A020-小説家

ちいさな自分史が二つに割れた・(小品の作品掲載)

 依頼原稿で、四百字詰め5枚で『ちいさな自分史』のエッセイを書いた。結婚後の夫婦の危うい関係と、島育ちの劣等感と、二つに割れてしまった。提出は夫婦ものにした。『島育ち』は昭和三十年代の港町の描写が書き込まれている。手を入れた小品として、HPに残すことに決めた。

         『島育ち』  

 私にはいまやっと胸を張って語れることがある。
「島育ちです。風光明媚な故郷ですよ」
 ここにくるまで数十年もかかった。

 十八歳で東京に出てきてから、出身地の話題が出てくると、「広島です」とつねに応えていた。大半のひとが広島市内だと思い込む。私は姑息にも、そのまま押し通していた。
 私が生まれた大崎上島は明治時代から、戦後の一時期まで、機帆船が潮待ち風待ちで立ち寄る、遊郭で名高い港町だった。島人が『女郎屋』とよぶ遊郭が海岸通りの両側にずらり並んでいた。公娼、私娼を合わせると、町には500人以上もいた。

 教員を辞めた父が、遊郭街の真ん中で魚屋を営んでいた。鼻を突く魚臭と、トロ箱に群がる銀ハエ。その不快さから、私は家業を嫌っていた。大人になったら、ぜったい魚屋にならないと心に決めていた。
 弟が進行性の小児麻痺だった。四肢が満足に動かず、木製人形が手足を動かす状態に似ていた。
(将来の面倒はだれが看る?)
 長男の私の肩にかかってくるのは明白な事実。それを考えると兄弟愛や家族愛に欠けるといわれても、避けて通りたいような、沈うつな気持ちにさせられた。

 夕暮れともなると、港はにぎやかな情景に変わる。女郎を乗せた、手漕ぎの小舟『おちょろ舟』が港内に停泊する内航貨物船の船舷に群がるのだ。おおかた五十隻以上はあったと思う。『おちょろ舟」で迎えられた船員が上陸してきて『女郎屋』で座敷遊びをし、女とともに寝泊りする。夜が早いうちは、私の家のまわりの遊郭から、三味線や太鼓の音が聞こえていた。

  父方の祖父は銭湯の釜焚きだった。銭湯の裏手の掘っ立て小屋にすむ。祖父母は貧しく、嫁にもいけない知的障害者の娘(私から見た伯母)を抱えていた。
(この奇声をあげる伯母も、将来、自分の肩にかかってくるのだ)
 それは遠い将来の妻にたいしての負い目だった。思春期とくゆうの『将来の理想的な夫婦、家族』そんな友人どうしの話にも溶け込めなかった。

 掘っ立て小屋の祖父は朝から伝馬船をこぎだし、昼過ぎまで海釣りをしていた。薪割りとか、釜焚きとか、浴槽の掃除とか重労働はすべて祖母に押し付けていた。風呂屋に暖簾が下がると、祖父は番台に座る楽な仕事についていた。
 男が番台。いまの時代ならば、男の目線があれば女風呂に客がこないと思う。当時の風呂屋は繁盛していた。各地に混浴浴場が残り、表通りからでも行水女の裸体が見られたころだ。裸身にたいしてあけすけな面があったのだろう。他方で、多くの家庭で内風呂が少なかったから、男が番台にいても、風呂に入らないわけにはいかない。そうした時代的な背景があったのだ。

 魚屋のとなりが、母方の叔母が経営する遊郭だった。子どもころの私は、祖父母が勤める銭湯に行くか、伯母が経営する『女郎屋』のもらい風呂か、どちらか好きなほうが選べた。
 伯母の家の『女郎屋』では、個室をあてがわれた『姐さん』たちが、夕暮れ前まで平然と下着姿で横たわり、昼寝をしている姿があった。夜になると三味線や琴や歌で、船乗りを楽しませる。それが姐さんの仕事だと信じ込んでいた。

 男と女の性で子どもが生まれると、私が知ったのは中学一年のときだった。その年に売春防止法で、港町から遊郭の灯りすべてが消えた。 売春の明かりが消えても、、『女の生き血が吸えなくなったな、おまえの伯母は』とだれかにいわれた負い目が、私の心にアザのように残った。

 ふたりの障害者への意識のみならず、悪臭の魚屋、風呂屋の釜炊き、女郎屋という職業的な劣等感が思春期とともに拡大していったのだ。島から逃げたかった。そのチャンスは唯一大学に入ることだった。近い広島市内の大学は嫌だ、遠い東京にいく。それがはたせれば島の環境からの脱皮になると信じていた。
 実現できた。大学で親しくなった学友は、だれ一人として島の環境など知らない。まわりの暗さからは解放された。のびのびした気分になれた。他方で、このまま島を語りたくない、劣悪な環境を教えたくない、という気持ちが強まった。隠せば、隠すほど、島育ちへの劣等感を一段と深める結果となってしまったのだ。

 私は三十歳から小説を書きはじめた。習作時代を過ぎたころから、『自分を裸にする』、『恥部でも赤裸々に書く』という姿勢がごく自然に身についてきた。加齢とともに、風光明媚な島だといい、ふるさとの美を語る題材が多くなってきた。島へのコンプレックスがすっかり消えていたのだ。

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