A020-小説家

第2回のエッセイ添削教室

 作品提出者は10名、聴講生は1名で、25日、新橋生涯センターで行われた。人生経験豊かな受講者だけに、読み応えがあった。総評としては、文章力では前回に較べてレベルが上がっていた。全作品がスムーズに読めた。

 それぞれの作品の講評を記しておく。


上田恭子「パソコンとの出会い」
 パソコンに向かった『私』が孫二人とネットで遊ぶ。悪戦苦闘しながらも、ゲームにのめり込む姿を描く。高齢者特有の失敗談があったり、PC画面がフリージングで逃げだしたり、ユーモラスな作品である。
 現代の三世代を、パソコンを通じて描いている。作品の切口としては評価できる。
『何かが起きる三年目の夏』と、結末はうまく着地させている。

 
長谷川正夫「赤道祭」
 作者はグアムまで飛行機で乗りつけ、そこから豪華客船『飛鳥』に乗り込んだ。『赤道祭』はかつて一般によく知られていた行事。赤道通過の瞬間に汽笛を鳴らせるのは船長だけである。しかし、船長の配慮で、スイッチを押したのは体の不自由な船客の老紳士だった。この心温まる描写が光る。
 甲板の活劇では、船長が白い制服にクリームをたっぷりにかけられる。これらがユーモラスに紹介されている。  
 いまは航空機時代だからこそ、価値ある素材の作品だ。欲をいえば、作者の感動とか、心理描写とかがほしいところだ。 


二上 薆「雨の余情」
 テーマがしっかり押さえられている、上質な作品である。美文調の文体で、朗読すると、じつに心地よい響きがある。いまや美文調の文体で書けるひとはほとんどいなくなった。それだげに貴重な存在だ。
 世界各地の雨が、さりげなく四季の描写を兼ねて紹介されている。『雨』という語句が多くも、作中でしっかり吸収されている。取材力の点からも高く評価ができる。


山下 昌子「海辺の町」
 子供のころ千葉県・船橋で、二階家で一家13人の暮らしをしていた。母親が家計を支えるために、家庭菜園に精を出す。子どものころ見た情景がこまかく描かれている。作者にとって書き残した作品だと想いが伝わってくる。
 大家族でありながら、作中では必要最小限の登場人物だけに凝縮されている。この工夫は評価できる。
 書き方はやや平板だが、エープリルフールで、耳の遠い祖父をからかった、その心の痛みがいまなお残る。このエピソードはとくに高く評価できる。


高原 眞「大掃除・小掃除」
 歴史的な証言(記録)としても、書き記す価値がある作品だ。
『もう七月である。(省略)この時期になると、かつての大掃除が思い出される。終戦直後まで春と秋との大掃除が法律で決まっていて、役所から各家庭を検査しに来たものだ。(省略) 戦後大きく考えが変わったから、何時の間にか、この法律も撤廃されたのであろう』
 ここから先は、掃除がままならない「私」が無精なロジックを展開する。高尚な論理ながら、ただの横着、無精者。結末では小掃除の勧め。そういう展開が面白い、成功作品である。


中村 誠「年一度のクラス会」
 クラス会というシンプルな素材だが、毎年七夕の日という点に趣をおいている。同窓生が集まったクラス会。次のミニクラス会の幹事には『私』に指名される。この先が書き込み不足。指名された瞬間のと心理描写がほしい。 
 他方で、日本を嫌った商社マンが豪州に十数年住む友人の紹介がある。高年齢になると、諸般の事情と、日本への郷愁を含めた帰国したい想いが描かれている。友人の本音。それがこの作品を支えている。
 会の終わりでは『三々五々親しい仲間と、夕刻の銀座に散っていった』という展開。男子校のクラス会だという情緒をかもし出す。結末には余韻がある作品だ。


賀田 恭弘「富士登山」
 三度の富士登山が、それぞれの異なった理由で、登頂ができなかったという、エピソードがていねいに紹介されている。とくに六十年前の、年少の兄弟が山頂に登れなかったあとの、情景は圧巻である。胸にジーンと響くものがある。
 他の理由も、リアリティがあり、時代はやや古いけれども、現在でも登山エッセイとして充分に読み応えがある作品である。


森田 多加子「母親だなんて」
 子どもの視力が急激に落ちた。学校で視力検査があり、再検査の必要があるといわれた。病院でも、治療を告げられた。わが子の目が失明同然だと思いこみ、気が動転した母親のようすが克明に描かれている。
 夫にたいしては「仕事と子どもと、どっちが大切か」と迫る母親の描写には迫力がある。
 母親の『私』が人体実験で、目薬を指す。ここから話しがさらに展開し、つよく読者をひきつける。最後には読者にも安堵を与えてくれる、巧みな技法を持っている。
「驚きと驚愕」の表現が早々と出すぎたのが惜しまれる。


中澤 映子「天国に行った、ナッちゃんのシッポ」
 拾ってきた猫が十数匹もいる家庭。一匹の顛末をユーモアと悲哀で紹介している。事故にあった猫が尻尾を切るハメになった。断尾(ダンビ)手術が施された。身内同然の猫の悲劇。家族のゆれる心理が巧妙に描かれている。
「ナッチャンのシッポだけ、お先に天国に行った」この表現が光る作品だ。


塩地 薫「夜鳴橋の猫」 
 旧制高校の寮生活で、『お化けの肝試し』が紹介されている。真夜中に、猫のお化けが出てくると語る先輩。後輩の恐怖心が巧みに描写されている。
 恐れおののく友人がピストルを持ち、お化けを退治する。お化け役の先輩が驚いてしまう。まさに読ませる作品だ。
ラストで、筆の勢いから、友人の現在までも書いたことが冗漫になっている。その点が惜しまれる作品だ。

「小説家」トップへ戻る