A030-登山家

野口五郎岳から水晶小屋、雲ノ平 ②

 野口五郎岳の山頂から、目指すは水晶小屋だ。2800メートル前後の稜線で、小さなピークをくり返し、登り下りする。左手にはいつまでも槍ヶ岳が同行してくれる。その面では、心地よい登山だ。

 登山靴の調子が悪い。靴底を張り替えてから2、3回とも、足の踵が靴擦れする。今回も、両足の豆がつぶれた。調布で買ったバンドエイドを張っているが、3日目ともなると、ほとんど効果ない。一歩ずつが痛みに耐えた歩き方になってしまう。

 水晶小屋の新築工事の鉄槌の音が、山岳に木霊す。前方には柱と屋根の組みが見えた。工事人の姿が豆粒程度だったが、距離が圧縮するほど2、人影が輪郭を持ってきた。

「ここから急な登りになるよ」
 小田さんの声で、まず一服する。あいかわらず休憩はショートで、すぐに歩きはじめる。
「きょうも快調?」
「いや。昨日は野口五郎小屋で、酒を飲みすぎた。多少は高山病のきらいがあるみたい」
 それにしても、かれの脚力は衰えていない。

  

水晶小屋が目前に聳えるように見えてきた。最後は急斜面だ。上を見ないようにして登るのがコツだ。一歩ずつ、靴擦れと対話しながら足を運んだ。
(ここらがきっとヘリが墜落した場所だろう)
大勢の死傷者を出した場所だ。そう思うと複雑な心境に陥った。ヘリの機体は撤去されたらしく、それらしき残骸はなかった。

 水晶小屋(2900メートル)の工事現場についた。【ヘリ墜落事故から奇跡の生還者。執念の山小屋作り】で紹介。ここから日本百名山の水晶岳は往復一時間半かかる。登頂はまったく視野になかった。小田さんが主人の伊藤圭さんから取材をしていた。


 正午、夫人の敦子さんから昼食が勧められた。十数人の工事人たちが一斉に手を止め、各々の場所に陣取った。食事は手作りの三色丼と味噌汁だ。おいしい。敦子さんはサービス面では気遣いの多いひとで、貴重なお茶を何度も煎れてくれた。

 隣り合う彼女からは、ヘリ墜落の瞬間とか、機内の生々しい状況の話しが聞けた。三ヶ月経ったいま、額の傷は小さい。しかし、心理的障害は残っているはず。山小屋は下界との往復にヘリが不可欠。徒歩となると、片道丸二日かかるのだから、ヘリにたいしてトラウマになっていると大変だろう。そんな心配が脳裏を横切った。

 昼食のお礼などを言ってから、雲ノ平へと向かう。きょうも他の登山者に出会わない。静かな天気の良い裏銀座コースだ。梅雨の中休みで、毎日、空は晴れているし、ずいぶん得した気持ちになれた。
残雪をかぶる祖父岳(2825メートル)の稜線がそびえる。鞍部の岩苔乗越にむかって下っていく。私は一つの後悔に拘泥していた。

(伊藤夫婦の写真を撮らせてもらっておけば……)
 写真があれば、ヘリ墜落にも負けず、伊藤夫婦は艱難を乗り越えている、という内容で、良い記事がかけた。いいネタだったのに、と悔やまれた。
 最近はジャーナリスト精神が身についてきたのか、逃した記事には、いつまでも後悔になって尾を引いてしまう。

 岩苔乗越では、稜線の雪渓の角度は急だ。アイゼンを出すべきか否か、と迷う。4月の八ヶ岳・硫黄岳の滑落事故が脳裏を横切る。本来は慎重になるべきだ。しかし、ザックからアイゼンを取り出すのも面倒だし、脱着には時間がかかる。岩場と雪渓が入り組む地形だ。いちいちアイゼンを外したり、装着したりするのは億劫だ。ピッケル・ワークだけに生命を預けることに決めた。


 祖父岳の稜線を登りきった。山頂から見た、黒部五郎岳には雲がかかるが、天候は上々だった。眼下には台形の大地の雲ノ平が見える。4キロ四方の大地には、雪があばたに残ることから、高山植物の開花は期待できそうにもない。

 祖父岳・山頂から雪の斜面を下りきった。木道が続いたかと思えば、道が雪の緩斜面のなかに消えてしまう。濃緑の這松帯のなかに入ると、石ころの道だ。
 池糖(ちとう)は枯れていた。登山道が排水の役割をし、水が消えているようだ。木道に入ってからも、雲ノ平山荘までは思いのほか遠かった。

 
「お疲れ様」
 山小屋の男子従業員が窓越しに声をかけてくれた。主の伊藤二朗さん(28)のほかに、男女3人のアルバイトが働く。
 小田さんは雲ノ平山荘で2泊、そして野口五郎小屋まで引き返し、そこでも2泊する予定だ。ともに山小屋開きの手伝いだという。
 私はあすから単独行で、三俣蓮華岳を経由し、双六岳に向かう。明日じゅうに槍の肩小屋までいけないだろうか。それが可能ならば、翌々日には上高地を経由して東京に帰れる。
 雲ノ平からは槍ヶ岳まで長い距離は長くて、10時間は必要だ。2、30代のころと違い、登りの歩速は遅い。靴連れの足を考えると、とても無理だろう。
 雲ノ平山荘には割りに早い到着だったことから、手持ちぶさたの感がある。地図を出しては何度も槍ヶ岳コースを研究する。体調しだいだという結論を出した。
 憩いの間をのぞくと、小屋主の伊藤二朗さんは音楽フアンだろう、セミクラシック曲が大きなボリュームで流れていた。小田さんは小型パソコンで、記事を書いていた。私はもう一度槍ヶ岳に拘泥した。

 夜は宴会。雪笹(アマナ:長野地方の呼び名)が天ぷらで、食卓に出された。タレよりも、天ぷらには塩。ふだんからそう決めている。雪笹の甘さが口のなかに広がった。ビールがうまい。

 長崎大学を休学したアルバイト男性、詳細は聞かなかったが20代前半の女性。5人の語らい。山小屋を取り巻く現状を聞く。最近は、山小屋から出たものを燃やすと、登山者からの告発が多い、という。全国的に「焚き火禁止」という規則ができた。北アルプスの山小屋は、国立公園だけに法的な規制が多く、諸々の苦労があるようだ。


 父親の伊藤正一さん(84)は若いころ、物理学専攻の学級肌だったという。戦後、山小屋の経営に乗り出した。人物的に興味から、PJニュースの「横顔」シリーズに書きたいと思った。二朗さんが「ぜひ三俣山荘に寄って父親の話を聞いてあげてください」という。そのうえで、「三俣山荘に、きっと泊まることになりますよ。父は話し好きですから。戦前からの話を聞くとなると」
 三俣山荘には双六岳よりも、はるか手前だ。ここから3時間のコース。その先を考えると、中途半端な宿泊拠点で、翌々日は途轍もない強行軍となってしまう。
「いいでしょう。立ち寄ってみます」
 私は人物を書くことが好きだ。この機会を逃したくないと思った。水晶小屋の伊藤夫婦の写真を撮っていなかった。……。その後悔の繰り返しを避けたかった。三俣山荘に立ち寄ることにした。他方で、槍ヶ岳行きは完全に諦めた。

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