A030-登山家

ヒストリー・福島安正の単騎アルタイ山脈越え 上村信太郎    

 明治維新から25年後、まだシベリア鉄道はなく、日清・日露の戦争が勃発以前、1人の日本人が世界を驚かせた快挙がある。それは、当時まだ誰も成し遂げなかった厳冬期シベリア横断を、同僚や従者を伴わずに馬で完全踏破して日本人の存在を世界に示したことだった。

 その人物は当時ベルリン駐在武官の福島安正陸軍少佐(40歳)で、任務を終えての帰国にあたり、あえて騎馬で陸路を走破したもの。赴任地ベルリン出発に先立ち、福島はドイツ皇帝ウィルヘルム二世に謁見している。

 明治25年2月11日、英国産の9歳牝馬「凱旋号」に跨って勇躍出発。ベルリンを発ちポーランドのワルシャワ、ロシアのサンクトペテルブルグ、モスクワ、カザン、エカテリンブルグ、オムスク、セミパラチンスクを経由し、ロシアと清国(中国)国境地帯の山脈を越え、モンゴルのウランバートルから北上してロシアへ入った。さらに、バイカル湖畔のイルクーツクに立ち寄り、東シベリアのチタを経て、旧満州(中国東北部)に入り、ハルビンを経て三度ロシア入り、ウラジオストクから「東京丸」に乗船。釜山で汽船に乗換えてスタート翌年の6月29日横浜に上陸して市民の盛大な歓迎を受けた。

 所要日数は488日。延べ走破距離およそ1万4千㌔メートルだった。


 馬によるこれだけの長期旅行を実行するくらいだから、福島は騎馬隊出身と思ってしまうが実は歩兵。乗馬訓練は「凱旋号」購入のあと猛特訓している。

 また、幾つもの国を通過するのにどの国の言葉を使ったのか気になるが心配無用。福島は中国語、英語、ドイツ語、フランス語が堪能で、ロシア語を習得中だったからだ。

 この長大な横断のために福島が携行した荷物は全部で40㌔グラムと驚くほど軽量。主な持ち物は下着、手袋、洗面具、医薬品、地図、製図用具、日時計、晴雨計、馬体手入具、予備の蹄鉄、人馬の予備食糧1日分、護身用として軍刀と拳銃。他に寝具用毛布1枚と外套を鞍の後部に括り付けた。

 最初の難関はウラル山脈越えだ。入山5日目の7月9日、山頂に建つ「欧亜境界碑」に到達した。二番目は、ロシア、新疆ウィグル、モンゴルの国境に連なるアルタイ山脈越えだ。ロシア人将校の助言によりキルギス人の案内人を雇う。

 山脈中の富士山に似た峰に「アルタイ小富士」と命名したスケッチを残している。9月20日、ロシア国境警備隊に見送られて麓の村を出発。山中で大吹雪に遭うもウランタバ峠を突破。国境を越えて9月24日にモンゴル側の遊牧民天幕に到着。アルタイ山脈踏破は日本人最初であった。

 三番目はバイカル湖の東に位置するヤブロノヴィ山脈越え。標高こそ低いが厳冬期のため気温は氷点下30度以下。1月14日この山脈の峠を越えた。その28日後、アムール河上流の凍結した氷上で落馬し、昏睡状態に陥る瀕死の重症を負うも、奇跡的に恢復して旅を続行。


「単騎シベリア横断」を実行した福島の動機は、欧州人が事あるごとに日本人ら東洋諸国を軽蔑した態度をとるのに反発し、それなら世界初の偉業を達成して彼らの鼻柱を折ってやろうと思ったのが真相らしい。

 冒険ブームの今、「冒険家・福島安正」をマスコミが取り上げないのはもったいないと思う。


 最後に、単騎シベリア横断の主役は馬だ。「凱旋号」の運命は哀れ途中で死亡。すぐ現地で次の馬を購入して「ウラル号」と命名。ウラル山脈を越えたがケガをしたため手放す。難所アルタイ山脈越え直前にロシア人の牧場で5歳の牡馬を入手し「アルタイ号」と名付けた。

 全行程で購入した馬は10頭。この内、「アルタイ号」など3頭は日本まで連れてこられ、最後は上野動物園で余生を送ることができたのだった。

   (白山書房『山の本』112号掲載文を短縮)

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№250から転載

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