ジャーナリスト

「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」④ 裕仁天皇が進んで神から人間に降りた日

 昭和20年8月14~15日は、危機一髪の局面の連続であった。この間に、終戦の奇跡が起きたのだ。

 同年8月9日、鈴木貫太郎はすでに御前会議を開いて、裕仁(ひろひと)天皇の聖断をあおいでいる。天皇は「ポツダム宣言」の受諾だった。この結果はまだ国民に知らされていなかった。それゆえに、国民は焦土のなかで、「一億総玉砕」の覚悟で、敵と死の本土決戦に備えている。
 特攻機で日々、大空に飛び立つ若者もいた。

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 日本はかって一度も敗戦した経験がない。軍人も官僚も、敗戦の処し方が手際よくできなかった。ここに大きな問題が生じた。

 ポツダム宣言(13か条)の受託となると、「大日本帝国憲法」の変更は必然的になる。同憲法の第一条は「万世一系の天皇が、これを統治する」である。ポツダム宣言にはこの天皇制について、まったく明記されていなかった。

 和平派、交戦派ともに問題視した。

 ポツダム宣言第10条には、「国民における民主主義的傾向の復活を強化する」と記されている。民主主義とは人民が主権を持ち行使する政治である。関係者のだれもが海外留学、外国武官の経験がある。「これでは天皇大権の否定ではないのか。天皇制が維持できなければ、ポツダム宣言の受けるに及ばず。戦争を継続する」
 阿南惟幾(あなみ これちか)陸相は、陸軍省の従来の意見を再熱させた。(写真・右)
「あなたが何と言おうと、日本は戦争に負けている。沖縄戦と、本土の空爆、原爆、ソ連侵攻、どれを見ても負けている」
 米内光政(よない みつまさ)海軍大臣が主張した。
「海軍が南洋の諸島で負けているが、中国大陸で陸軍は敗けていない。日本全体が戦争に負けた状態ではない」
 阿南陸軍大臣の執念は凄まじかった。
 阿南陸相と米内海軍相はともに譲らず大激論になった。

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 鈴木貫太郎首相が、ポツダム宣言を無条件に受け入れるだけでなく、「天皇の護持(ごじ)」について質問を付帯しようときめた。護持とは、維持する、を敬う表現である。
スイスを通じてアメリカと中国に、さらにはスウェーデンを通じてイギリスとソ連に伝えられた。天皇護持の回答待ちになった。

 それを受け取った連合国がわのイギリス、ソ連、中国は、これは日本の策略であり、戦争継続だ、と受け止めていた。アメリカは、ルーズベルトに弔電を送った鈴木貫太郎は信頼にたり得るとした。他の3か国は、原爆の威力を見せ付けたアメリカの意見に逆らえなかった
 
 連合国を代表して、バーンズ氏から8月12日に回答が返ってきた。

 第1項で、『天皇は連合軍最高司令官にsubject toする』と短く記されていた
 現代でも、それにずばりあてはまる日本語がない。英語の独特な言い回しの法律、商業用語である。
 第4項に『最終的な日本の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定される』とある。天皇は「現人神」なのに、選挙で選ばれた一般国民が天皇制について決めればよい、というアメリカ的な思考だった。

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 外務省が、「subject to」を「制限の下に置かれる」と翻訳した。一方で、陸軍省の英文和訳担当が、「隷属する」と表現にしたのだ。
 
 阿南陸相は、天皇が隷属では、国体(天皇制)維持が不可能になる。本土決戦だ、と主張した。陸軍省のなかに、青年将校たちによるクーデターの動きが出てきた。青年将校らが、死を怖れぬ、と叫んでいる。
 阿南はむしろそれを抑えるのに躍起(やっき)になりはじめた。
 
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 海軍内にも交戦派の上級将官が多くいた。
 同年8月12日(終戦3日前)、海軍省の軍令部総長の豊田副武と、陸軍省の参謀総長の梅津美治郎が、示し合わせて、昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対するように上奏したのだ。
 海軍と陸軍のナンバーツーが徹底抗戦論であった。


 いまの近代史の学者、作家、ジャーナリストには、「陸軍悪玉論・海軍善玉論」を唱えるひとが多い。それは違う。鈴木内閣に和平派の首相経験が3人揃ったからそう見えるだけで、歴史の結果にただ乗りしているだけである。

 米内光政海軍大臣(写真・上)は、すぐさま当事者の豊田副武と、もうひとり問題のある軍令部次長の大西瀧治郎(神風特別攻撃隊の創始者の一人・録音放送のあとに自決した)の二人を呼びだした。米内がこれほどまでに、顔色を変えたことはなかったと記録されている。

 豊田には「重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か」と怒った。
 大西には「意見があるなら、大臣に直接申し出てこい。招かれていない最高戦争指導会議(9日)に、不謹慎な態度で入って来るなんて、実にみっともない」と叱責しているのだ。

 米内は日独伊三国同盟にも「わが国はドイツのために火中の栗を拾うことはない」と猛反対した人物である。その後、米内は内閣総理大臣になった。
「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば、戦争になることはなかったかもしれない」と天皇は語っている。

 その元首相が当時(昭和20年半ば)の情況で、最も怖がっていたものはなにか。
「わたしは軍人だから、戦争で負ける怖さなどなかった。原子爆弾やソ連の参戦がこわいのではない。しかし、日本の民が食糧事情の悪化、住居の焼失し、満足に教育も受けられず、理性が喪失し、秩序が崩壊し、民が暴走してしまう。その日本の内部崩壊が最も怖かった」
 それは軍人政治家が、国民の支持を失うことだった。
 米内はことばにしていないが、民衆革命かもしれない。イギリス、フランスのような皇帝のギロチン虐殺におよぶ、政治崩壊かもしれない。
 米内は6月ごろから側近に、その理由でしばしば辞意を漏らしていた。海軍大臣が辞表を出せば、鈴木貫太郎内閣が瓦解(がかい)するので、耐えていた。

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 もうひとりの和平派の岡田啓介(けいすけ)は2.26事件のときの首相だった。官邸内で義理の弟が射殺されて、当人は助かっている。この2.26事件では、鈴木貫太郎も「君側の肝」(くんそくのかん)として銃弾を浴びて、妻の素早い判断と、治療もあり奇跡的に助かった。
 岡田啓介は海軍軍人の最長老で、昭和15年から重臣会議のメンバーだった。「ガダルカナルの戦いは消耗戦で、兵力のすり潰しだ」と言い、米内と歩調を合わせて東条英機内閣を倒した人物である。

「戦争は始めるよりも、止める方がむずかしい。まして、軍人がみずから敗戦に持ち込むのだから。この気持ちは軍人しかわからないだろう」
 それは岡田元首相が胸のうちの辛さを語ったものだ。

 阿南陸軍大臣は、「自分は鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」と辞表の提出は、だれが勧めてもかたくなに拒んでいる。

 8月14日に、鈴木貫太郎はふたたび御前会議で、昭和裕仁天皇の聖断を仰ぐことになった。

「私自身はいかになろうとも、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」
 昭和天皇の聖断を聞いていた閣僚らは、悲痛な慟哭(どうこく)に変わっていった。椅子からずり落ちる者や、床にくずれて号泣(ごうきゅう)する者、拳をにぎりしめて耐える者などがいたという。
 御前会議は8月14日正午に終わり、日本の無条件降伏が正式に決まった。
 8月14日には、スイスおよびスウェーデンの日本公使館を経由して、連合国に通告した。日中戦争の開始から15年目、太平洋戦争からは4年目、第二次世界大戦全体からだと7年目であった。
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 この日のうちに、天皇みずから終戦の『玉音』放送の録音にのぞんだ。翌日の8月15日正午に「玉音放送が流される予定である。録音盤はNHKの手から、いったん宮内庁の職員の手に預けられた。

 この段階で、陸軍省の将校と近衛師団参謀によるクーデターがおきたのである。総理官邸および鈴木貫太郎の小石川にある私邸が襲撃された。鈴木は警護官に間一髪のところ救い出された。しかし、鈴木の私邸は放火されてしまった。かれは2.26事件に続いて生涯に2度にわたる暗殺未遂に巻き込まれたのである。

 クーデターを起こした将校たちは、近衛第一師団長を殺害した。そのうえで、卑劣(ひれつ)にも、師団長命令を偽造した。そのニセモノの命令書で、近衛歩兵第二連隊の隊員たちに宮城(皇居)を占拠させたのだ。
「天皇の玉音放送が流されたら、もはや一巻の終わりだ」
 かれらは正、副の2枚の録音盤の家探しをはじめた。宮内庁の職員が巧妙に隠していた。他の部隊は動かず、かれらのクーデターは失敗に終わった。そのなかの数人が自殺した。ただ、終戦の大混乱で、逮捕も、刑罰も及ばなかった。
 宮城事件、終戦反対事件、あるいは八・一五事件とも呼ばれている。

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 8月15日の未明には、阿南惟幾陸軍大臣が割腹自殺した。現職大臣の自殺は、明治時代に組閣がはじまって以来、初めてである。
 その直前における阿南陸軍大臣の行動が残されている。
 鈴木内閣の閣僚たちが「終戦の詔勅」に署名した。連日の議論で疲労困憊してしばしの休憩をとっていた。
 軍服を正した阿南陸相が東郷外務大臣にのそばに寄ってきて、上半身を15度に折った最敬礼をした。
「さきほど、連合国側に、わが方の希望を申入れる外務省の案を拝見いたしました。『保障占領』および『軍の武装解除』について、この処置はまことに感謝にたえません。御前会議であれほど強くいう必要はありませんでした」と謝罪してきた。

 阿南はそのあと鈴木総理大臣室を訪れた。
「終戦の議が起こりましてから、自分は陸軍の意志を代表して、強硬な意見ばかりを申し上げてきました。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたし、閣僚として、はなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持でありまして、他意はありませんでした。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪した。
「わかっていたよ」
「南方の葉巻です。私は喫いませんから、どうぞ」
阿南が立ち去ると、「暇乞いにきたんだね」と鈴木は側近に漏らした。
           

 8月15日正午、昭和天皇が国民に直接呼びかける玉音放送が流れた。大勢の国民が口惜しさで、泣いた。勝利を信じて疑わなかったのに、敗戦である。
 国民は生まれてはじめて天皇のことばを聞いた。天皇が天上の神から人間に降りられた瞬間でもあった。だれもが素直に終戦に従った。

 ここに鈴木内閣の使命が終了したのである。3人の首相経験者が、最も困難な「戦争の幕引き」という仕事をやり遂げたのである。

 戦後の日本を統治するGHQは、鈴木貫太郎、米内光正、岡田啓介の3人にたいして逮捕する態度すら見せなかったのである。

 日本の鈴木内閣がもし「ポツダム宣言」を即時無条件降伏していれば、広島・長崎の原爆は回避されたし、8月9日のソ連軍の対日戦争はなかったのではないか、という批判がある。
「天皇陛下に、2度も御聖断を頼むことができた。他の人では到底できなかった」
 米内海相のことばの重みを感じる。

 1か月前、日本の各新聞社は、「ポツダム宣言」にたいして「笑止、対日降伏条件」、「(連合国の)共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦あくまで完遂」、「白昼夢 錯覚を露呈」と見出しをつけて、徹底抗戦をあおっていた。岡田が「ノーコメント」と談話を出す前にである。

 天皇の聖断がない場合、メディアがはたして和戦への誘導が代行できたのだろうか。否、戦意高揚を叫び、「全員が死ぬまで勇ましくて戦うぞ」と、格好いい報道で、勝利の見込みない戦争へと導いただろう。それは日本人玉砕の道である。軍部だけでなく、メディアの反省がなければ、全体が見えない。

 3年後の鈴木貫太郎は死の床で、「永遠の平和、永遠の平和」と二度くり返したという。


写真:ネットより利用させていただきました

【スポット】
 
 鈴木貫太郎の妻・たかさんは札幌生まれ、父はクラーク博士の教え子の一人である。
 たかは、東京女子高等師範(現・御茶ノ水大学)卒で、同校の幼稚園の先生であった。木戸孝正東宮侍従長に見込まれて、宮中に上り、明治38年から大正4年まで昭和天皇(4歳~、秩父宮(3歳~)の養育担当となった。
 たかが、鈴木貫太郎に嫁ぐにあたり、昭和天皇は「たかとは、ほんとうに私の母親と同じように親しくしました」と記者団に語っている。

 鈴木貫太郎は約8年間にわたり侍従長であり、夫婦して天皇とは身近な存在であった。だから、78歳にして、裕仁天皇に聖断を願うことができたのだろう。

 米内海相がいう。鈴木しか、それはできなかったという根拠の一つだろう。

                               【了】

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