育問題もしっかり掘り下げているし、観察力の面では評価される作品だ。


高原 眞   おんせん

              
 小学校の四、五年頃まで、いつも私は母や妹とともに女湯に入っていた。父に連れ立って初めて男湯のノレンをくぐった。父親は「丁字(ちょうのじゆ)温泉だ」といったことから信じたが、その実、歩いて七、八分の隣町の坂の途中にある銭湯だった。
 湯船は三つあった。銭湯自慢の六一〇(むとう)ハップという乳白色の湯船に入ると、顔見知りのおじさんがいた。
「おう、坊、一人か。こっち、こ」と腕を掴んで引き寄せ、自分の横に座らせたのだ。やがて、おじさんが湯船から立ち上がった。おじさんの背中には、ツノを生やした赤い般若の彫りものがあった。生の「入れ墨」は初めてだ。思わずつばを飲み込み、瞬間に上げた肩の中へ首が埋まった。

 この時代は、ほとんどの家に内湯はなく銭湯が一般だった。「丁の字湯」の周りは料亭、うどん屋や、駄菓子屋、魚屋、洋品店、豆腐屋、酒屋、薪炭店、宿屋、床屋、乾物店と連なり、「宝来座(ほうらいざ)」という芝居小屋もあり賑わっていた。
 夏はどこの店も路地に縁台を出した。その縁台で近所の皆々が勝手に将棋や線香花火に興じ、団扇をゆらしながら夕涼みをしていたと、風物詩として紹介している。

 結婚して東京の一戸建てに住むようになった。近所の銭湯通いだった。夏は行水で済ませた。数年してやっと風呂を設けた。もっぱら生まれてきた子供のためだったが、「私」にとっても内湯は天国だった。

 現在は二十四時間風呂である。子供の頃はたまにしかいけなかった銭湯だが、現在は毎朝欠かさず朝飯前に入浴している。ぜいたくの極み。他方で、銭湯での人との出会いや湯上がりの散歩の楽しみは無くなったと語る。

 家内は「どっかの温泉にいって、のんびりしたい」と最近しきりにいう。わが家の内風呂でも、蛇口からチョロチョロとこぼれる湯の音は、渓谷の露天風呂に流れ込む湯水の心地よい響きがある。「ケチね」といわれようが、わが仮の名「高原(こうげん)荘(そう)」や「マコト屋旅館」の温泉でいいのである。

 時代の流れを捉えるのが上手な作者だ。過去から現在まで、構成が綿密に組み立てられている。いくつかのエピソードで結ぶ。それだけに、作品には奥行きと深みがある。結末はしっかりユーモラスで着地させている。


森田 多加子   お雛さま

 母親の「私」は毎年、幼い娘と一緒に手づくりで雛人形を作り飾っていた。卵の殻で作ったり、紙を貼り合わせたり、絵を描いたり、時にはおもちゃの人形であったりした。雛あられと、菱餅と、お白酒は必ず添える。
 できあがると娘は大よろこびだった。息子をお客さまにして、神妙な顔をしてジュースやお菓子をご馳走していた。

 小学校三年生になった娘が書いた『おひなさま』の作文が学校放送されたという。家庭の大半が市販のきれいな壇かざりだから、『いまどき手づくりというのが、珍しかったのだろう』と「私」は見ていた。

 高校を卒業前にした娘が、『ほんとうはお雛さまが欲しかったのよ』と告白する。「私」はショックだったという。

 さかのぼること「私」が子を持つ母親になったときのことだ。初節句の祝いに「私」の実家から雛人形を買ってあげる、という申し出があった。「私」は飾り付けが面倒だし、断った。

 成長してきた娘が手作りの雛人形でも、大はしゃぎしながら、楽しんでいたから、満足しているものだと思っていた。しかし、親の「私」が考えているほど、喜んでいなかったのだ。愕然とした。無理をしてでも、市販の華やかなものを買ってあげればよかったと、後悔するが、去った日々は取り戻せない。

 嫁いだ娘に男の子が生まれた。五月人形か兜をプレゼントしようと思った。「なんだか戦争のイメージがするのでいらない」とそっけない返事だった。
 次は女の子が生まれた。今度こそ、お祝いに雛飾りをというと、断られた。やがて娘は孫とともに手作りでお雛様を作っているという。

 読後感に奥行きを感じさせる作品だ。良かれと思った行動が、実は反対の結果を生んでいた。『人間って、こういうところがあるよな』という、気持ちになる。ところが、手作りの雛人形作りが輪廻になり、子孫に受け継がれていく。人間の普遍性が良く描けている作品だ。


上田恭子  家族ってなに?


 書き出しから、テーマに単刀直入に、入り込む。『昔、家族ってなんだろう!と叫んでいたことがあった。あれは、何だったのだろうか』と読者にも投げかける。

「私」には辛い時期がいっぱいあった。親が寝たきりになった。二時間おきに体位を変えないと褥創ができると医者にいわれた。買い物をしては帰り、体位を変えてから、また用足しに走り回っていた。
「あの頃、あなたは髪を振り乱していたわね」
友だちにはそういわれた。

 荒波を乗り越えてきた「私」が、現在の世のなかに目を向けていく。血縁があるから親が子を虐待して殺す、子が親を殺す。家族、親、子、孫、何かが崩れ、何かが失われ、自己だけの利己主義が蔓延して、世の中おかしくなっていく。そうした姿を検分するほどに、「私」の憂いは増すのだ。

 TVのトピックスを紹介する。石を投げて学校のガラスを割った子の親を呼んで、弁償させようとしたら、「そんなところに石を置いておくのが悪い」といったとか。社会のひずみは、どこからきているのか。『小さい時に、人として、してはいけないことをしっかり教え込むことがなくなった』からだと、根源へとたどり着くのだ。

 息子の家族に話題が及ぶ。息子は、家族で食事を一緒にすることは滅多にないらしい。「うちなんか、まだいいほうだよ。友達なんか何ヶ月もお父さんと話してないって言っていた」という。家族がどういうものか。常識、倫理感の面でも、危惧を持つのだ。

 人生の荒波乗り越えてきた作者だけに、問題点の一つひとつには説得力がある。淡々とした語り口だけに、深刻さがなく、作品に入り込める。上手い語り口だ。特徴のあるオピニオンの展開だともいえる。


中村 誠   あかぎれ

                   


 右手の親指が『あかぎれ』になった。久しく経験しておらず、あかぎれは、「私」にとっては死語に近いと書き出す。

 妻が指に八針も縫うケガをした。炊事は出来ない。朝晩の洗面や、入浴も不自由。「その助人(すけっと)役に食後の皿洗いの仕事が私にまわってきた。と言うよりも、私は見かねて重い腰をあげて、手伝いを買って出たのだ」と夫婦愛が語られる。日が経つと、指の皮が裂け、あかぎれになったのだ。

 学生時代には弓道の寒稽古で、弓手(左手)にあかぎれが出来たものがいたが、「私」ではなく、学友だった。まさか自分に出来るとは思ってもいなかったのだ。

 妻の友人たちに、「中村さんにあかぎれ出来たぁ?」と一笑に付されたり、「奥さんの苦労が分かったでしょう」と言われたり。同情など一欠けらもない。囃したてられる情景が短い文章のなかで、浮かんでくる。

『皿洗いなど簡単なものと素手で取り組み、手入れなど一切無頓着で何もしなかったのがいけなかったようだ。家内は皿洗いには温水をふんだんに使い、ビニールの手袋をつけて、終われば両手をクリームで手入れをしていた』と気づいたが手遅れだった。バンドエイドを探し、ドラッグストアーの棚に並んだ「あかぎれ保護バンド」を買い求めた。

 一ヶ月半が過ぎた。ケガした妻の指先から包帯が取れた。『長かった台所のサポートは、近々無くなるだろう、と私は期待している』と結ぶ。そこから、夫婦の新たな拡大が読者にも感じ取れる終わり方だ。

 夫婦愛へのアピール力がある作品だ。テーマが妻へのいたわりであり、『あかぎれ』に凝縮され、人生の一つの断片を上手に切って見せてくれている。シニア時代の男性像の一端を垣間見ることができる。


奥田 和美  イエちゃん

                     
 イフさん家族のシリーズものだ。娘のイエちゃんは美人姉妹の妹。作者の末っ子の鉄矢と同い年だった。

「鉄矢は塾に行ってるの?」と母親のイフさんに聞かれたことがある。息子の高校受験は、公立を一本だけ受けさせる。塾なんて夜遊びを覚えるだけだから行かせていないと応えた。
イフさんはそれに合わせて娘のイエを塾に行かせなかった。結果として、希望校の受験に失敗した。
『私のせいで不本意な高校に行くようになった気がした』と「私」は悶々とした気持ちに陥った。

イエちゃんの通う高校は勉強嫌いが多かった。母親の心配をよそに遊んでばかりいた。街でモデルとしてスカウトされた。小冊子に写真が出るようになった。

 ある通勤電車のなかで、「私」の目に中刷り広告が目に止まった。若い娘向けのファッション誌の表紙のカバーガールがイエちゃんだった。『中刷りを引きずりおろしたかった。もって帰って皆に見せてあげたかった』という。むろん、それはできなかったので、イフさんに電話で知らせた。
 イフさんのお店にいったら、その中刷り広告が飾ってあった。

 イエちゃんは華やかな道を進むものだと思っていた。鉄矢に刺激されたのか、予備校に通い、有名私立大学に進学した。「私」は嬉しかった。そして、過去からの心の仕えが取れたようにホッとしたのだ。

 彼女の姉の結婚式がハワイで行われた。手配などのイエちゃんの奮闘振りが紹介されている。イエちゃんは無事大学を卒業し、全日空の客室乗務員として空を飛び回っている、と結ぶ。

 先の作品では、波乱万丈な人生が母親のところで語られている。その血筋を感じさせる娘の紹介だ。
人生には挫折や壁は付きまとう。
 15歳が受験に失敗すれば、当然ながら心の傷は深いものがある。この作者の手で描かれると、明朗で活発な、生き生きした人物に描かれるから、不思議だ。ユーモラスで、勢いがあるし、読者を楽しませてくれる。


二上 薆   花便り  自分史のよすがに 

                                       
 桜の季節がやってきた。『華やかさと散る潔さ、古きよき日本の象徴である』と位置づける。そして桜への想い出が昭和十年代の終わり頃にさかのぼるのだ。そこには小学生の目で見た、桜の盛りの御苑へ行幸する天皇皇后両陛下を御見送りする光景と体験が描かれている。お見送りは小学校の各学年から選ばれた幾人に限定されていた。

「道に沿ってきちんと並ぶんだ。御車が近づいたら合図する。お辞儀をするように腰を折り、顔は上げて、目をしっかりと見開き、車の動きを追って頭を動かし、陛下の御顔を拝して、目礼するんだよ」。
 教師が生徒に指図する内容と真剣さから、天皇制時代の威厳が伝わってくる。

 小学生時代の桜の想い出がいくつか語られる。桜は公園、大広場に堂々と群れをなし、道沿いの桜並木などが目に付くものだ。理由として、庭師のことばが紹介されている。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿、桜は個人の庭に植えるものではありません」。この庭師のことばには、納得させられるものがある。

 成人となった戦後、会社の見学実習に行った生野銀山の情景が語られる。緑の山の山桜のあでやかさが、今でも強く目に残るという。「忘るなよ、行くとも花の戻り道」の句も。
 社会人となってからは、とりわけ毎年恒例の会社の花見、上野公園の花見の場所取りや酒宴の賑やかさのみが残るという。
 他方では昔からの仲間との間で、北の丸公園の花見が、二十年近く、現在まで続く。参加は随意で、二十人余りが集まる。場所取りの苦労はなく、灯(あかり)も自前の地味な夜桜見物だ。隣に陣取った中年女性から、旦那さん、よければ余っていますからと差し入れもあった。
『温かい心、花より人情の花だよりである』と結んでいる。

 作者はいつも素材の選び方、作品舞台がよい。従来とは違った視点での語りは、作品をより個性化させている。
 今回はとくに御苑に行幸する天皇皇后両陛下を御見送る体験は貴重なものだ。数少ない体験者として、記録性の面でも高い評価が得られる作品だ。


山下 昌子   地震と両親


 夫の両親が神戸に住んでいた。二十年前、八十歳目前の両親を東京に呼び寄せるために、和室を増築した。父はさほど抵抗がなかった。
 しかし、人生の殆どを関西で過ごした母は、「東京は地震があるから怖い」と転居を拒んだ。ところが、地震嫌いの母の住む神戸に、大地震が起こったのだ。

 一九九五年一月十七日、テレビでニュースを聞いた。夫は心配しながらも出勤。「私」は電話を横に置いてテレビの前に座り続けていた。電話は全く通じない。両親の近くに住む甥から電話が入った。
「おじいちゃんのイエがないようになった」
 おじいちゃんが居なくなったのかと、聞き違えて驚いた。家がつぶれてしまったという内容で。二人の無事が確認できて、ほっとして夫に知らせた。

 父母の状況がわかった。父は二階のベッドで寝ていた。一階の母は起きて身支度を整え終えたところで、地震に襲われた。二階がつぶれ、下敷きになった。父母は声を掛け、励ましあって助けを待った。
駆けつけた娘一家と自衛隊とが二人を救出した。幸い怪我はなかった。両親は近くの娘の家族に引き取られた。夫は数日後、「私」も一週間後には、リュックに食料を詰め込んで、途中からは徒歩で両親を訪ねた。

 マンション暮らしを嫌った両親が、早く元の場所に住みたいと、秋には小さな平屋を建てて移り住んだ。家具や電気製品が新しく、まるで新婚の家のようだと二人は笑っていた。

 二人は生き埋めになりながらも傷一つなく救出された。その後も明るいエピソードが三つほど聞くことができた。

 両親の家は震災の起こる前日、外装を塗り替えた。震災で瓦礫になったことから、家の死化粧となってしまったのだ。父が代金を支払いに行ったら、業者は受け取らない態度だったが、無理にお願いして半額だけ受け取ってもらった。

 地震と同時に、父はベッドから放り出された。枕もとの本棚からへそくりの十万円が入った封筒が手の届くところに飛んできたのだ。父は救出されたとき、手にしっかり十万円入りの封筒を握っていた。

 保険会社からの知らせで母に地震保険が下りた。神戸には地震がないからと言っていた母は、地震保険に入っていたことを自分でも忘れていたのだ。

 高齢の二人は、落ち込むこともなく、住み慣れた場所で新しい家の生活を始めた。父は震災から六年後に亡くなった。八十九歳になる母は前向きで明るい性格で、婦人会の仕事を続ける一人暮らし。
『私もこんな年寄りになりたいと思う』と結んでいる。

 阪神大地震については、数々の体験があらゆる媒体を通じて残されている。この作品も、その一つ。両親の体験を忠実に書き取った貴重な記録だ。後世に伝えたえるに十二分にものがある。
 リフォームの翌日に地震がきた。それは家の死化粧だったとか、へそくりの十万円が自分の手元に飛び込んできた。偶然性は作品のなかで、リアリティーを失くしがちだが、大震災だけに、そういうこともあるのだな、強い説得力を持つ。作品の核がしっかりした、安定感と、一気に引き込まれる力強い作品だ。

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