A020-小説家

掌編ノンフィクション・3月度学友会より『恋人の顔を忘れた?』

 元教授が北千住で、安価でいい店があるという。6日、月一度のゼミ学友会・5人の集まりが、『大はし』で行われた。1977(明治10)年に創業した『大はし』は、東京で最も古い居酒屋のひとつ。玄関先には〈千住で2番〉と掲げる、ユニークな店だ。


『大はし』は旧日光街道(元の街道)に面している。創業が江戸時代だったならば、『奥の細道』に向かう松尾芭蕉も、最初の宿場町・千住の『大はし』に立ち寄ったかもしれない 

 ただ、昔の旅人の主たる目的は宿場町の遊郭遊び。芭蕉はいい居酒屋があったところで、わき目もふらず遊郭に飛び込み、女郎相手に遊んだり、呑んだりしたことだろう。奥の細道には、遊郭を詠む句が遺されていないので、残念ながら、これは推量にしか過ぎない。

『大はし』の開店時間は夕方4時。5時になれば、サラリーマンで混むらしい。元教授が4時半を集合時間とした。律儀な元銀行屋は約束どおり。元蒲団屋は病身だが、百薬の長がからだに効果あると信じているから、遅れない。ずぼらなヤマ屋はまたしても10分遅れだ。

 元焼芋屋は1時間後だった。北千住の地理に疎い元焼芋屋が、いまJR駅に到着したと、ケイタイで連絡してきた。『大はし』から迎えにいったのが元蒲団屋だ。うまく合流できたらしい。問題はその先で、『大はし』の所在地を見失い、二人して迷子になってしまったのだ。元教授が捜索に加わった。


 店内には元銀行屋とヤマ屋のふたりが残った。
「ここの牛煮込み(320円)は美味いな。豆腐はうまく煮付けられている」
 とヤマ屋が舌鼓を打っていると、真横に座る元銀行屋が、
「きょうの学友会は中止かと思った。場所は追って電話するといっておきながら、寝る前まで、音沙汰なしだ」
 とマヤ屋の杜撰な性格を批判した。弁解の余地なし。ヤマ屋はビールを咽喉に流し込んでから、
「奥さんは愉快なひとだな。まだ夜10時半なのに、亭主は爆睡中だといっていた。毎日、何時に寝ているんだ?」
「9時に寝て、3時起きだ。けさ起きたら、女房が書いた、待ち合わせ場所のメモがあった」
 と無責任さをなおも追及する態度だ。
「いい店だ。料理の味は良いし、店主はテキパキして動きが良いな」
 ヤマ屋が故意に話題を逸らしていると、元焼芋屋が2人に付き添われてやってきた。

「五反田で開かれた会議のせいで遅れた。すまんな。これでも、急いできたんだ」
 元焼芋屋は上手な言い訳をしたつもりだろう。だが、底が割れていた。
「お前が発言したから、会議は長引いたんだろう。よせばいいのに、いつもの癖で一発も二発も会議でぶった?」
 ヤマ屋が問うと、予想通りだった。
「一発ぶったから、一時間の延長で終わった」
「おまえが無言で席に座り、回りの意見をひたすら拝聴すれば、会議はスムーズに定刻に終わったに違いない」
 といわれても、元焼芋屋の目は酒のほうに流れていた。

 元蒲団屋がおもむろに古いアルバムを取り出した。大学時代に撮影したモノクロ写真が丁寧に張られていた。それはわがゼミ・メンバーと某女子大との合同ハイキングの写真だった。

「どこの山だった?」
 ゼミ長だった元教授が訊いた。
「秩父の山だ」
 合ハイのリーダーだったヤマ屋がエピソードを披露した。女子大側の幹事2人と下見をした折、ヤマ屋がすき焼きパーティーの昼食だと決めた。約30人となると、鍋をどう揃えるか。それが問題になった。
「俺がもっているコッフェルと、それにアルミの洗面器を持ってくれば、10人は大丈夫だ」
「洗面器?」
 彼女たちは驚きの目を向けてきた。
「アパートで、何度も洗面器ですき焼きをやった……」
 と平然と言ったものだから、顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまった。

 ヤマ屋に不信感を持った、女子大生側がすべて鍋を揃えたのだ。当時の4年生の女子大生は経済的に恵まれた良家の子女が多かった。当日はすべて新品を買い揃えてきたのだ。
 山頂ですき焼き料理の準備がはじまった。ヤマ屋が固形燃料の硬い蓋をこじ開けているさなか、うかつにも人差し指を切ってしまったのだ。


「合ハイで、ヤマ屋が怪我した? 覚えてないな?」と元教授も、元蒲団屋も首を傾げた。
 数十年経つと、指先の傷跡は消え、話の信憑性すらもなくなっていた。そこでヤマ屋はさらにくわしく説明した。

 鮮血が流れる指をハンカチで巻いたヤマ屋は単独で下山し、病院に飛び込んだ。
「ナイフで切ったな。喧嘩だろう? 警察に通報するぞ」
 医師に疑われた。
「違いますよ」
 一部始終を話したが、釈明下手だから、真実が真実として伝わらず、医師の誤解が解けなかった。
「嘘をつくやつは痛い思いをしたほうがいい。指先は神経が最も集中しているし、痛いところだ。いい薬だ」
 医師が麻酔なしで、それも多めに五針も縫ったのだ。

 ヤマ屋が山頂に戻ってくると、すき焼き鍋はすでに空だった。病院での状況を説明したけれど、女子大生からの同情の声はなかった。
「洗面器のすき焼きなど提案するから、神さまが罰を与えてくださったのよ」
 相手の幹事は真顔でいった。想像する以上に、不快感を覚えていたのだ。
 ヤマ屋は昼食にはありつけなかったが、全員の記念写真には納まることができた。


 ゼミ長はどこか策士の臭いがある。野暮なヤマ屋と、同メンバーの女子大生との交際をあえて仕掛けたのだ。内心は、ふたりの不釣合いを愉快がったのだろう。結果として、結婚に及んだから、男と女の関係はわからないものだ。それゆえに、人生は不思議だし、面白いのかもしれない。

 他方で、もうひとつのロマンがあった。元焼芋屋は合ハイには不参加だった。どう手を回したのか、同メンバーの美人のMさんと交際していた。その期間は短かった。元焼芋屋が大学卒業後、九州に帰ることになった。Mさんは東京駅に見送りにきていた。恋が実らなかった彼女は柱の陰で、涙を流していたという。

「そのMさんは、この女性だ」と元焼芋屋が自信顔で、写真を指した。まったく違う女性だった。
「いい加減な男だな。柱の陰で泣いていた、女性の顔を忘れたのか……」。誰もがあきれてしまった。Mさんが知れば、元焼芋屋は口先だけの恋だったと、嘆き悲しむだろう。


 元教授が別の話題を提供した。
「写真を見ると、ネクタイ姿が多いな。当時の学生は身だしなみがよかったんだ。いまの
学生とはちがう」
 なぜか実感がこもっていた。教鞭をとっていた公立大の学生の質がかなり悪かったのだろう。
(ネクタイの代わりに、鼻にピアスをつけた大学生ばかりだったとか?)
 そんな学生に注意できない自分にも失望し、元教授は大学を去ったのかもしれない。


『大はし』の店主(父)と息子は見るからに俊敏な動きだ。料理を頼んでも、酒を頼んでも、「ハイよ」とすばやく差し出してくる。
 元教授の話によれば、焼酎ボトルを入れておけば、次の来店の折、名前を言えば数秒にして取り出されるという。銘柄は三重県・四日市の『キンミヤ焼酎』で、単品のみだ。

 焼酎のラベルを見て、元銀行屋が目を光らせた。かれは三重県出身だ。醸造元が四日市楠木町だと判ると、
「俺の生まれ育った町の隣だ」
 と感涙を流さないかと、心配するほど感動していた。
「楠木町は、むかしから繊維工場が多いところなんだ。染物工場が多いのは、水がきれいな証拠だ。当然、醸造も発達する」
 三重県の地場産業論になると、元銀行屋の独壇場だ。熱っぽく語りつづけた。
 さらには、三重県は温暖な気候で、生活環境に厳しさがない、人間がのんびりしたところだから、一世を風靡するような大物が出ないと教える。
 元銀行屋を観れば、大物の風格などないし、実証できている。

 
 元銀行屋は豊かな風土で生まれ育ったが、子どものころ家は町一番の貧乏だったという。
「なぜだ?」
「戦前は勢いがある鋳物工場だった。ところが、戦時下になると、鉄製の物資が日本軍部によって強制的に供出させられたのだ。借財だけが戦後まで残った」
 それはまさに貧しさからのスタートだった。かれの母親は乾しイモを粉にする副業で、生計を支えていた。それでも貧しかったという。

 軍部への恨みが元銀行屋の体内で循環しているのだろう。かれは時おり、痛烈な政治批判をする。政治と社会批判は5人のなかで最も秀でている。
 ほかの4人はもと『ノンポリ学生』だ。数十年経っても、いまなお政治への関心度は低い。
 ヤマ屋などは最悪で、30年間一度も選挙に足を運んでいない。小泉劇場で日本中が沸いたときすらも、選挙当日に山に登っていた。どの政治家が良いだの、悪いだのという話題すら疎い。
 東京在住でなく投票権がない元銀行屋だが、都知事選挙の政治談議に熱心だ。投票権を持つが投票所にいかないヤマ屋は、まったく無関心で聞き流していた。

 元銀行屋は頑固な面がある。ケイタイとパソコンを持たないのだ。理由を聞くたびに、いつもこちらの頭に残らないが、どうも通信文明の進歩を嫌っているようだ。もしも、選挙の立候補者が『ケイタイとパソコンの使用は全面禁止』というスローガンを出せば、元銀行屋は一票を入れるだろう。それだけは間違いなく予測できる。


 他方で、元焼芋屋はいつも通信文明の進歩に寄与したと胸を張る。『俺の銅像を作ってもらいたいほどだ』という。どういう文明進歩への寄与か? 彼から実例を挙げて説明を受けた。過去から不誠実ではないが、口上手の男。それだけに、信憑性には多少の疑問が残るので、ここでは割愛する。


 学友としての義理で、かれが拘泥する銅像に刻む文章を考えてみた。通信文明の進歩に関しては、どの角度から考えても、名文は浮かばない。焼芋屋時代の実績とエピソードならば、限りなく浮かぶ。結局は、『無題の男』という折衷案が出た。

 元教授が2軒目を誘った。『大はし』のテーブルを立つ寸前、元銀行屋が棚にならぶ焼酎の一本を購入した。自宅で飲むのか、飾るのか、それは語らない。三重県への郷土愛だと理解はできた。

 徒歩約5分で、『蜂の巣』に着いた。CAFE&BARで、ドイツ、イギリス、アイルランド、ベルギーから直輸入されたビールを提供する。元教授の勧めで、ベルギー・ビールを選んだ。まろやかで過去に味わったことのない、美味しいものだった。


 元焼芋屋がここでも、俺の銅像を作ってもらいたいと、おなじ話題を持ち出す。そこまで拘泥するのは後世に名を残したい、何かしら生きた証を残したいと願うからだろう。
 生命の裏には死がある。意識、無意識を問わず、万物はいつしかわが身の死に及ぶ。寿命は予測できない。未知の寿命を前提として、この間をどう生きるべきか。
 そんな真剣な論議がなされるまえに、犬の寿命の話にすり替わった。
「うちのハスキー犬が最近、死んだ。十数歳の犬だから、もう寿命だった」
 元蒲団屋が語る。

 かれはもともと犬好きではなかった。野良犬だった、子犬を預かることになったと経緯を語りはじめた。『野良犬を預かる?』話が複雑なので、ほどほどに聞き流しておいた。

 ある日、元蒲団屋がハスキー犬を連れて散歩していたら、突如として、他犬の耳もとを噛みついたのだという。
「野性の牙をもつ犬をとても、わが家で飼えない」と判断した元蒲団屋は犬の所有者に返しに行った。「それなら保健所で殺してもらうしか、手はない」といわれたのだ。それではかわいそうだからといい、元蒲団屋が引き取ったのだ。名まえはラッキーとつけた。
 ハスキー犬は図体がでかい。ラッキーは食欲も旺盛だ。家計の圧迫になったが、それでも十数年は世話してきたのだ。
 やがて病魔に苦しむラッキーの姿があった。「ラッキーが若いときはかっこよかった。だけど、晩年は子宮がん、乳癌、の度重なる手術がつづいた」と語る。衰弱し、死が目の前にきた。ラッキーにはもはや寿命がきたのだ、というにはあまりにもかわいそう。

 臨終のまえ二晩も、三晩も、元蒲団屋は犬のからだを抱きしめて寝てやったという。『生類憐れみの令』を定めた5代将軍・徳川綱吉の時代ならば、元蒲団屋はご褒美として、どこか遠国の片隅の代官の地位を与えられたかもしれない。

 学生時代の写真が持ち込まれたことから、ゼミ誌のタイトル『サークル』の表紙を書いてくれた、星さんの身辺に話題が及んだ。かれは芸大受験に失敗したけれど、益子焼きの権威者になった。そのうえでアメリカに渡り、そこでも大成し、大学教授になったという報告を受けた。各人が次回まで、机や押入れから『サークル』を探してみよう、と約束した。


『大はし』『蜂の巣』の雰囲気はよかった。さすが居酒屋には目が肥えた元大学教授の推奨の店だ。次回は元焼芋屋が幹事で、五反田にある店に決まった。
 そこは九州・松浦水軍に関係した『倭寇』関連の店だという。『倭寇』と『元寇』が混同するなど、歴史上の説明がまったく要領を得ないので、これ以上の予告はやめる。

「小説家」トップへ戻る