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「終戦をもって日本国民を救う=鈴木貫太郎」③ 長崎の原爆、ソ連の参戦。日本民族の生死の聖断に持ち込んだ

 昭和20年8月の広島・長崎に原爆投下、ソ連が千島列島と満州に参戦してくる。そのまえに、日本はなぜ半月前に、「ポツダム宣言」(全13か条)を受け入れなかったのか。もし、受諾していれば、原爆もソ連参戦に及ばなかったのにと、素朴におもう。
 最大の理由は、明治22年制定の「大日本帝国憲法」には、内閣規定がなかったからである。

 同第55条には、「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)しその責に任ず」としか定められていなかった。絶対君主の天皇が任命した大臣にたいして、首相には罷免権がなかった。それゆえに、大臣がひとりでも辞めれば、閣内不一致で、その内閣は倒れた。

 過去には海軍省、陸軍省が大臣の推薦をせず、首相が組閣できず、内閣が成立しなかったケースもある。

 明治以降の歴代の首相は、政策決定の段階で、つねに陸軍大臣、海軍大臣の顔色をみていた。それが、わが国が軍部独裁を招いた、大きな起因であった。
 ちなみに、過去の反省から、現行の「日本国憲法」は、内閣規定を細かく定められている。

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 鈴木貫太郎は、高齢の77歳であり、耳も遠いと首相を断わっていた。「耳が遠くても、鈴木が引き受けなさい」と言われるほど、昭和天皇からの信任は厚い。
 首相を引受けた鈴木は、みずから陸軍省にでむき、阿南惟幾(あなみ これちか)を陸軍大臣に指名した。阿南はかつて侍従武官(天皇を近侍する)を務めており、岡田がそのときの上司だった。海軍、陸軍を越えて二人の気心が知れていた。

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 陸軍省は鈴木に「本土決戦」を条件付きに、阿南を大臣に送りだしてきた。これが4月7日に誕生した鈴木内閣の、首相の足枷(あしかせ)になっていた。
 軍部要求の本土決戦にたいして、鈴木は否定せず、それに撤するかのような発言をくり返す。陸軍に敵対しない態度をしめす。それしか鈴木は内閣を維持できなかったのだ。

 ただ、胸のうちでは、こんな戦争はやるべきではない、という信念をつよく持っていた。口の端々からもれることがあった。

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 日本列島の各都市は連日、夜間の低空爆撃で、次々に焦土となっていた。この前年は凶作で国民の食料は不足している。空襲は激しい。戦艦大和は撃沈されてしまう。沖縄戦も敗戦濃厚だ。制海権も、制空権もほぼ失ってしまう。特攻で、若者たちが命を失っていく。

 本土決戦が現実的なものとして、日本全国の各地で男女を問わず、竹やりによる軍事訓練をおこなっている。

出典: 朝日新聞

 ある日、鈴木首相がその現場を視察した。武器といえば、先込め単発銃、竹槍、弓、刺又などで、徳川時代のような代物だ。旧藩士、庄屋の納屋から持ち出してきたものであろう。
 頭上の敵はB29という大型爆撃機である。米陸軍が本州に上陸すれば、高性能な戦車による火砲で襲撃してくる。沖縄戦では軍人も民間人も玉砕ともいえる犠牲者を出している。
「陸軍は本気で、『国民義勇戦闘隊』に、これらの兵器で戦わせようとしているのか。狂気の沙汰だ」
 と洩らしている。
 鈴木は日露戦争の海戦の実践経験者だ。見学する目のまえで、鉢巻した女子が単発銃、竹槍、弓で訓練している。その姿みて、本土決戦はとうてい無理だ、国民の命の失う、人命消耗戦だと考えたのだろう。

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 鈴木は、外務大臣に東郷茂徳(とうごう しげのり)を「外交はすべてあなたの考えで動かしてほしい」と据えていた。
 外務省はときに軍部とちがったうごきをする。
 東郷外相は、昭和天皇の意をうけて終戦交渉の先をさぐっていた。かつて駐在ソ連大使の経験から、ソ連の在日大使を通して、和平の仲介を依頼した。ただ、ソ連の態度はあいまいで、要求に対して回答が不明なまま、月日が推移していく

 さかのぼれば、前任の小磯首相のときに4月5日、ソ連は日本政府に「日ソ中立条約」の不延長を通告してきているのだ。その裏にはヤルタ会談(昭和20年2月4日から7日間)があった。

 ルーズベルト(アメリカ)とスターリン(ソ連)の間で、「日本に関する秘密協定」が結ばれていたのだ。

① ドイツが降伏したから90日に、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破棄したうえで、日本領土に侵攻する。
② その見返りで、ソ連には南樺太、千島列島、満州の権益をわたす。

 ソ連が対日参戦するのかな、と東郷外相は多少の懸念を持ちながらも、ソ連がなお中立国だと信じていた。その上で、対米英との和平講和(終戦工作)の仲介の労をはたらきかけていたのである。
 箱根・強羅ホテルが仮のソ連大使館だった。外相はそちらに出むいてマリク駐日大使と交渉していた。
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 戦局が切迫した昭和19年に、外務省は在京外交官と家族の避難として、箱根と軽井沢を提供した。ソ連、ドイツ、イタリア、タイ、ビルマ、フィリピン、満州国、中華民国の大使館員及び武官たちの住居も含めていた。
 昭和20年はすでに食糧、燃料等の諸物資が乏しくなっていたが、政府は特別の増加配給を行っていた。

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 東郷外相の和平工作の依頼に、ソ連はつねに非協力的だった。その反面、裏では、アメリカに「日本から仲介依頼があった」と筒抜けだったのだ。
「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい。そのために、ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」
 トルーマン大統領ら米国は、もはや原爆開発から作戦使用のステージに進んでいたのだ。
  
 鈴木首相は元関宿藩(千葉県)の藩士の子で生まれ育っていた。德川家の視点で、江戸城の引渡しの場面をたとえにして、「スターリン首相の人格は、西郷南洲に似たものがあるようだ」と側近に警戒心を語っている。

 鈴木内閣としては、モスクワに特使として近衛文麿元総理を派遣する方針を決めた。7月に入り、ソ連側にそれを打診した。しかし、ソ連側は回答を先延ばしにするばかり。やがて、7月26日、アメリカの短波放送がポツダム宣言の内容をつたえてきた。


写真:wikipedia
 
 その内容は『日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針」などを表明したものだった。軍国主義の除去、領土の限定、武装解除、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化、連合国による占領などの規定が摘記されていた。
 当時の軍国主義の日本にとって、有利なものは何ひとつない。
 
 ここから、歴史がおおきく動いた。

 東郷外相は、ポツダム宣言は基本的に受諾した方がよい、と主張した。ただ、ソ連が宣言に参加署名していない。なぜ、ソ連との交渉で明らかにするべきである。
 阿南陸相は、東郷の見解に猛反対し、全面拒否を主張する。

 アメリカの放送は日本の新聞社も傍受していた。7月28日朝刊には「笑止」(読売新聞)「黙殺」(朝日新聞)と見出しをつけていた。
          
 鈴木首相は閣議に諮ったあと、「カイロ会談の焼直しだちとおもう。政府としては重大な価値あるものとおもえない。ただ黙殺するのみ。従来通り、あくまでも戦争完遂に邁進するのみである」と述べた。
 連合国はこの「黙殺」を「reject(拒否)」と訳した。

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 昭和20年8月9日に最高戦争指導会議があった。
 ふたつに意見が分断した。一つは「ポツダム宣言」を無条件に受諾し、戦争を終結させる。もう一つは、このまま本土決戦を覚悟して戦争を継続すべし。互いに譲らず、激論を戦わしていた。
「わたしは陸軍大臣を辞めます」
 もしも阿南がそうしたならば、閣内不一致で、鈴木内閣はつぶれてしまう。どんなに激論になっても、阿南はそのカードをまったく使わなかった。ふたりの間に、かつて侍従長と侍従武官という呼吸があった。

 この会議のさなかに、長崎に原子爆弾が投下が知らされた。閣議は午後8時になっても、会議は議決しなかった。いちおう休憩になった。

 鈴木首相は、ここで天下の宝刀を抜いた。事態収拾の唯一のカードだった。鈴木は秘かに昭和天皇に拝謁した。
『いよいよの場合は、陛下にお助けを願います』
 昭和陛下のご聖断を仰ぎます、と事前に話したのだ。
 
 「御前会議」は厄介な手続きがいるが、鈴木は巧くごまかしたという。そして、御前会議は8月9日の夜11時から開催された。
 そこは宮中の防空壕内で、地下10メートルの一室で約15坪くらいだった。

        写真:wikipedia

 首相・外務・陸軍・海軍の4人の大臣。さらに、陸軍参謀総長・海軍の海令部総長、平沼枢密院議長の7名が正規の構成員である。ほかに陪席員4人だった。

 司会(迫水久常・内閣書記官房)が「ポツダム宣言」の条文を読む。当時の日本軍には屈辱的な内容ばかりである。

 外務大臣は「この際ポツダム宣言を受諾して戦争を終るべきである」という。米内海軍大臣も受諾に賛成。かたや、阿南陸軍大臣は、「必敗だときまってはいない、本土を最後の決戦場として戦う。地の利あり、人の和あり、死中活を求め得べく、もし志とちがうときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を残すこそ本懐である」と主張した。

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 昭和天皇は2時間半も、意見の分断を熱心に聞いていた。
 鈴木貫太郎首相がおもむろに立ち上がった。
「陛下。ただ今、お聞きの通りでご座います。列席者の一同は、熱心に意見を開陳いたしました。事態は緊迫しております。誠におそれ多いことではご座いますが、天皇陛下のお思召しで、私どもの意見をまとめたいと思います」

 昭和天皇は緊張した顔だった。すこし身体を前に乗りだし、
「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である」
 それは建国2600余年で、日本が始めて敗れた瞬間であった。静寂。これ以上の静寂はなかった。

「念のため理由を言っておく。この戦争が初まってから、陸海軍はどうも予定と結果がたいへんに違う場合が多い。いま陸軍、海軍とも、本土決戦の準備をしておる。勝つ自信があると申しておる。自分はその点について心配している」
 先日、参謀総長から九十九里浜の防備について話しを聞いた。天皇は侍従武官に実地をみさせてきた。総長の説明とは非常に違って、防備はほとんど出来ていなかった。ある師団の装備は、兵士に銃剣さえ行き渡っていないありさまだ。

「これでは日本民族はみな死んでしまう。そうなったら、どうして、この日本という国を子孫に伝えることが出来るか。今日(こんにち)となっては、一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人たちが将来ふたたび起ち上ってもらう。それ以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」
 
 参列者の全員が涙して聞いている。

「それに、このまゝ戦を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉のときの、お心持も考えた。自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと、忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をしたしだいである。」

 参列者の号泣がつづいた。

 天皇のおことばはさらに続いた。国民がよく今日(こんにち)まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者・戦傷者にたいするお心持、また遺族のこと、さらに外国に居住する日本人(引揚者)、戦災に遭った人にたいして、ご仁慈のおことばが述べられた。(迫水久常氏の記録・抜粋)
 そして、昭和天皇は立ち上がり、地下の部屋を出て行かれた。

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 鈴木貫太郎の最後のカードの1枚は「昭和天皇陛下の聖断」だった。しかし、すんなり8月15日の玉音放送とはいかなかった。
 次回は8月14~15日の日本の運命を決めた緊迫した内容を紹介します。

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